第24話 廃ビルの罠
名前を思い出せない「少女」の温もりに縋り、帰路を急いでいたその時だった。
突如として、周囲の空間がガラスを叩き割ったような音と共に、どす黒い「境界」に包まれた。
場所は、アパートを目前にした廃ビルが立ち並ぶ裏通り。
「……ッ!?」
駆が咄嗟に少女を背後に隠そうとした瞬間、路地裏の影から、無数の「腕」が伸びてきた。それは獣魔の魔力によって具現化した、粘着質な捕縛の糸だった。
「お兄ちゃん……!?」
少女の悲鳴。
駆は右腕を解放しようとした。だが、脳が焼けるような痛みが奔り、影の顕現が遅れる。
昨夜、九条さんから警告された「摩耗」が、決定的な瞬間に駆の足を止めたのだ。
「離せ……ッ! 彼女に触るな……!!」
影の咆哮と共に、駆の周囲の糸を断ち切る。しかし、それは巧妙に仕組まれた罠だった。
駆が引きつけたのは、数合わせの雑兵に過ぎない。
頭上。廃ビルの三階から、人の形を模した「高位の獣魔」が音もなく舞い降りた。
そいつは、言葉にならない笑い声を上げながら、背後から少女の腰を抱き寄せる。
「いい、反応だ。……『王』の欠片を宿した、哀れな器よ」
「陽葵を……返せッ!!」
その時、駆の口から漏れたのは、自分でも驚くほど鮮明な「名前」だった。
絶望的な危機が、皮肉にも脳に刻まれた楔を一時的に呼び覚ましたのだ。
だが、獣魔は少女――陽葵の喉元に、鋭い爪を立てた。
「追ってこい、苗床。……お前が望んだ『人間ごっこ』の結末を、あの廃ビルで教えてやる」
獣魔は陽葵を連れたまま、重力を無視してビルを駆け上がっていく。
しかし……陽葵は泣いたりもがくこともせず、遠ざかっていく駆を、ただ哀しそうに見つめていた。
そんな彼女の瞳にほんの一瞬──恐怖ではなく、どこか「ようやくこの時が来た」と言いたげな、深い静寂が宿っているような気がした……。
駆は陽葵を取り戻そうと奔走するが、その行手を阻むかのようにさらなる獣魔の群れが壁のように立ちはだかる。
(クソッ……、待ってろ、陽葵……!!)
駆の瞳から、人間としての光が急速に失われていく。
廃ビルの窓から漏れる薄汚れた月光が、拉致された陽葵の残した【小さなリボン】を照らしていた。
それは、忘れてしまった彼女の誕生日のために、駆が必死に用意した数少ない「兄としての証」だった。




