第28話 差し伸べられた手
瓦礫の山に蹲る「それ」は、もはや生き物の呼吸をしていなかった。
ドロドロとした影の粘液が床を侵食し、折れた骨が皮膚を突き破って、駆の肉体は再構築と崩壊を繰り返している。
駆の混濁した意識の中で、足音が響いた。
カツン、カツン、とコンクリートを叩く、軽やかで冷徹なリズム。
(……逃げろ。……来るな)
言葉にならない警告が、獣の喉を震わせる。
自分に近づけば、漏れ出した影の毒が、その少女の命さえ食らい尽くしてしまう。
だが、陽葵は止まらなかった。
彼女は、獣から滴るドス黒い影の粒子を、春の雨でも浴びるかのような顔で受け流しながら、その目の前まで辿り着いた。
「お兄ちゃん」
鈴の鳴るような声。
駆は震える眼球を動かし、見上げた。
そこには、汚れ一つないワンピースを纏い、神々しいほどに美しい笑みを浮かべた陽葵が立っていた。
「……う……あ……」
駆の腕が、本能的に彼女を拒絶しようと蠢く。しかし、陽葵は躊躇うことなく、自分の上着を脱ぐと、それを異形の塊――かつて駆だったモノの背中に、優しく掛けた。
「風邪引いちゃうよ。……お家に帰らなきゃ」
その言葉は、あまりにも日常的で、あまりにも異常だった。
上着の下で、駆の棘だらけの肉体が、彼女の体温に触れてジリジリと焼けるような音を立てる。
陽葵は、獣の額から生えた悍ましい角に、そっと自分の額を重ねた。
「お疲れ様。……みんな、お兄ちゃんがやっつけてくれたんだね」
陽葵の手が、駆の頬……だった場所を撫でる。
その瞬間、駆の脳内に閃光が走った。
【この子は、分かっている】
目の前にいるのが、醜悪な化け物であることを。
自分が愛していた兄が、もう永遠に失われたかもしれないことを。
それでも彼女は、この「獣」を兄として扱い、逃げ場のない「日常」へと引き戻そうとしている。
陽葵の細い指が、駆の漆黒の爪の間に、自分の指を絡ませた。
それは、九条さんが危惧していた「終わり」の始まりだった。
遠くで、学園の救助部隊のサイレンが鳴り響く。
だが、駆にとっては、目の前で微笑む少女の温もりこそが、世界で最も残酷な断頭台のように感じられた。




