第18話 妹の涙
放課後の騒乱から逃げるように帰宅した駆を待っていたのは、暗闇の中にポツンと座る陽葵の背中だった。
リビングの電気は点いていない。
キッチンには、昨日食べ残したカレーの皿が洗われないまま放置されている。
「……陽葵? どうしたんだ、暗いところで」
駆が努めて明るい声を出してスイッチを入れた瞬間、心臓が跳ねた。
陽葵はダイニングテーブルに突っ伏し、肩を小さく震わせていた。
「……お兄ちゃん。……学園で、何があったの?」
掠れた声。陽葵がゆっくりと顔を上げると、その大きな瞳からは大粒の涙が溢れ、頬を濡らしていた。
いつもなら「お帰りなさい!」とはしゃぐ彼女の、見たこともない絶望の表情。
「……焔さんたちが言ってたよ。お兄ちゃんが、本当は凄く怖い『力』を持ってるんじゃないかって。……魔力測定器が、壊れたんだって?」
「それは……ただの故障だよ。俺みたいな万年Fランクに、そんな力があるわけないだろ」
駆は必死に言い繕い、陽葵の肩に手を置こうとした。
だが、陽葵はその手を、ひどく冷淡な動作ではね除けた。
「嘘つき」
ピシャリ、と冷たい水が跳ねるような拒絶。
陽葵は立ち上がり、泣きじゃくりながら駆の胸ぐらを掴んだ。その指先には、か細い少女のものとは思えない、骨が軋むほどの力がこもっている。
「……私に、隠し事してるでしょ。……お兄ちゃんは、私を置いて、どこか遠くに行こうとしてる。……あの知性体みたいに、私を捨てて『化け物』に戻ろうとしてるんだ!」
「違う! 陽葵、落ち着け、俺はどこにも行かない……!」
「嘘だよ! だって、お兄ちゃん……今日の待ち合わせ場所、忘れてたじゃない!」
陽葵の絶叫が、狭いリビングに木霊する。
駆は絶句した。
忘却。影の力を使った代償として失われた記憶の欠片。それが、最も残酷な形で「妹を傷つけた証拠」として突きつけられた。
「……ごめん。……本当に、ごめん」
駆が絞り出した謝罪。
すると、陽葵は突然、憑き物が落ちたように泣き止んだ。
彼女は駆の胸に顔を埋め、擦り寄るように囁く。
「……いいよ。……隠し事してても、嘘をついてても。……お兄ちゃんが、ずっと私の側にいてくれるなら。……私が、お兄ちゃんを『人間に繋ぎ止めて』あげるから」
その言葉と共に、陽葵の腕が駆の背中に回る。
抱きしめる力は優しく、けれど絶対に逃がさないという「鎖」のような執念に満ちていた。
駆は陽葵の頭を撫でながら、震えが止まらなかった。
彼女の涙は、確かに温かい。
なのに、耳元で聞こえる彼女の呼吸音は、あの領域で聞いた「鼻歌」と同じリズムを刻んでいる気がして。
(……この涙すら、俺を逃がさないための『罠』だとしたら?)
窓の外。
夕闇の向こうから、焔の執拗な視線がこの家を監視している。
学園からも、家族からも逃げ場を失った駆は、陽葵という名の甘く、重い深淵に、さらに深く沈んでいった。




