第四話 宿場の旦那衆②
ほら始まった。
「何の?」
少し酔いの回ってきた勇吉が顔を上げる。
「役所を置くなら土地がいるだろ」
「何で俺に聞くんだよ。知らねえよ」
「勇さんには聞いてない」
「じゃあ俺を見るなよ」
清兵衛は小さく息を吐き、もう勇吉を相手にせず加兵衛へ向き直った。
本陣の周りはどうだ、街道沿いならどうだ、少し外へ出ればまとまった土地もある――清兵衛の頭の中では、さっきまでの県庁の話がもう土地の話に変わっているらしい。
「役人が来るとして、すぐ泊まる場所がいるなら何とかなると思う」
今度は宗助だった。
「旅籠を使えばいいのか」
加兵衛が聞く。
「何人来るかにもよるけどな。本陣もあるし、何日かなら受けられる。長くなるなら別だ」
宗助は部屋の隅を見ながら、頭の中で人数でも数えているらしい。
権蔵は黙って酒を飲んでいたが、
「人を泊めるだけじゃ役所にはならんぞ」
と一言だけ挟んだ。
「分かってる」
加兵衛の帳面に、また何かが増えた。
土地。
旅籠。
本陣。
問屋場。
勇吉には何を書いているのか全部は見えない。ただ、昼間に自分が口にした時には、こんな話じゃなかった。
浦和でいいなら、同じ中山道の蕨でもいいんじゃないか。
ただそれだけだったはずなのに、清兵衛は土地を考え、宗助は泊める人数を数え、加兵衛はそれを片っ端から帳面へ書いている。権蔵まで時々口を挟む。
みんな、やる気じゃん。
「なあ」
誰も聞かない。
「なあって」
権蔵だけが杯から目を上げた。
「何だ」
「お前ら、本当にやる気なの?」
清兵衛がようやくこちらを見た。
「何をだ」
「県庁」
「まだ何もしてないよ」
「でも土地の話してるじゃん」
「置くなら土地がいる」
「置くの?」
「だから、置けるかどうかを考えてるんだろ」
勇吉はしばらく清兵衛を見てから、手の中の杯へ目を落とした。
「俺、酒を飲みに来ただけなんだけど」
宗助が吹き出した。
何がおかしい。
権蔵まで鼻で笑っている。
「お前が持ってきた話だろ」
「俺は腰の悪い客の話をしただけだよ」
「その客が何者か分からんのか」
「分からん」
「役人か?」
「知らん」
「商人か?」
「知らん」
「どこに泊まってる」
「知らねえよ」
権蔵の眉間に深い皺が寄った。
「お前は何を知ってるんだ」
「腰が悪かった」
部屋が静かになった。
……何だよ。
最初に声を漏らしたのは宗助だった。
「それだけか」
「右腰な」
「そこは詳しいんだな」
「仕事だから」
そこが一番大事だろ。
清兵衛だけは笑わず、勇吉の顔をじっと見ている。
「顔は覚えてるのか、勇さん」
「まあ」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんか」
「歩けば分かるよ」
「顔じゃなくて?」
「腰と歩き方の方が分かる」
何だよ、その顔。
人の顔なんて似たようなのがいくらでもいるが、歩き方は結構違う。勇吉にとっては当たり前の話なのに、清兵衛には通じないらしい。
宗助が少し身を乗り出した。
「一人じゃなかったんだろ?」
一人?
昼間、男が店を出ていった時のことを思い出す。
そういや、いたな。
「外で一人待ってた……と思う」
「どんな人だった?」
「知らん」
「顔は?」
「見てねえ」
「どっちへ行った?」
「南」
「なら板橋、その先は東京か」
宗助はそこで少し考えた。
「蕨に泊まってないかもしれないな」
「何で?」
「東京から来て、その日のうちに戻るつもりなら宿は取らないだろ。馬か馬車を使っていたなら、なおさらだ」
馬車。
ああ。
「乗ってたよ」
「聞いたのか?」
「身体見りゃ分かる」
宗助は一瞬黙ってから、諦めたように笑った。
「そうだったな」
何回言わせんだよ。
加兵衛はさっきから帳面の端へ何かを書いていたが、そこでようやく筆を置いた。
「その男のことは、今追っても仕方ない」
「何だよ。散々聞いたくせに」
「名前も宿も分からないんじゃ追いようがない。それより、話が本当か確かめる」
「どうやって?」
「浦和を見る」
浦和?
加兵衛は何でもないことのように言った。
「今の役所がどんなところにあって、どんな人間が出入りしているのか。見れば分かることもある」
清兵衛が頷き、宗助も特に驚いた様子はない。権蔵は相変わらず酒を飲んでいる。
俺だけ少し話についていけていない。
何で酒飲んで話してただけなのに、浦和まで見に行くことになるんだよ。
「誰が?」
清兵衛がこっちを見る。
宗助も見る。
加兵衛まで見ている。
権蔵は見なかった。
その代わり、
「勇吉も行け」
と酒を飲んだまま言った。
「嘘だろ! 何で俺まで行くんだよ」
「お前、その男を見つけたら分かるんだろ」
加兵衛が言う。
「歩いてればな。でも仕事あるぞ」
「明日一日くらい何とかならんか」
「簡単に言うなよ」
勇吉が渋い顔をしても、誰も助け舟を出さない。
「なら清さんが行けばいいだろ」
「俺は行くぞ」
「……行くの?」
「行く」
本当に行くのかよ。
「俺も行こう」
宗助まで続いた。
「何だよ、お前ら暇なの?」
「暇じゃないから、早く見て戻るんだよ」
宗助にまでまともに返され、勇吉は黙った。
火鉢の炭が小さく崩れた。
最初に置かれていた徳利はとっくに空で、新しく来た徳利も半分ほどになっている。廊下から冷たい空気が入るたび、酒で熱くなった頬にはちょうどよかった。
加兵衛の帳面には、さっきまでなかった文字がいくつも増えている。
清兵衛はまだ土地の話をしている。
宗助は浦和の宿について何か思い出したらしく、加兵衛に話していた。
権蔵は黙って聞きながら、ときどき短く口を挟む。
どう見ても、明日の浦和行きはもう決まったらしい。
勇吉だけが明日の仕事のことを考えていた。
いや、それより朝か。
「なあ、本当に明日行くの?」
「行く」
「朝?」
「朝だ」
やっぱりか。
「昼からじゃ駄目?」
「何でだ」
「いま飲んでるから朝は酒が残りそうだし」
清兵衛の目が勇吉の前の徳利へ落ちた。
「なら、もう飲まなきゃいい」
勇吉も徳利を見る。
それから杯を見る。
明日の朝。
もう一度、徳利。
「……難しいこと言うなよ」
結局その夜に決まったのは、明日の朝、浦和を見に行くことだけだった。
少なくとも勇吉は、そう思っている。
家へ戻る頃には、酒もかなり回っていた。
勇吉は寝る前に、店で使っている帳面を開いた。
客のことや、その日に気になったことを書き留めておくためのものだが、酔っているせいか昼間の男の顔より、右へ逃げていた腰の方が先に浮かんだ。
『昼過ぎ、男一人。四十くらい。東京より来る。右腰悪し』
『妙な話をする』
『浦和でよいなら、蕨でもよいではないか』
ここまでは間違いない。
そのあと岡田家へ行った。
加兵衛が妙に食いついて、権蔵が来て、清兵衛と宗助も来た。
それで……明日、浦和。
ああ、そうだった。
『明日、浦和を見る』
これでいいか。
筆を置こうとして、もう一つ思い出した。
『酒飲む』
その下へ何を書くかは、考える必要もなかった。
『胡瓜出る。食わず。やはり敵なり』
よし。
勇吉は満足して筆を置き、そのまま横になった。
明日は朝から浦和へ行くらしい。
「……朝かよ」
今さら嫌になってきた。
起きて断りに行くのも面倒だし、どうせ清兵衛あたりが迎えに来るんだろう。
布団を引き寄せながら、飲みすぎたかなと少しだけ思った。
少しだけだ。
朝になれば起こされることも分かっている。
分かっていて飲んだ。
それについては、誰のせいにもできなかった。
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