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第35話 侵食の末期

戦場を支配した静寂の中で、駆は立ち尽くしていた。

 足元には、彼が「処理」した獣魔の残骸が泥のように溶けて広がっている。

 

 駆の右腕は、もはや制服の袖を突き破り、肘の先まで硬質な黒い鱗に覆われていた。血管のように浮き出た影のラインが、首筋を通って脳幹へと這い上がっている。

「……お兄ちゃん?」

 陽葵が、背後から駆のシャツの裾をそっと引いた。

 

 駆は、動かない。

 ただ、虚空を見つめたまま、微動だにしない。

 彼の脳内では今、数秒前に自分が何をしていたか、目の前にいる少女が誰なのかという情報の断片が、真っ黒なノイズに塗りつぶされていた。

「ねえ、お兄ちゃん。……喉、渇いてない? お水、持ってくるね」

 陽葵の愛らしい声。

 普段なら、駆の意識を現世に繋ぎ止めるはずのその「くさび」が、今は遠い水底で鳴っている鐘のように、輪郭を持たずに霧散していく。

「…………」

 五秒。十秒。

 あまりに長い沈黙。

 陽葵の微笑みが、わずかに強張る。


「……お兄、ちゃん……?」

 さらに数秒が過ぎた頃、駆の首がギチ、と嫌な音を立てて陽葵の方へ向いた。

 その瞳には光がなく、焦点は陽葵の顔を通り越し、背後の虚空を射抜いている。


「……あ。……あ、あ……」

 喉の奥から漏れたのは、言葉ではなく、獣の鳴き声に近い湿った吐息だった。

 一瞬、駆の脳裏に【陽葵】という名前が浮かびかけるが、それは即座に黒い影に捕食され、消えた。


「……ひな、……り……?」

 数分間、あるいは数時間かけて思い出したかのような、たどたどしい発音。

 駆は自分の意志で口を動かしているのではなく、壊れた機械が再生を試みているような、不気味な違和感を漂わせていた。


 陽葵の瞳に、初めて「計算外」の恐怖がよぎる。

 彼女が望んでいたのは「二人だけの世界」であり、「兄の形をした虚無」ではなかった。


「お兄ちゃん……私のこと、わかる……? 陽葵だよ? 妹の、陽葵……!」

 必死に縋り付く陽葵の手を、駆は無機質に払い除けた。

 その動作には悪意も拒絶もなく、ただ「道にある石を退ける」ような、圧倒的な無関心だけが宿っていた。

 

 駆の意識は、すでに「人間」としての最期の境界線を越えようとしていた。

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