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第46話 忘却の旅立ち

 陽葵が消えた後の部屋には、壁の裂け目から吹き込む夜風の音だけが響いていた。

 駆は床に這いつくばったまま、酸素を求める魚のように何度も喘いだ。


(……俺が人間じゃないなんて、そんなことは、もうどうでもいい)


 自分が化け物である予感は、十五年前からずっとあった。だから、その事実に驚きはなかった。

 駆を打ちのめしたのは、床に転がった父の日記と、先ほどまで跨っていた少女の冷笑だ。


 陽葵も、人間ではなかった。


 自分と同じ「拾われた化け物」でありながら、彼女は最初からすべてを知っていて、兄を演じる自分を嘲笑い、両親を殺し、今日この時まで「守られる妹」を完璧に演じきっていた。 


(全部……嘘だったのか。あの日々も、あの笑顔も。俺が守っていたのは、俺を壊すための怪物だったのか)

 右腕の影が、意思を無視して部屋の床を侵食していく。もはや器としての駆の体は限界だった。

 今まで「妹を守る」という目的のためだけに繋ぎ止めていた人間性が、裏切りの衝撃で音を立てて崩壊していく。


「…………ッ、あ、……あああああああッ!!」

 駆は喉を掻きむしり、獣のような声を上げた。

 騙されていた。信じていた地獄さえ、彼女が用意した偽物の箱庭だった。

 だが、その絶望の底で、駆の瞳にどす黒い光が宿る。

 すべてが嘘だったとしても、彼女が「影の女王」として世界を塗り替えようとしている現実は消えない。

 ならば、自分がすべきことは一つだ。

 

 駆は震える腕で床を突き、無理やり身体を立ち上げた。

 脳が焼けるように痛む。陽葵との偽りの思い出が剥がれ落ちるたび、その下から純粋な「殺意」と、皮肉にも、まだ彼女の温もりを求めてしまう「呪いのような執着」が溢れ出した。


「……行かなきゃ、……ならないんだ」

 棚に置いてあった、かつて陽葵が「似合うよ」と笑った安物のマフラー。

 それが彼女の仕掛けた「餌」の一つだと理解していながらも、駆はそれを手に取り、首の指跡を隠すように力任せに巻き付けた。


 アパートを出ると、空は完全に影の女王の領域へと塗り替えられていた。

 巨大な月だけが、不気味なほど白く輝き、彼女が待つ【あの丘】を照らしている。

 記憶が削れるたびに、彼を縛っていた「兄」という役割が消えていく。

 自分が誰であるかを忘れるほど、その足取りは、ただ一人の女を終わらせるためだけの、純粋な破壊兵器へと変質していく。


「……待ってろ、……陽葵。今度は、俺が全部奪ってやる」

 悪夢の終着点。自分たちという化け物が生まれた、あの夜の続きを終わらせるために。

 駆は泥を滴らせる右腕を引きずり、漆黒の夜の中へと足を踏み出した。


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