愛着障害の彼女―2
女性視点2話
カオルさんが、倒れた。
それは、私がそろそろ高校を卒業するあたりの時期だった。
もうふたりと暮らす生活にはだいぶ慣れて、おそらく幼少期に比べたら周りの目から見てもだいぶ落ち着いていただろうという頃だった。
カオルさんは肺癌だった。
子供――いや、私を大切にしていたので私の前で吸っていたことはなかったが、ときどき縁側でタバコをふかす人ではあった。それが原因かどうかは誰にもわからないが。
私を引き取ったときには彼らはだいぶ高齢だった。だから癌の進行そのものも遅いだろうという判断なのか、それとも治療に充てる体力がないだろうという判断なのか、医療の知識がないからわからないが、ほぼ低用量の薬で長い期間をかけて対処されていた。それがとうとう入院という形になってしまった。
スミコさんは、介護施設での仕事の傍ら、カオルさんの病室へ通い詰めるようになった。
いつもは丁寧に作ったご飯が用意されているのだけれど、「今日は遅くなるから、これで買って食べてね」という書き置きと共にお金がテーブルに置かれている。
私は陽も暮れた頃にコンビニまで足を運んで、特に食べたいとも思わない弁当やおにぎりを買って帰った。お金が足りなかったことは一度もない。だから後日に余ったお金を持って百均へ立ち寄り、スマホのデコレーションアイテムを買ったり、雑貨を買ったり、化粧品を買ったりした。
どんなに可愛いデコのシールを貼っても、化粧をしても、あまり嬉しくならなかった。
スミコさんにとって一番なのはやっぱりカオルさんだ。ふつうの夫婦なら、そうなんだろう。
私じゃなかった。
だけどもしかしたら、私が昔から”試し行為”ばかりしていたから、そのストレスでカオルさんは病になったのだろうか。そんな気持ちもないわけではなかった。
そんな折だった。アパートを用意する、という話が出たのは。
「あなた、卒業したら大学へ行くでしょう?そのときに、大学の近くのアパートを借りれるようにするから。お金の心配はしなくていいのよ」
「でも、カオルさんやスミコさんの将来の介護は誰がするんですか?私、この家にいたほうがいいよね?」
それは必死のぶら下がりだっただろう。実際に高齢の彼らはいつか誰かが見なくてはならないし、きっとそういう理由で私を里子に迎えたんじゃないのか。
だけど養母は首を横に振った。
「若いうちに介護に人生を縛り付けるなんてことはできないわ。あなたには人生を楽しむ権利があるの」
なに、楽しむ権利って。私、べつに何も楽しくないんだけど、学校とか。そんなことよりも誰かの一番になって安心したいのに。なんだかんだいって、やっぱり私がジャマになったのだろうか。
「わかりました。ありがとう」
心にもない礼を言いながら、大学入学を機に私の独り暮らしが始まる。どんなに綺麗な状態で部屋を契約しても、やがて荒れ果てた状態になるのは言うまでもないだろう。
丁寧なご飯を作ってくれたスミコさんは当然いない。スーパーやコンビニの弁当を買っていたが、どうしてもスミコさんの料理が恋しくなってしまい気持ちが暗くなる。そこで自炊を覚えようと思い、キッチン用品を買いにホームセンターへ行ったのだ。
だが、そこで私は壊れてしまった。包丁売り場を前にしたとき。遥か昔、幼い私に包丁を突き付けた実の母の姿が脳裏に蘇った。そして不随して暴力を振られていたときのおぞましい記憶までついてきた。
「いや…!!!」
まともに息が吸えなくなった。包丁売り場の前で過呼吸を起こしてしゃがみこみ、店員に保護される事態になってしまった。…困った。ひとりでは、包丁が買えないわ。握るなんて以ての外だろう。
でも今はいい時代なので、「カレー用セット」とか「鍋用セット」と銘打ったカット野菜やサラダが売られているので、最悪包丁を使わなくてもキッチンに立つことはできる。だけど、それではあまり意味がないような気がした。
結局私は元の惣菜生活に戻ってしまった。もうべつに、カロリーメイクとかマイバランスみたいな栄養食でいいんじゃないだろうか。食材である必要すらない。なにが「人生を楽しむ権利」なのだろうか。最高につまらない。
部屋に呼ぶような友人もいない私は、空のプラスチック容器などを散らかして部屋を荒らしたまま、スマホのソシャゲにのめりこんでいった。高端悠樹とはそこで知り合った。私は対面だと上手く喋れないのに、チャットではべらべらとあることないこと書くことができた。だから悠樹は始めの頃、私のことを明るい人間だと勘違いしていたようだ。私自身も、できるならばそういう人間になりたかった。
高端悠樹は神奈川の川崎に住んでいて、私は千葉の中央区に住んでいた。遠いといえば遠いが、行けないほどの距離ではなかった。だから付き合いが長くなってからは、間を取って都内でデートをすることが多かった。
あるとき、デートの約束をしていたのに、直前になって悠樹からドタキャンの連絡が入った。
『ごめん、今日は行けそうにない』
私はもちろん怒りに任せて返信を送る。
『どうして?前から約束してたじゃない。イヤになったの?それとも仕事?別の誰かがいるの?』
『違うんだ、聞いてくれ。今からうちの住所を送るから、そこに来てほしい。鍵は開けておくから』
…どういうこと?デートをキャンセルするのに、自宅に上げるの?…もしかして、セックス?
嫌悪感があるかどうかは自分でもよくわからなかったが、こんな歳にもなって想像したことがなかった。悠樹の一番になりたいくせに、子供を作るなんて考えたことがなかった。なぜなら、私は悠樹に父性を求めていたからだろう。そもそもあの慎重な悠樹が突然そんな発想をするとは思っていなかった。考えを巡らせて返信を渋っていると、新しい通知が来た。
『もし、イヤだったら無理はしなくていいんだ。でも、デートをキャンセルするのは悪意じゃないと信じてほしい』
『…わかった、行く』
最寄りの武蔵小杉駅までは、約2時間。そこからタクシーで高津区千年エリアの住宅街へ。細く曲がりくねった坂道を上っていくにつれて、周囲はひっそりとした住宅街に変わる。
指定された住所にあったのは、築20~30年ほどの、かつては美しかったであろう洋風の二階建ての一軒家だった。
近くの家には子供用の自転車が置いてあったり洗濯物が風に揺れているが、この家にはそういった生活感がなく、庭の植栽もあまり手入れはされていないようだった。
ここまで来て、やはり躊躇はした。何度かデートはした。だけど、他人の家だ。しかもアパートじゃなくて一軒家。生活感が薄いとはいえ家族がいるかもしれない。足を踏み入れるのは怖かった。入ったらどうなるかわからないんだもの。
私はとりあえずメッセージを送る。
『家の前、着いたよ』
少し待ってみたが、返事はない。返事をしてよ。ふつう、出迎えに来てくれないとおかしいでしょ。
私は仕方なく、そのドアを押し開いた。
入ると、私の養母の家ともアパートとも違う空気の匂いがした。広い玄関のたたきには、革靴が片方、傾いて脱ぎ捨てられている。女性用のスニーカーもぽつりと離れたところにある。傘立てには、普段使われているであろう黒い傘のほかに、彼のものではないであろう可愛らしい柄のビニール傘も刺さっている。
おじゃましますと言うのも忘れ、なぜか足音を潜めて廊下を歩く。リビングに入ると、4人掛けの大きなダイニングテーブルが目に入ったが、ひとつの席の前にだけノートパソコンや栄養ドリンクの空瓶が置かれ、他の椅子には書類が積まれている。そしてその奥にあるソファに、彼はこちらに背中を向ける形で丸まっていた。
「…悠樹?」
返事はなく、私は慎重に彼のそばに近づく。
私の気配に気づいた彼が、ソファの上で仰向けになった。片手にはスマホが握られたままだったが、さっきの通知を見る余裕はなかったようだ。熱があるのか、その瞳は少し潤んでいた。
「ごめん、来てくれたんだ」
「どうしたの」
「風邪でも引いたかな…頭が痛くて」
そう言うと、また背を向けるように蹲った。
ここまでしなければならなかったんだ、ただ「体調が悪くてデートに行けない」と言っても、私が信じず怒り散らすから。
どうしよう、と思った。私、何もできないのに。
その自責的な思考とは裏腹に、さっき玄関で見たものがふと脳裏に蘇る。
「可愛い傘とスニーカーがあったけど…女の人が住んでるの?」
返事はすぐには来なかった。体調が悪いからなのか、後ろめたい何かがあるのか、考え込みそうになったところでようやく、
「妹の」語尾が小さく消えた。
「妹さん、何時ごろ帰ってくるの?」
「もう、来ない」
「え?」
「3年前に、死んだ」
私はひゅっと息を吸って、止めた。他のオンナの影がないかを探ろうとしたばかりに、触れてはいけないものに触ってしまった。
「ごめんなさい」
「いや、…っ」
ふいに悠樹がソファから跳ね起きるように転がり落ち、どこかへ向かおうとしたが、途中で蹲った。両手で口元を押さえ、呻きと共に背中が震える。
大変、吐きそうなんだ。私は辺りを見回した。常にコンビニやスーパーの買い物袋をそのへんに散らかしている私のアパートと違って、都合よく袋が落ちていたりはしない。しかも、この家の内装を知らない。それでも急いでバスルームを探し当てると、洗面器をひっつかんで悠樹のもとへ走った。本当は新聞紙も敷くべきだろうが探している余裕はない。
私が無言で正面に置いた洗面器に嘔吐している彼の背中に片手を当てる。なぜだろう、やたら、不安だった。
息を整えながら、彼が言った。
「自殺だよ」
悪い男に遊ばれて…妊娠して…でも男は責任を取らずに逃げた。残された妹は僕に助けを求めたけれど、
「僕は仕事が忙しくて、しばらくそのメッセージを未読スルーしてしまった。その間に千莉は死んだ。妹が死んだのは僕のせいだ」
怖い。怖かった。
今まで、温厚で冷静だと思っていた、そこに甘えて心を預けていたはずの、悠樹を覆っている暗い影。高熱によって普段の彼の理性は剝げ落ちている。
知らなかった。どうして知らなかったの?きっと私を信用できなかったから。私だけが一方的に辛いことを話して、彼は黙っているしかなかった。
「…ごめんなさい。今まで、ごめんなさい」
虚ろな目をした彼が顔を上げ、こちらを振り向いた。その体がぐらりとこちらに傾く。私はそれを受け止めた。熱で火照った体が、ずしりと重かった。しばらくして、彼は呟いた。
「榛子のせいじゃない」
目を見開いた。その言葉、どこかで聞いたことがある。どこかで――
――ママがおこってるのは、わたしが悪い子だからなの?
――違う、榛子のせいじゃないよ。
やめて…!!パパと同じことを言わないで!!また、私を見捨てないでよ!!だけどパパも私を見捨てたことを、こんなふうに悔やんでいたのだろうか、妹を失った悠樹のように。それがなんだというのだろう。
混乱しながらも、今の悠樹を放っておけなかった。
「榛子のせいじゃないから…泣かないで」
え?
そう言われて、ようやく自分が涙を流していたことに気づいた。




