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魔法特許庁ーーその魔法、違法ですーー  作者: にけ


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101/130

「主任」

八月になった。


正式な辞令が出た。


神崎ハルト、第三審査室主任。


辞令書を受け取った。


紙一枚だった。


ただ、重かった。


---


デスクに戻った。


岸本が来た。


「辞令、出ましたね」


「はい。出ました」


「おめでとうございます、神崎主任」岸本は言った。


主任、という言葉が、少し新しく聞こえた。


「ありがとうございます」


「なんか、違和感ないですね」岸本は言った。「神崎主任って呼ぶの」


「そうですか」


「はい。最初からそう呼ぶべきだった気がします」岸本は言った。あっさりした言い方だった。「これからもよろしくお願いします」


「はい。よろしくお願いします」


---


鶴田も来た。


「神崎主任、おめでとうございます」


「ありがとうございます」


「主任として、最初に何をしますか」


「まず、第三審査室の案件を全部、頭の中に入れます」ハルトは言った。「引き継ぎがあります。どこに何があるかを、最初に把握します」


「それが最初ですか」


「はい。把握できていなければ、判断できません」


「神崎主任らしいです」鶴田は言った。「よろしくお願いします」


「はい。よろしくお願いします」


---


午前中は、引き継ぎ書類の確認をした。


第三審査室が抱えている案件は、現在三十七件だった。


進行中のもの、審査待ちのもの、照会中のもの。


全部を確認した。


一件ずつ、頭の中に入れた。


二時間かかった。


---


昼前に、鶴田が来た。


「神崎主任、一点確認してもいいですか」


「はい。どうぞ」


「水系複合術式の申請なんですが、先行技術の調査結果に少し気になる点があって」


「番号を教えてください」


番号を聞いた。


頭の中で確認した。


「その申請の技術は、五年前に提出された複合変換系の申請と、動作原理が近いです。ただ、出力の制御方法が根本的に違います。先行技術との差異を、請求項に明示すれば通る可能性があります」


「修正を提案していいですか」


「はい。申請者に連絡して、任意で修正を検討してもらう形が適切です。強制はできません」


「わかりました」鶴田は言った。少し間を置いた。「神崎主任、番号を聞いただけで、先行技術まで出てくるんですね」


「記録として持っているので」


「改めて、すごいと思います」


「ただ覚えているだけです」


「それが全部ですよね」鶴田は言った。笑った。「引き続き、頼らせてください」


「はい。来てください」


---


午後になった。


白銀部長から呼ばれた。


部長室に入った。


「座ってください」リアは言った。


向かい合って座った。


「辞令、受け取りましたね」


「はい」


「どうですか、主任として初日は」


「引き継ぎ案件を全部確認しました。三十七件です」ハルトは言った。「一件、鶴田さんから照会が来ました。対応しました」


「速いですね」リアは言った。


「やれることから始めました」


「はい」リアは言った。「一点、お伝えしておきたいことがあります」


「はい」


「部長になったことで、私は個別の案件から少し離れます。第三審査室の判断は、神崎主任が中心になります。迷ったときは来てください。ただ、基本は神崎さんが判断する形になります」


「はい。わかりました」


「それから」リアは言った。「非適合者の研修制度の整備を、引き続き進めています。神崎さんにも関わってもらいたいと思っています。主任として」


「はい。やります」


「一つ、相談していいですか」リアは言った。


「はい」


「研修制度の中に、術式記録の読み方を入れたいと思っています。非適合者の審査員が、術式を正確に読めるかどうかが、審査の質に直結するためです。神崎さんに、その部分を担当してもらえますか」


「はい。やります」ハルトは言った。「ただ、一点確認させてください」


「はい」


「術式記録の読み方は、教えることができます。ただ、三十四万件の記録を持つことは、教えることができません。研修の目標を、どこに設定しますか」


「どういう意味ですか」


「私が持っている記録の量は、特殊な状況です。それを目標にすると、達成できない研修になります。現実的な目標として、どのレベルを目指しますか」


リアは少し間を置いた。


「その視点は、なかったです」リアは言った。「神崎さんのレベルではなく、実務で必要なレベル、ということですね」


「はい。審査に必要な最低限の読み方と、それを積み上げる方法を教える形が適切だと思います。記録は、積み上げるものなので」


「わかりました」リアは言った。「その方向で設計してください。任せます」


「はい」


---


部長室を出た。


フロアに戻った。


デスクに座った。


研修の設計について、少し考えた。


術式記録の読み方を、どう教えるか。


自分がどうやって読むようになったかを、頭の中で確認した。


最初は、申請書を一件ずつ読んだ。


先例を確認した。


比べた。


繰り返した。


それだけだった。


特別なことは何もなかった。


ただ、続けた。


その記録が積み上がって、今になっていた。


続けることを、教えられるかどうか。


それが、研修の核心だった。


---


夕方、岸本が来た。


「神崎主任、今日、主任として初日でしたね」


「はい」


「どうでしたか」


「引き継ぎ案件を確認して、鶴田さんの照会に対応して、白銀部長と研修の話をしました」


「それだけですか」


「はい。それだけです」


「なんか、普通ですね」岸本は言った。


「そうですか」


「はい。主任になっても、神崎さんは神崎さんでした」岸本は言った。「それが、一番よかったと思います」


「変わる必要はないので」


「うん」岸本は言った。「ただ、一点だけ言っていいですか」


「はい」


「これからも、困ったときは言ってください。私も、鶴田くんも、神崎主任のことを支えたいと思っています。主任になったからって、一人で全部抱えないでください」


ハルトは少し間を置いた。


「はい。わかりました」


「約束ですよ」岸本は言った。


「はい。約束します」


---


夜、帰る前にサクにメッセージを送った。


「今日、正式な辞令が出ました」


「おめでとう、ハルトくん」サクは言った。「主任、初日はどうでしたか」


「いつもと同じでした」


「いつもと同じ、か」サクは言った。「それが一番いいね」


「はい。岸本さんも、同じことを言っていました」


「岸本さん、いいですね」サクは言った。「ハルトくんの周りの人が、ちゃんとしている」


「はい。いい人たちです」


「続けてください」サクは言った。「主任として。私も、こっちで続けます」


「はい。続けます」


---


コートを着た。


岸本と鶴田と三人で、ビルを出た。


夜の東京だった。


八月の夜だった。


蒸し暑かった。


三人で並んで歩いた。


岸本が言った。


「神崎主任、明日から本格始動ですね」


「はい」


「何か変わりますか、明日から」


「いいえ」ハルトは言った。「同じことを続けます。記録を積み上げて、正確に判断する。それだけです」


「それだけ、か」岸本は言った。「それだけで、十分ですね」


「はい。十分です」


---


駅で別れた。


帰宅した。


今日のことを頭の中に入れた。


辞令書の重さ。岸本の「神崎主任って呼ぶの、違和感ないですね」という言葉。鶴田の照会への対応。リアとの研修の話。「続けることを教えられるかどうかが核心だ」という気づき。岸本の「一人で全部抱えないでください」という言葉。


全部、残った。


今日から、主任だった。


ただ、やることは変わらなかった。


記録を積み上げて、正確に判断する。


それだけだった。


それで、十分だった。


窓の外に、八月の夜があった。


蒸し暑かった。


寝た。


---


第百一話 了

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