「託されたもの」
朝、目が覚めた。
カーテンの隙間から、光が差していた。
スマートフォンを見た。
ハルトくんからのメッセージは、まだなかった。
時差を、頭の中で計算した。
日本は、もう夜だった。
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施設の廊下を歩いた。
警備員が、二人立っていた。
「おはようございます」サクは言った。
「おはようございます」一人が言った。
いつも通りだった。
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研究棟に着いた。
カーター教授は、すでにいた。
机に向かって、何か書いていた。
「おはようございます」サクは言った。
「おはよう」カーター教授は言った。顔を上げなかった。
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午前中、データの整理を進めた。
先週の実験結果を、まとめる作業だった。
教授が、隣に来た。
「この部分」教授は言った。「サンプル数を、もう少し増やしておいてくれないか」
「来週の分も含めてですか」
「そうだ」教授は言った。少し間を置いた。「早めに、形にしておきたい」
「はい」
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昼、食堂で一人で食べた。
窓の外に、芝生が見えた。
警備員の車が、いつもより一台多かった。
気のせいかもしれなかった。
サクは、それ以上、気にしなかった。
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午後、教授の部屋に呼ばれた。
普段、呼ばれることはあまりなかった。
「座ってくれ」教授は言った。
サクは座った。
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教授は、引き出しから、フォルダを取り出した。
紙の束だった。
データではなく、手書きのメモだった。
「これを」教授は言った。
「君に、預けておきたい」
「これは」
「私の、個人的なノートだ」教授は言った。「研究の記録というより、考えたことのメモに近い」
サクは、フォルダを受け取った。
重くはなかった。
ただ、何か、違うものを受け取った気がした。
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「なぜ、私にですか」サクは言った。
教授は、少し間を置いた。
「君なら、読める」教授は言った。「私のメモは、字が汚い。それに、私の考え方の癖を、君は知っている」
「はい」
「ただ、それだけの理由じゃない」教授は言った。
サクは、教授を見た。
教授は、窓の外を見ていた。
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「エマのことを覚えているか」教授は言った。
「はい」
「彼女のデータ、まだ公開していないんだったな」
「はい。エマの判断を待っています」
教授は頷いた。
「もし、エマが公開を決めたら」教授は言った。「そのフォルダの中に、彼女のデータと繋がる部分がある。参考になると思う」
「教授」サクは言った。「それは、今、渡さなければいけないものですか」
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教授は、少し笑った。
いつもの、忙しい笑い方ではなかった。
「念のため、だ」教授は言った。「研究者は、いつも、念のための準備をしておくものだ」
「教授」
「心配しなくていい」教授は言った。
「ただの整理だ。机の中が、ごちゃごちゃしていてね」
サクはそれ以上、聞かなかった。
ただ、フォルダを、両手で持ち直した。
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夕方、研究棟を出た。
施設の入り口で、警備責任者がサクに声をかけた。
「佐久間さん」責任者は言った。
「少しだけ、確認させてください」
「はい」
「ご家族の連絡先について、日本側から確認の連絡が入っています。緊急のものではありません。形式的な確認です」
「両親のことですか」
「はい。念のため、現在の連絡先に変更がないか、確認しています」
サクは少し間を置いた。
「変更は、ありません」
「ありがとうございます。それだけです」
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部屋に戻った。
フォルダを、机の上に置いた。
開かなかった。
今は、開く気になれなかった。
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夜、八時四十分だった。
ハルトくんに電話した。
「もしもし」ハルトの声がした。
「もしもし、ハルトくん。今、大丈夫ですか」
「はい」
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「今日、教授からノートを預かりました」サクは言った。
「ノート、ですか」
「研究のメモみたいなものです。手書きの」サクは言った。「私に持っていてほしい、と言われました」
ハルトは少し間を置いた。
「理由は、聞きましたか」
「念のため、だと言っていました」サクは言った。「エマのデータと繋がる部分がある、とも」
「はい」
「教授、いつもの忙しい感じじゃなくて。少し、笑い方が違いました」
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「もう一つ、ありました」サクは言った。
「はい」
「施設の警備の人が、私の両親の連絡先を確認してきました。日本側から確認の連絡があった、と」
ハルトは、少し間を置いた。
「いつもあることですか」
「いいえ。初めてです」サクは言った。「形式的な確認だと言われました。ただ」
「ただ」
「コールが日本に来た後だから、何か関係あるのかな、と思いました」サクは言った。「考えすぎかもしれません」
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ハルトは、しばらく黙っていた。
「記録として、持っておきます」ハルトは言った。
「はい」
「教授のノートのことも、ご両親の確認のことも」ハルトは言った。「両方とも」
「はい」サクは言った。少し息を吐いた。「なんだか、今日は、いろんなことが少しずつ動いた一日でした」
「はい」
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「ハルトくん」サクは言った。
「はい」
「教授のノート、あとで読んでみます。エマのデータのこと、何か書いてあるかもしれないので」
「はい。何かわかったら、教えてください」
「はい」サクは言った。「おやすみなさい、ハルトくん」
「おやすみなさい」
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電話が切れた。
サクは、机の前に座った。
教授のフォルダを、引き寄せた。
開かなかった。
代わりに、ノートを一冊、引き出しから出した。
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研究用のノートだった。
これまで、実験記録しか書いていなかった。
サクは、新しいページを開いた。
日付を書いた。
その下に、書いた。
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「教授から、個人的なノートを預かった。理由は『念のため』」
「両親の連絡先について、日本側から確認があった。初めてのこと」
「教授の笑い方が、いつもと違った」
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三行、書いた。
ペンを置いた。
ノートを閉じた。
教授のフォルダは、開かないまま、机の上に置いた。
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窓の外を見た。
アメリカの、まだ明るい空があった。
日本は、もう夜中だった。
ハルトくんは、もう寝ただろうか。
サクは、明かりを消した。
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第百二十七話 了




