第21話 空白のバースデー
朝から、陽葵の様子がおかしかった。
いつもより念入りに髪を整え、お気に入りのワンピースを着て、キッチンで鼻歌を歌いながら朝食を作っている。
「……お兄ちゃん、おはよう! 今日は、いいお天気だね」
陽葵は、期待に満ちた、とびきり眩しい笑顔で駆を迎えた。
駆はその笑顔を見るたび、心臓を冷たい指で撫でられるような錯覚に陥る。
(今日だ。……今日が、あの日なんだ)
カレンダーには、何も書かれていない。
失った記憶。駆は必死に周囲の会話や学園の掲示物から日付を特定しようとしたが、影の力が脳を侵食しているのか、数字という概念が滑り落ちて定着しない。
学校から帰る道すがら、駆は駅前のケーキ屋の前で立ち尽くした。
買わなければならない。だが、もし今日が「誕生日」ではなかったら?
逆に、もう昨日過ぎてしまっていたら?
その「確認」をすること自体が、兄としての死を意味するように思えて、駆は結局、何も買わずに帰宅した。
*
夜。リビングの照明は落とされ、テーブルの上には陽葵が作った豪華な料理が並んでいた。
中央には、ロウソクの立っていない、真っ白なホールケーキ。
陽葵は、食卓の端で静かに座っていた。
駆の帰宅を待っていた彼女の目は、期待を通り越し、研ぎ澄まされた刃のような鋭さを帯びている。
「……お帰りなさい、お兄ちゃん」
「ああ、ただいま。……陽葵、今日はご馳走だな。……何かのお祝いか?」
駆は、精一杯の演技で笑ってみせた。
その瞬間、リビングの空気が凍りつく。
陽葵は、ゆっくりと立ち上がった。
彼女の手には、駆が「最高の木」を演じた学園祭の時に彼女が持っていた、あの一枚のうちわが握られていた。
「……お祝いか、って。……本気で言ってるの?」
「陽葵……?」
「忘れたんだね。……お兄ちゃん、私のこと、本当に忘れちゃったんだ」
陽葵の声には、怒りも、悲しみもなかった。
ただ、絶対的な虚無。
彼女は、テーブルの上に並んだ料理を、一息に床へ叩き落とした。
ガッシャーン!! という陶器の割れる音が、静かな夜の住宅街に響き渡る。
「……プレゼントも、言葉も、……『おめでとう』のひとつも、ないんだ」
陽葵の瞳から、光が完全に消えた。
彼女は、床に散らばった料理を踏みつけながら、ゆっくりと駆に歩み寄る。
「……いいよ。お兄ちゃんが忘れたなら、私が『刻み込んで』あげる」
陽葵の指先が、駆の喉元に触れた。氷のような冷たさが皮膚を突き抜け、血管を凍りつかせる。
視界がぐにゃりと歪み、足元の床が底なしの沼のように沈み込んでいく。
「陽葵、待っ……!」
叫ぼうとした口の中に、ドロリとした漆黒の影が流れ込んできた。
パリン、と硬質な音が響き、世界が粉々に砕け散る――。
***
「――っ!!」
駆は、弾かれたように跳び起きた。
視界に入ってきたのは、見慣れた自分の部屋の天井。窓の外からは、朝の静かな光が差し込み、スズメの鳴き声が聞こえてくる。
激しい動悸と、全身を濡らす嫌な汗。
駆は震える手で顔を覆い、荒い呼吸を整えた。
(……夢、か。……最悪な夢だ)
夢の中の陽葵の、あの光の消えた瞳。床に散らばった料理の匂い。
あまりに生々しい感触が、今も肌に残っている。
駆はふらつきながらベッドを抜け出し、机の上のカレンダーを凝視した。
そこには――。
「……今日だ」
六月の、ある一日。
そこには、駆自身の筆跡で小さく【陽葵の誕生日】と書き込まれていた。
夢の中で「空白」だった場所には、確かに文字が存在している。
(……覚えている。……まだ、消えてない)
駆は安堵で膝をつきそうになった。
昨日の神代先輩との死闘。影の力を使ったはずなのに、記憶はまだ、ギリギリのところで踏みとどまっている。
「お兄ちゃーん! 朝だよ、起きてるー?」
階下から、陽葵の明るい声が響いた。
夢の中の絶望した声とは正反対の、いつもの、愛らしい妹の声。
駆は慌てて着替え、リビングへと駆け下りた。
そこには、エプロン姿でトーストを焼く陽葵の、屈託のない笑顔があった。
「おはよう、お兄ちゃん! 今日は、何の日か覚えてる?」
陽葵が、期待に満ちた目で駆を覗き込む。
その構図は、先ほど見た「悪夢」の始まりと全く同じだった。
「……ああ。……お誕生日おめでとう、陽葵」
駆が精一杯の声を絞り出すと、陽葵は「えへへ、正解!」と嬉しそうに笑った。
だが、その瞬間。
陽葵の背後の影が、一瞬だけ、夢で見た「あの不気味な形」に揺らめいた気がして、駆は息を呑んだ。
現実は、まだ壊れていない。
けれど、夢で見たあの光景は、いつか訪れる「確定した未来」の断片ではないのか。
駆は、笑う陽葵の影から目を逸らすように、震える手でコーヒーカップを握りしめた。




