「一人ではない」
夕方、庁舎を出る前にスマートフォンが震えた。
神宮寺ソウからだった。
メッセージではなく電話だった。
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「神崎。今、どこだ」ソウは言った。
声がいつもより低かった。
「庁舎です」ハルトは言った。「これから帰ります」
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「今日は一人で帰るな」ソウは言った。
「何かあったんですか」
「協会の周りがきな臭い」ソウは言った。「お前の名前が出てる」
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ハルトは少し黙った。
「私の名前が、どう出ているんですか」
「定義の件で、お前を目障りに思ってる連中がいる」ソウは言った。「ただの噂だ。ただ、いつもの噂とは質が違う」
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「わかりました」ハルトは言った。
「誰かと一緒に出ろ」ソウは言った。「何かあれば、すぐ連絡しろ」
電話が切れた。
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ハルトはフロアを見た。
岸本が帰り支度をしていた。
「岸本さん」ハルトは言った。「途中まで一緒にいいですか」
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「もちろんです」岸本は言った。
二人で庁舎を出た。
駅までいつもの道を歩いた。
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「主任、何かありました?」岸本は言った。
「用心です」ハルトは言った。「念のため」
岸本はそれ以上聞かなかった。
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改札で岸本と別れた。
そこから家までは一人だった。
ハルトはソウの言葉を頭に置いた。
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いつもの道を少し変えた。
人通りの多い大通りを選んだ。
街灯が明るかった。
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だが、アパートの手前で。
大通りから細い道に入らなければならなかった。
そこだけは暗かった。
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道の先に、人影が二つあった。
ハルトは足を止めた。
後ろにも一人いた。
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三人がハルトを囲んだ。
顔は見えなかった。
一人がゆっくりと手を上げた。
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構えだった。
ハルトはその構えを見た。
頭の中の六百件の術式記録と照らした。
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火系。基本術式。正面に来る。
ハルトは横に飛んだ。
炎がすぐ横の壁を焦がした。
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熱が頬をかすめた。
まともに当たっていたら。
そう考える暇もなかった。
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「余計な記録を残す男か」一人が言った。
「お前が、線を引き直そうとしている」
「線は動かさせない」
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ハルトは魔法を使えなかった。
三人は魔法使いだった。
まともにやれば、勝ち目はなかった。
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でも、ハルトは全部の術式を知っていた。
構えを見れば、次が読めた。
自分が三島たちに言ったことだった。
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肩を見ろ。術式の向きは肩で決まる。
ハルトは正面の男の肩を見た。
風系。右から来る。
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半歩、身を引いた。
風の刃が左肩をかすめた。
服が切れた。
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ハルトは声を上げた。
「誰か」
大通りの方へ後ずさった。
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だが、後ろの一人が風を放った。
足を払われた。
ハルトは地面に倒れた。
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手をついた。
手のひらがアスファルトで切れた。
血がにじんだ。
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男が近づいてきた。
もう一度、手を上げた。
ハルトは立ち上がろうとした。間に合わない。
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そのとき、風が変わった。
横の路地から突風が来た。
三人がまとめて吹き飛ばされた。
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風の質が違った。
桁が違った。
ハルトはその風を知っていた。
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神宮寺ソウだった。
路地から歩いて出てきた。
ハルトの前に立った。
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「遅くなった」ソウは言った。
攻撃者たちが体勢を立て直した。
ソウが右手を軽く上げた。
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もう一度、風が渦を巻いた。
一人が壁に叩きつけられた。
残る二人が後ずさった。
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「Sクラスだ」ソウは言った。「お前たちの手には負えない」
低い声だった。
「今日は引け。次はない」
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三人は顔を見合わせた。
そして暗い道の奥へ走って消えた。
風の音が止んだ。
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ソウが振り返った。
ハルトの手を見た。
血が垂れていた。
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「立てるか」ソウは言った。
「はい」ハルトは言った。
ソウが手を貸した。ハルトは立った。
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二人で大通りまで歩いた。
明るい場所に出た。
ソウがハンカチをハルトの手に巻いた。
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「神宮寺さん」ハルトは言った。「なぜ、ここがわかったんですか」
「きな臭いと言ったろ」ソウは言った。「だから近くにいた」
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ハルトはソウを見た。
「あの人たちを知っているんですか」
ソウは少し黙った。
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「昔の知り合いに近い連中だ」ソウは言った。
それ以上は言わなかった。
ハルトもそれ以上は聞かなかった。
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ただ、一つだけ聞いた。
「なぜ、私を助けたんですか」ハルトは言った。
「神宮寺さんは、区分を守る側に近い人だと思っていました」
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ソウは長いあいだ黙っていた。
大通りの車の音が流れていった。
それから口を開いた。
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「わからん」ソウは言った。
「昔の俺なら、こっち側にはいなかった」
「魔法使いは特別だと、本気で思っていた」
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「でも」ソウは言った。
「お前がたった一人で、記録を積んでるのを見て」
「魔法も使えないのに、線を変えようとしているのを見て」
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ソウは少し笑った。
淋しい笑い方だった。
「放っておけなくなった」
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「イデオロギーより」ソウは言った。「お前の方が重かった」
「それだけだ」
ハルトは何も言えなかった。
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「ありがとうございます」ようやくハルトは言った。
「礼はいい」ソウは言った。
そして、少し間を置いた。
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「俺はまだ、お前に返しきれてないものがある」ソウは言った。
「返しきれてない、というのは」
「いつか話す」ソウは言った。「今日は帰れ」
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ハルトはソウの顔を見た。
何か言いかけて、やめた。
聞くべき時ではなかった。
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ソウは背を向けた。
「神崎」ソウは言った。「これで、はっきりした」
「何がですか」
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「向こうは、線を守るために暴力を使う」ソウは言った。
「記録だけじゃ、間に合わないこともある」
「気をつけろ」
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ソウは歩いて消えた。
ハルトはその背中を見送った。
なぜ、あの人はあんなに詳しいのか。
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その問いは心の隅に残った。
でも、今夜は置いておいた。
手のひらがまだ痛かった。
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家に帰った。
手を洗った。
傷を消毒した。
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リアに電話した。
事件のことを伝えた。
「今、警察に連絡します」リアは言った。「神崎さん、無事ですか」
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「無事です」ハルトは言った。「神宮寺さんが助けてくれました」
「神宮寺さんが」リアは言った。
少しの間、リアは何も言わなかった。
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「明日、詳しく聞きます」リアは言った。「今日は休んでください」
「はい」
「神崎さん」リアは言った。「無事で、よかった」
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電話を切った。
デイヴィッドにも報告が回るだろう。
事件は大きくなる。
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研究に反対する側の暴力が、日本にも及んだ。
海の向こうでは、教授が殺された。
今度は日本で、自分が狙われた。
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これは、もう隠せない。
ニュースになる。
世論が動く。
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ハルトは椅子に座った。
手のひらの傷を見た。
今まで、記録を積んで待っていた。
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でも、向こうは暴力に出た。
待っているだけでは守れない。
サクも、自分も。
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ハルトは目を閉じた。
コールの問いが戻ってきた。
「君は、どうする」
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今までの答えは、記録を積むことだった。
それは間違いではない。
でも、それだけでは足りなかった。
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動く。
記録を積みながら、動く。
区分を機能させなくして、サクを連れ戻す。
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守るのではなく、進む。
それが答えだった。
もう迷いはなかった。
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ハルトはノートを開いた。
新しいページに日付を書いた。
その下に書いた。
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「神宮寺さんから警告。協会の周りがきな臭い、と」
「帰り道で三人に襲われた。魔法使い。定義の件で狙われた」
「読み方で時間を稼いだ。手を切った。それだけで済んだ」
「神宮寺さんが助けてくれた。『イデオロギーより、お前の方が重かった』と」
「待っているだけでは守れない。動く」
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五行、書いた。
ペンを置いた。
最後の一行を、長く見ていた。
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今日のことを頭の中に入れた。
暗い道の、三つの人影。頬をかすめた炎。「線は動かさせない」という声。神宮寺さんの風。「放っておけなくなった」という言葉。「返しきれてないものがある」という言葉。そして、手のひらの傷。
全部、残った。
向こうは、暴力に出た。
こちらは、記録を積みながら動く。
もう、待っているだけの日々は終わった。
窓の外に、六月の夜があった。
雨が強くなっていた。
寝た。
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第百五十二話 了




