第23話 偽りの平穏
雨上がりの公園。街灯の下で、陽葵はベンチに座り、楽しげに足をパタパタさせていた。
「見て、お兄ちゃん! 街の灯りがキラキラして、宝石箱みたい」
駆は隣に座り、無理やり口角を吊り上げる。懐にある父の日記が、鉛のように重く胸を圧迫していた。
(……「人」として生かしてやってくれ)
それは、父が遺した最期の願いであり、最悪の呪縛だった。
たとえ中身がどれほど異形に成り果てようと、皮を剥がさず、絶望を教えず、偽りの「人間」としてこの子の隣で生き続けろ。
その遺言は、駆に「救い」ではなく「永遠の擬態」を命じていた。
「ねえ、お兄ちゃん。約束、覚えてる? 誕生日の夜は、お兄ちゃんが私の『わがまま』を一つだけ聞いてくれるって」
陽葵が、駆の腕に自分の腕を絡める。
その細い指先が、駆の心臓を直接握りつぶそうとしているかのような錯覚。
「……わがまま? ああ、何でも言ってくれ」
「本当? ……じゃあね。……明日も、明後日も、来年も。……お兄ちゃんが、ずっと『お兄ちゃん』のままでいて。……これが私の、たった一つのわがまま」
陽葵は、駆の肩に頭を預けて幸せそうに目を閉じた。
駆の視界が、ぐにゃりと歪む。
ピアノコンクール、ハンバーグ、九条さんの顔……。大切なはずの記憶の断片が、真っ黒な墨汁をぶち撒けたように次々と塗りつぶされていく。
気づけば、駆は自分が今、【誰と一緒にいるのか】が分からなくなっていた。
隣で寄り添っているこの少女は、誰だ?
温かい。愛おしい。
なのに、名前が、輪郭が、思い出という名の霧の向こうへ消え失せていく。
「……ああ。約束するよ。俺は、ずっとお前の兄貴だ」
名前を忘れた少女に対し、駆は「完璧な兄」を演じてみせた。
記憶が欠落した空白を、擬態という本能で埋める。
「帰ろうか、お兄ちゃん。お家で、ケーキの続きを食べなきゃ」
少女が立ち上がり、駆の手を引く。
駆は微笑みながら、彼女について歩き出した。
自分が誰なのか、ここがどこなのか、手を引く彼女が何者なのか。
もはや何も分からない。
ただ、一つだけ、脳髄に刻み込まれた「命令」だけが響いている。
(「人」として生きろ。……「人」として、この子を愛せ)
ふと、駆は自分の手元を見た。
少女の手を握っている自分の右手が、いつの間にか、**【服の袖から溢れ出した漆黒の触手】**に変わっていた。
少女はそれに気づいているのか、いないのか。
異形の腕を「お兄ちゃんの手」として大切に握りしめたまま、鼻歌まじりに夜の闇へと消えていく。
――その背後。
公園の砂場には、駆が「妹の名前」と一緒に、無意識に噛みちぎって吐き出した、血塗られた自分の舌が転がっていた。




