第36話 絶望の再会
陽葵の呼びかけにすら反応を失いつつある駆。その傍らに、不自然なほどの静寂を纏った男が音もなく現れた。
学園を覆う血の臭いも、獣魔の咆哮も、その男の周囲だけは真空に吸い込まれていく。
「……久しぶりだね。十五年ぶりかな、黎明駆くん」
男の声は、駆の脳の深部に直接響いた。
駆の脳内に激しいノイズが走る。思い出せない。だが、魂が、内側の影が、この男を「自分を異形に変えた元凶」であると認識して、激しくのたうち回っている。
「誰……? お兄ちゃんから離れて!」
陽葵が駆を庇うように立ちはだかる。男は一瞬だけ陽葵へ視線を向けた。その瞳に宿ったのは、恐怖でも敵意でもなく、主人の機嫌を伺うような、あるいは【予定通りの芝居】を慈しむような、奇妙な恭順の色だった。
だが、陽葵はそんな男を鋭い眼光で射抜き、震える声で叫ぶ。
「お兄ちゃんを、いじめないでっ……!」
男は口角をわずかに吊り上げ、再び駆へと向き直った。
「……忘れてしまったのかい? あの夜、君がその腕で、慈しんでくれた両親の肉をどう引き裂いたかを」
男が駆の耳元で囁く「呪い」。それは陽葵には聞こえない。
刹那、駆の脳裏に、強制的に高解像度の記憶が再生された。
飛び散る鮮血。自分の影に喰われていく母。そして、返り血を浴びて呆然と立ち尽くす幼い陽葵。
「……あ。……あああッ!!」
駆は自分の喉を掻き毟りながら絶叫した。
自分が「妹を守る」という大義名分の裏側で犯した、最悪の罪。その記憶が、失われかけた脳の隙間に焼きごてを押し当てるように刻まれていく。
「お兄ちゃん!? どうしたの、お兄ちゃん!!」
陽葵は錯乱した駆を必死に抱きしめる。
彼女には、男が何を言ったのか分からないふりをする。ただ、目の前の男が「お兄ちゃんを苦しめている」という構図だけを、慈しむように作り上げていく。
「……あの子は何も知らない。健気で、純粋で、壊れそうな妹だ」
男は逃げ場を塞ぐように一歩踏み出し、その指先を駆の眉間に突きつけた。
「君がその『影』を使えば使うほど、君は記憶を失い、あの日両親を殺した『獣』へと戻っていく。……そして最後には、その腕で、隣にいる彼女さえも――」
駆の瞳から、一筋の血の涙がこぼれ落ちた。
男の背後から、さらに巨大な、どす黒い獣魔の影が立ち上がる。男は立ち去るどころか、その殺意を明確に駆へと向けた。
「さあ、抗ってみせろ。記憶を売り払い、大切な妹を殺す獣に成り下がってでも、私を殺したいだろう?」
陽葵が兄の背中に縋り付いたまま、男を憎しみの目で見据える。
駆は震えながら、泥の滴る右腕を持ち上げた。自分自身への嫌悪と、目の前の敵への殺意。その矛盾した衝動が、駆を「人」から「対決者」へと無理やり引き戻す。
嵐の前の静寂。陽葵の冷ややかな歓喜を背に、駆の影が爆発的に膨れ上がった。




