第22話 父の遺言
夜の散歩に出ようとした駆を呼び止めたのは、管理室から出てきた九条さんだった。
いつもと変わらない、穏やかで温かいお茶の匂いを纏った大家さん。だが、差し出された古びた日記帳を見る九条さんの瞳には、深い憂いがあった。
「駆くん、少し時間をくれるかい。……これを、君に渡しておかなくてはならないと思ってね」
それは、九条さんが大切に保管していた、駆の亡き父の手記だった。
管理室の小さなテーブルで、駆は九条さんが淹れてくれたお茶の湯気を眺めながら、そのページを捲った。
*
十五年前、惨劇が起きる直前の記録。そこには、父の震える筆跡で、呪いのような「愛」が綴られていた。
『……駆の影が、また一回り大きくなった。
あの子は、自分を人間だと思い込んでいる。……いや、私たちがそう「思い込ませて」しまった。
獣魔としての本能が目覚めれば、真っ先に食われるのは、隣で笑う陽葵だろう。
だが……。
それでも、どうか。
駆を、殺さないでくれ。
たとえ彼が、私たちを喰らい尽くしたとしても。
あの子を「人」として生かしてやってほしい。
……陽葵。……お前だけは、あの子を……』
文字はそこで、黒い血の跡に飲み込まれて途絶えている。
「……駆くん。君のお父さんはね、最後まで君を『人間』として愛そうとしていたんだよ」
九条さんの静かな声が、静まり返った管理室に響く。
「……殺さないでくれ、っていうのは。……俺を、この化け物のまま、陽葵の隣に居続けさせろってことですか? 九条さん……これじゃ、陽葵が……」
「……それは違うよ、駆くん。お父さんは、君が『自分を化け物だと自覚して絶望すること』を一番恐れていたんだ。……君が君である限り、陽葵ちゃんを守りなさい。でも……」
九条さんは、駆の震える肩に、温かく、けれどひどく重い手を置いた。
「……この遺言の続きを、私は知っている。……君がもし、その『影の王』に完全に心を明け渡してしまったら。……その時は、陽葵ちゃん自身が、君を――」
九条さんの言葉が、外から聞こえた「お兄ちゃーん!」という陽葵の明るい声にかき消された。
陽葵は、管理室の窓の外で、傘を差して笑っている。
「……九条さん、ありがとうございます。……行かなきゃ」
駆は日記を懐に隠し、立ち上がった。
九条さんは、去りゆく駆の背中を、まるで消えゆく蝋燭を見守るような悲しい目で見送った。
「駆くん。……次に何かを忘れた時。それが陽葵ちゃんの名前だったら……私に、あの子の泣く姿を見させないでおくれよ」
雨の中、陽葵が駆の手を握る。
その手の冷たさが、父の遺した「殺すな」という言葉と重なり、駆の心臓を冷たく締め付けた。




