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愛着障害の彼女―1

女性視点第1話

最初の記憶は、凄まじい空腹の感覚と、冷えと、悪臭だった。


季節は冬、私は家の2階のベランダに締め出されていた。

何をしでかしたせいなのかはまるで憶えていないが、とにかく母の機嫌を損ねたのだ。


「開けて、ママ、ごめんなさい!開けて、おねがい!」


そう懇願するが母はベランダの戸を開けなかった。外気温のせいでどんどん体が冷え、次第に尿意や腹痛に見舞われるが家の中には入れない。ここで漏らせばさらに嫌われるに違いないので入れてもらえるまで我慢しようと必死だったが、そう何時間も耐えられなかった。結局粗相をしながらベランダの隅で、膝を抱えて蹲った。

日も暮れて、冷えと異臭と激しい空腹で意識が朦朧とし始めた頃に、ガラリと音を立ててベランダの戸が開いた。顔を出したのは父である。


「ただいま、榛子、帰ったぞ!大変だ!早くお風呂に入ってキレイキレイして、温かくしような」


――ママはご飯作ってないだろうからコンビニで買ってきた。一緒に食べような。

不器用にそう付け加える彼の姿こそが、母から得られない埋められない愛と庇護の象徴だった。

母からは他にも色んなことをされていた。物理的に殴られたり食器などを投げつけられることもあったし、包丁を突き付けて脅されたり、「あんたなんか産まなきゃあたしはもっと幸せだったんだ」と私の存在そのものを否定された。

それでも信じていたのだ。パパがいれば大丈夫だと。パパはいつも優しいし助けてくれる。


「ママがおこってるのは、わたしが悪い子だからなの?」


いつだったかパパにそう訊ねた。


「違う、榛子のせいじゃないよ。ママが怒ってるのはママ自身の問題…いや、パパのせいかな。どっちかはわからないけど、とにかく榛子のせいじゃない」

「じゃあどうして、ママはわたしを叩いたり蹴ったりするの?」


パパはその問いには答えられなかったようで、黙って私を抱きしめ、こう言った。


「いつか、パパとふたりでここを出よう。もっと優しい新しいママのところに行こう。それまで、頑張ろうな。絶対に助けるから」


絶対に助けるから。…パパは嘘をついた。

確かにパパは新しいママのところへと行った。パパだけが行った。新しい妻がおそらく連れ子を認めなかったのだろう。所謂オトナの事情というやつに私は見捨てられたのだ。

そのときパパがどんな気持ちだったかなんて今の私にはどうでもいいことだ。結果だけが全て。


パパがいなくなったことで、母の虐待はますますエスカレートしていった。

どんなに殺されると思っても、助けに来てくれるパパはもういない。だけどいつも、「きっと今回は迎えに来てくれるんじゃないか」とどこかで思った。その願いの叶うことはとうとうなかった。

小学校に進学したことで夏にプールの授業が入るようになったが、私の体は青痣や火傷の痕や、切り傷だらけだった。普段は服で隠れているが、プールに入ればバレてしまう。もちろん渋ったが、そのときはまだ生理も来るような年齢ではなかったから、入らない正当な理由がなかった。結局は私の傷だらけの体は衆目に晒された。

同級生たちの好奇の目を集めるのと引き換えに、私は一時的に助かることになった。普段から給食費が収められていないという事情も噛み合ってか、学校は児童相談所に通報した。よく覚えていない一時保護所に入った後、児童養護施設へと移された。

半日だけやりすごせばいい学校と違って、児童養護施設は朝から晩までずっとそこで集団生活をしなければならなかった。苦痛だった。誰に対してどう振る舞えばいいのかが全くわからないのだ。話しかけてくる子供たちを、私は拒絶した。あるいは借りていたボールペンなどをわざと壊して相手の反応を見た。その程度で去っていくような相手ならそれまでだ。もちろん友達はできなかった。それでも、理由もわからず襲いかかってくる母がいないだけマシ、という感じではあった。

マシだったが、女性職員が苦手だった。この人たちもいつか母と同じことをするかもしれない、その恐怖がいつもあった。代わりに男性職員を頼りにしようとしたけれども、その職員が他の子どもたちのことも平等に褒めたり構っている姿を見た瞬間、激しい怒りと嫉妬に苛まれて、叫んで、暴れた。オトナの気を引くにはどうすればいいのか、まるでわからなかった。

そして孤立しながら2年ほどが経った頃に、私は里親に迎えられた。


初老の里親は…養父母は優しかった。優しかったが、私はここでもどう振る舞えばいいかがわからなかった。

施設でやっていたのと同じように、わざと彼らが大切にしている骨董品を壊した。きっと母のように、怒鳴り散らし、殴る蹴るをして、外に締め出す。そうされると思ったが、彼らの反応は違っていた。


「あらあら、大丈夫?怪我はなかった?」


そう言って体に触れようとする養母の手を私は振り払った。どうして?おかしい。どうやら骨董品を集めていたのは養父のほうだったが、事が発覚しても「気を付けなさいね」と一言いっただけだった。

またあるときは、押し入れの奥深くに隠れて数時間を過ごしたり、わざと窓から家を抜け出したりもした。この人たちは、私を探すだろうか。彼らは毎回私を見つけ出した。どんなふうに怒り散らすだろうかと想像したが、彼らはいつも違う反応をした。


「もう、困った子ね。心配するから、もうそんなことはしないでね。あなたはもう私たちの子なんだから、堂々としてていいのよ」


養母が頭を撫でようと手を伸ばしたが、私は防御をするように頭を手で隠した。考えるよりも早くそう動いていた。もう母はここにはいないのに。


「大丈夫よ。あなたを叩くような人は、この家にはいないからね」


手で覆っている部分よりも奥にある後頭部が、撫でられた。そのときふっと、もう何年も前の、パパのことを思い出した。

わけもわからず涙が溢れた。パパも優しく撫でてくれたけど、結局は私を捨てていなくなった。


「やめて!!どうせ、あなたも裏切るんだから!私を捨てるんだから!」


私は弾かれるように養母を押しのけて、走って玄関から出た。

どうせいつか捨てるくせに、どうせいつか裏切るくせに。私は何を根拠にそんなことを思っていたのだろうか。そもそも根拠とは、なんなのだろうか。

そして家からほど近い、川の見える土手の上に辿り着いていた。土と混ざったような水の匂いがする。

夕陽が沈んでいく。私もあの夕陽みたいにこの川に沈んだならば、助からずに済むのだろうか。生きるって何?何のために?


「こんにちは」


突然、横方向から声が聞こえた。犬の散歩をしている40代ぐらいの男性とすれ違うところだった。

当時は種類がわからなかったが、男性は小さなコギー犬を連れていた。コギーが私の足元をくるくると回った。


「こら、ポテチ、やめなさい!すみませんね、お邪魔して」


この犬、蹴り飛ばそうかな、と思った。母みたいに。

でも、できなかった。このおじさんもコギーもあまりにも私とは関係のない人たちだから、蹴ったってしょうがない。たまたますれ違っただけなんだから。

コギーがくるくる回るのをやめて立ち止まり、つぶらな瞳で私を見上げてくる。なぜだかまた、涙が溢れてきて、私はしゃがむと、許可も取らずにポテチを撫でた。

うらやましい。うらやましいな。愛してもらえて、うらやましい。

ポテチはまるで何もかもわかってるみたいに私の涙を舌で舐めた。


「榛子ちゃん!榛子ちゃん!ここにいたのね。もう、あまり遠くへ行かないでちょうだい。晩御飯ができるから、帰りましょう」


養母が、また私を探しに来てくれた。

この日、ポテチのおかげで私は川に沈まなくて済んだのだ。それを心底良かったと思った。

わざわざ捨てたい相手に毎日手の込んだご飯を用意するはずなどないのに、どうして信じられなかったんだろう。もし私が川に沈んだらきっと悲しむに違いないのに。

ポテチから離れる前に私はおじさんにお辞宜をして、それから養母に手を引かれて帰った。

私はこの日から初めて、突飛な行動をしたことを「ごめんなさい」と謝れるようになり、ご飯を食べたら「おいしい」と言えるようになった。

でもどうしても、緊張して「お母さん」と言えなかった。もちろん「お父さん」も言えなかった。

養母は寿美子という名前なので、「スミコさん」と呼んでいた。養父は馨なので「カオルさん」だった。


恥ずかしい話、私は良い年齢になってもおねしょをしてしまう体質だった。だがその原因も自分ではなんとなくわかっていた。夜間、どうしても寂しかったからだ。

私は初めて、スミコさんの寝室の戸を開けた。言い出せずにそこで突っ立っている私に、スミコさんは「どうしたの?一緒に寝る?」と言ってくれた。私は頷いた。きっと恥ずかしいことなのかもしれないが、ここには他に誰もいないから咎められない。

スミコさんと同じ布団に入り、彼女が優しく私の背をさすった。今までに感じたことのない温かさを感じながら、私は眠りに落ちた。

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