第31話 大侵攻(パンデモニウム)
病室の窓の外、抜けるような青空が、一瞬で「黒」に塗りつぶされた。
高度数千メートルに出現した巨大な「裂け目」から、数万の獣魔が礫のように街へと降り注ぐ。
断続的な爆音と悲鳴が、遠くから波のように押し寄せてくる。
駆は震える手で、ベッドの脇に置かれた学園の制服を掴んだ。
「……行かなきゃ」
「ダメよ、駆くん! 外に出ちゃダメ!」
病室のドアを押し開けて入ってきたのは、九条さんの奥様である澄江さんだった。
彼女の顔は蒼白で、肩は小さく震えている。それでも、駆の前に立ちはだかるその姿には、彼を地獄へは行かせないという強い意志が宿っていた。
「外はもう、学園の騎士たちでも手が付けられない状態なの。そんな体で行ったら、本当に……本当に戻ってこれなくなっちゃうわ!」
彼女は駆の細い肩を抱き寄せた。その温もりは、駆が十五年前に失い、この数ヶ月でようやく取り戻しかけた「母親」のそれだった。
「…… 澄江さん、ありがとうございます。でも、分かってるんです。俺が『これ』を使わない限り、あの子を守るどころか、この街も、あなたたち夫婦も、全部消えてしまう」
駆の右腕の皮膚の下で、黒い影が蠢いている。
それは主の決意に呼応するように、血管を焼き、肉を侵食し始めていた。
「いいのよ、そんなの。私たちはいいの。……駆くん、あなたはまだ子供なのよ? 世界の運命なんて、背負わなくていい。お願いだから、ここにいて……」
澄江さんの目から涙が溢れ、駆の頬に落ちた。
その温かさに、駆の心が激しく揺れる。人間として踏みとどまれと叫ぶ唯一の楔。
だが、背後で窓の外を眺めていた陽葵が、感情の欠落した声で呟いた。
「お兄ちゃん、影が……笑ってるよ」
駆は、澄江さんの優しい手を、ゆっくりと、けれど拒絶できない力で振り払った。
「ごめんなさい。……俺、もう決めたんです」
駆は窓枠に手をかけ、外へと身を乗り出す。
振り返った彼の瞳には、もはや「少年」の面影はなかった。
「人として逃げるより、怪物として前に進む方を選びたいです」
澄江さんの悲鳴のような制止の声を背に、駆は地獄へと変わりゆく街へ、自ら身を投げた。
落下するその背中から、どす黒い翼のような影が爆発的に広がり、青空を汚していく。




