第48話 最後の一片
丘の上には、もはや「声」は存在しなかった。
影と影がぶつかり合うたび、駆の脳裏で思い出の断片が火花を散らして消えていく。
(……この娘は、誰だ)
自分を殺そうとし、世界を壊そうとしている怪物。
その顔を見るたびに、胸の奥が熱い「何か」が込み上げるが、それが何という名前の感情なのか、もう思い出せない。
意識が混濁し、崩落しかけた駆の指先が、懐の奥に仕舞い込んだ「硬い感触」に触れた。
それは、父が死の間際に「これだけは離すな」と無理やり握らせた、加工もされていない無骨な【アレキサンドライトの原石】だった。
『駆、いいか。……この石は、光の種類によって色を変える。だがな、どちらの色が本物なんてことはない。どちらもこの石の真実だ。……お前たちも、そうだ。いつかお前が、自分自身の「色」に迷った時……こいつを強く握れ』
その言葉の意味を、今の駆はもう覚えていない。
だが、月光の下で禍々しい「赤」へと変色していたその石が、駆の右腕から溢れ出す絶望の泥に触れた瞬間、爆発的な変光を起こした。
赤から緑へ。破壊から再生へ。
それは、父と母が、呪われた化け物として生まれた二人を、なんとか「人間」の側に繋ぎ止めようとした十五年間の祈りの発露だった。
「何……その光。そんなの、あり得ない……っ!」
陽葵の瞳から、初めて余裕が消えた。
彼女が放とうとした終末の影が、石から溢れ出した眩い緑の奔流に触れ、春の雪のように溶けていく。
――【無銘の抱擁】
駆の記憶、命、そして怪物としての力のすべてが、アレキサンドライトの輝きに吸い込まれ、純粋な光の波動へと変換される。
駆は、もはや自分が誰であるかも分からないまま、ただ目の前の女を救いたいという「本能」だけで、その光を解き放った。
それは、彼女がどれほど残酷な女王であっても、そのすべてを肯定し、共に人間へ戻ろうとする――あまりにも身勝手で、慈愛に満ちた抱擁。
「あ……お兄、ちゃん……?」
光の中で、陽葵の姿が女王から、かつての幼い少女の輪郭へと戻っていく。
同時に、駆の意識は完全に消滅していった。
最後に、一瞬だけ。「陽葵」という名前が脳裏をよぎり、彼は生まれて初めて、心から安らかな微笑みを浮かべた。
光の渦が丘を飲み込み、夜空を埋め尽くしていた獣魔の影が、静かに消えていった。




