「主任」
八月になった。
正式な辞令が出た。
神崎ハルト、第三審査室主任。
辞令書を受け取った。
紙一枚だった。
ただ、重かった。
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デスクに戻った。
岸本が来た。
「辞令、出ましたね」
「はい。出ました」
「おめでとうございます、神崎主任」岸本は言った。
主任、という言葉が、少し新しく聞こえた。
「ありがとうございます」
「なんか、違和感ないですね」岸本は言った。「神崎主任って呼ぶの」
「そうですか」
「はい。最初からそう呼ぶべきだった気がします」岸本は言った。あっさりした言い方だった。「これからもよろしくお願いします」
「はい。よろしくお願いします」
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鶴田も来た。
「神崎主任、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「主任として、最初に何をしますか」
「まず、第三審査室の案件を全部、頭の中に入れます」ハルトは言った。「引き継ぎがあります。どこに何があるかを、最初に把握します」
「それが最初ですか」
「はい。把握できていなければ、判断できません」
「神崎主任らしいです」鶴田は言った。「よろしくお願いします」
「はい。よろしくお願いします」
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午前中は、引き継ぎ書類の確認をした。
第三審査室が抱えている案件は、現在三十七件だった。
進行中のもの、審査待ちのもの、照会中のもの。
全部を確認した。
一件ずつ、頭の中に入れた。
二時間かかった。
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昼前に、鶴田が来た。
「神崎主任、一点確認してもいいですか」
「はい。どうぞ」
「水系複合術式の申請なんですが、先行技術の調査結果に少し気になる点があって」
「番号を教えてください」
番号を聞いた。
頭の中で確認した。
「その申請の技術は、五年前に提出された複合変換系の申請と、動作原理が近いです。ただ、出力の制御方法が根本的に違います。先行技術との差異を、請求項に明示すれば通る可能性があります」
「修正を提案していいですか」
「はい。申請者に連絡して、任意で修正を検討してもらう形が適切です。強制はできません」
「わかりました」鶴田は言った。少し間を置いた。「神崎主任、番号を聞いただけで、先行技術まで出てくるんですね」
「記録として持っているので」
「改めて、すごいと思います」
「ただ覚えているだけです」
「それが全部ですよね」鶴田は言った。笑った。「引き続き、頼らせてください」
「はい。来てください」
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午後になった。
白銀部長から呼ばれた。
部長室に入った。
「座ってください」リアは言った。
向かい合って座った。
「辞令、受け取りましたね」
「はい」
「どうですか、主任として初日は」
「引き継ぎ案件を全部確認しました。三十七件です」ハルトは言った。「一件、鶴田さんから照会が来ました。対応しました」
「速いですね」リアは言った。
「やれることから始めました」
「はい」リアは言った。「一点、お伝えしておきたいことがあります」
「はい」
「部長になったことで、私は個別の案件から少し離れます。第三審査室の判断は、神崎主任が中心になります。迷ったときは来てください。ただ、基本は神崎さんが判断する形になります」
「はい。わかりました」
「それから」リアは言った。「非適合者の研修制度の整備を、引き続き進めています。神崎さんにも関わってもらいたいと思っています。主任として」
「はい。やります」
「一つ、相談していいですか」リアは言った。
「はい」
「研修制度の中に、術式記録の読み方を入れたいと思っています。非適合者の審査員が、術式を正確に読めるかどうかが、審査の質に直結するためです。神崎さんに、その部分を担当してもらえますか」
「はい。やります」ハルトは言った。「ただ、一点確認させてください」
「はい」
「術式記録の読み方は、教えることができます。ただ、三十四万件の記録を持つことは、教えることができません。研修の目標を、どこに設定しますか」
「どういう意味ですか」
「私が持っている記録の量は、特殊な状況です。それを目標にすると、達成できない研修になります。現実的な目標として、どのレベルを目指しますか」
リアは少し間を置いた。
「その視点は、なかったです」リアは言った。「神崎さんのレベルではなく、実務で必要なレベル、ということですね」
「はい。審査に必要な最低限の読み方と、それを積み上げる方法を教える形が適切だと思います。記録は、積み上げるものなので」
「わかりました」リアは言った。「その方向で設計してください。任せます」
「はい」
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部長室を出た。
フロアに戻った。
デスクに座った。
研修の設計について、少し考えた。
術式記録の読み方を、どう教えるか。
自分がどうやって読むようになったかを、頭の中で確認した。
最初は、申請書を一件ずつ読んだ。
先例を確認した。
比べた。
繰り返した。
それだけだった。
特別なことは何もなかった。
ただ、続けた。
その記録が積み上がって、今になっていた。
続けることを、教えられるかどうか。
それが、研修の核心だった。
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夕方、岸本が来た。
「神崎主任、今日、主任として初日でしたね」
「はい」
「どうでしたか」
「引き継ぎ案件を確認して、鶴田さんの照会に対応して、白銀部長と研修の話をしました」
「それだけですか」
「はい。それだけです」
「なんか、普通ですね」岸本は言った。
「そうですか」
「はい。主任になっても、神崎さんは神崎さんでした」岸本は言った。「それが、一番よかったと思います」
「変わる必要はないので」
「うん」岸本は言った。「ただ、一点だけ言っていいですか」
「はい」
「これからも、困ったときは言ってください。私も、鶴田くんも、神崎主任のことを支えたいと思っています。主任になったからって、一人で全部抱えないでください」
ハルトは少し間を置いた。
「はい。わかりました」
「約束ですよ」岸本は言った。
「はい。約束します」
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夜、帰る前にサクにメッセージを送った。
「今日、正式な辞令が出ました」
「おめでとう、ハルトくん」サクは言った。「主任、初日はどうでしたか」
「いつもと同じでした」
「いつもと同じ、か」サクは言った。「それが一番いいね」
「はい。岸本さんも、同じことを言っていました」
「岸本さん、いいですね」サクは言った。「ハルトくんの周りの人が、ちゃんとしている」
「はい。いい人たちです」
「続けてください」サクは言った。「主任として。私も、こっちで続けます」
「はい。続けます」
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コートを着た。
岸本と鶴田と三人で、ビルを出た。
夜の東京だった。
八月の夜だった。
蒸し暑かった。
三人で並んで歩いた。
岸本が言った。
「神崎主任、明日から本格始動ですね」
「はい」
「何か変わりますか、明日から」
「いいえ」ハルトは言った。「同じことを続けます。記録を積み上げて、正確に判断する。それだけです」
「それだけ、か」岸本は言った。「それだけで、十分ですね」
「はい。十分です」
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駅で別れた。
帰宅した。
今日のことを頭の中に入れた。
辞令書の重さ。岸本の「神崎主任って呼ぶの、違和感ないですね」という言葉。鶴田の照会への対応。リアとの研修の話。「続けることを教えられるかどうかが核心だ」という気づき。岸本の「一人で全部抱えないでください」という言葉。
全部、残った。
今日から、主任だった。
ただ、やることは変わらなかった。
記録を積み上げて、正確に判断する。
それだけだった。
それで、十分だった。
窓の外に、八月の夜があった。
蒸し暑かった。
寝た。
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第百一話 了




