愛着障害の彼女―3
女性視点3話
なんだか今の悠樹を放っておけなくて、私はキッチンへと向かった。
炊飯器は置いてあるものの使われているのかいないのか、その近くにパックご飯が積んである。これは私も見慣れたものだった。
無作法だと言われそうだが勝手に冷蔵庫を開ける。牛乳、豆腐、めんつゆ、味噌。それから6個入りの生卵が3個ほど残った状態だった。常温保存の棚には葱が1本あった。
覚悟をしながら調理器具を漁る。包丁は素早く無視する。そして目的のものを見つけた。スライサーだ。
はっきり言って使い方を誤ればスライサーも包丁並みに危険なのだが、たまたま母は虐待の道具としてそれを使わなかった、それだけのことだった。
手鍋に葱をスライサーで半量ほど削り入れ、2分レンチンしたパックご飯と水とめんつゆ少量を入れて火にかけた。後から生卵1個を溶かし入れて雑炊にした。
手近にある小ぶりなお椀におたまでそれを盛ると、スプーンを突き刺してソファの元へ戻った。
悠樹は意外そうにまばたきをした。
「早いね」
「そうよ、できない人だから」
スミコさんみたいな料理はできない。そもそも、スミコさんが作るような完璧な材料はこのキッチンには揃ってなかったであろうが。
体を起こしてソファに座りなおした悠樹に、雑炊の椀を手渡した。
「いただきます」
…いただきますって、人生で一度も言われたことないな…。なんだか気恥ずかしくて目を逸らしたくなった。だけど雑炊を掬ったスプーンを口に運ぶ彼を見つめていた。
「うん、おいしい」
…ホントかな?私の機嫌を取るために、無理して言ってるんじゃないだろうか。だけどそもそも市販のめんつゆで不味いものを作るほうが難しいだろう。
「そう?私も食べようかな」
180グラムのパックご飯を雑炊にしたのだから、見た目よりも量があった。まだ手鍋に余っている。キッチンに行って別の椀にそれを少し掬うと、悠樹の前まで戻って、それを口に入れた。
「ほんとだ、おいしい」
私の様子を見た悠樹が目を細めて微笑んだ。なぜだか胸が詰まった。彼はふと雑炊の椀を脇に置いた。
「かわいいね、榛子」
今までの悠樹には言われたことのない言葉だった。その言葉とともに、彼の両手が私の頬を包む。
かわいいって、容姿のことを言ってるのだろうか?いまさら、それを言い出すわけでもあるまい。実の母にかわいがられたことのない私は、自分がかわいいのかどうか知る由もない。この「かわいい」は…、
存在の肯定。このままでいいよという意味。
彼の顔が近づいてきて、私は息を呑んでその瞬間を待つ。
「風邪、移っちゃうから、駄目だね…」
そう呟いて彼は頬から手を離した。私はほっとしたような落胆したような、どちらともつかない不思議な気持ちで俯いた。
でも、今日で終わるわけじゃないから、いいんだ。
「今日は、来てくれてありがとう。これで、デートの件、水に流してくれる?」
「悠樹、」
彼が私を呼んだのは、私が制御不能なワガママだったからなのに。胸が詰まってどうにかなりそうだった。
「熱が下がるまで…明日まで、泊まっちゃダメ?」
気がついたらそんなことを言い出していた。
「うん…そうしてほしい。でも、部屋がないんだ…実は、妹の部屋、そのままになってて。次までに片付けておくから、また来て」
「待って」
――千莉は死んだ。妹が死んだのは僕のせいだ。
あの瞬間、悠樹を覆っていた恐ろしく暗い影。
「悠樹…それでいいの?妹さんの痕跡、残しておきたいんじゃないの?」
「大丈夫。…そろそろ、前に進まないといけないから」
私はそれでも不安で、彼の手を握った。
「榛子、今日、優しいね。いつもそうだといいな」
全く押し付けがましくない、まるでどこかに願い事でも託すような。彼の本当の言葉を聞くたびに、胸が詰まって耐えられなくなる。また、ボロボロと涙が零れる。
「ごめん、失言だった。忘れてくれ」
「ちがうの。悠樹は、優しすぎると思う…、」
今まで、幸せになりたいと、誰かに幸せにしてほしいと、思っていた。
だけど今、悠樹を幸せにしたかった。でも、感情のコントロールが利かない私は、彼を幸せにできないかもしれない。それを思うと苦しかった。
「だから、どこにも行ってほしくなくて…」
今だって、悠樹は、熱を出している病人なのに、その前で子供みたいに泣いている私はなんて傍迷惑でみっともないのだろうか。
フローリングの上に体育座りのように膝を抱えて、その膝の上に顔を埋めた。その背中に手が当てられる。
「どこにも行かないよ。だから、きみも、どこにも行かないで」
彼の言葉がこんなに熱を持っていたことは、今までになかった。
「部屋がないから…狭いかもしれないけど、僕の部屋で寝るかい?」
それが何を意味しているのかを瞬時に理解する。だけど理解に対して心が追いついてこなかった。
悠樹は、パパじゃない。ひとりの男だ。そして悠樹にとって私も、妹じゃない。他人だからこそ、媾うことができる。なのにこんなにも他人じゃないような気がするのはどうして。私は答えられなかった。
「冗談だよ。さすがに急だよね。僕だって、妹を殺した愚かな男になりたくない。だから、また今度にしよう…万全じゃないし」
そう言うと、彼はソファに横になり、目元に腕を当てた。
これは拒絶じゃないし、照れ隠しでもあるし、自制でもあるし、悠樹自身も少し落胆しているように見えた。不思議な感じだ。人間の心はゼロかヒャクかで決まるような極端なものではなかったんだ。
「そうだ、往復のタクシー代、渡さないと…」
「そんなの、気にしなくていいわ。ゆっくり、休んでね。お大事に」
そう言うと、私は彼の額にキスをして、リビングから出ようとしたが、キッチンに雑炊が残っていることを思い出して引き返した。
適当な器に残りを移し替えてラップをかけ、手鍋とスライサー、食器を洗った。
「残ってる雑炊、冷蔵庫に入れとくね」
「…ありがとう」
改めてリビングから廊下に出る前に、一度振り返った。悠樹が穏やかな表情で、ひらひらと手を振った。
決めた。コントロールの練習をしよう。




