第三話 宿場の旦那衆①
その夜、勇吉は蕨宿の本陣、岡田家で酒を飲んでいた。
本陣の岡田家は、大名や公家を泊め、問屋も名主も務めてきた家だった。代々の当主は加兵衛を名乗っている。
もっとも勇吉には、そんな肩書なんて今さらどうでもいい。
宿場で何かあれば、人も荷物も面倒事も、だいたい最後にはここへ集まってくる。だから町で妙な話を聞いたなら、酒のついでに加兵衛へ話しておけばいい。
それだけのつもりだった。
昼間に来た腰の悪い男は、変わった客ではあった。名前も言わず、蕨のことをあれこれ聞いた挙句、百年先がどうとか言って帰っていった。
まあ、酒の肴にはそのくらい変な話の方がちょうどいい。
「それで、その男は何者なんだ」
加兵衛が杯を置いた。
「知らねえよ」
「名を聞かなかったのか」
「聞いたけど、今度教えるってさ」
「なんだそりゃ」
「でもよ、腰は治してやった」
「いまは腰の話なんか聞いてねえよ」
何だよ。そこが一番大事だろ。
勇吉はそう思いながら徳利を傾け、昼間の男が話していたことを、思い出せる限り話した。
新しくできる埼玉県の県庁は岩槻へ置かれるらしい。ただ、すぐ岩槻へ移せるかは別の話で、浦和にはすでに役所があること。役所があれば人も荷も集まり、その先の町まで変わるとか何とか。
百年のところは、今でもよく分からねえけどな。
「それで俺が言ったんだよ。浦和でいいなら、蕨でもいいだろって」
杯へ伸びていた加兵衛の手が止まった。
ん?
「勇吉、今のところをもう一度言え」
「浦和でいいなら蕨でもいいだろって」
「違う。その前だ。その男は蕨を何と言った」
何で急に食いついてんだよ。
「蕨の方が東京に近い。本陣がある。人も馬も集められる」
加兵衛は返事をせず、傍らに置いてあった帳面を引き寄せた。酒の染みが残る紙の上を指でなぞり、さっきまで酒を飲んでいた時とは違う目で何かを確かめ始める。
なんだよ。
勇吉は手持ち無沙汰になり、とりあえず自分の杯を満たした。
「その話、ほかの誰かにしたか」
「今お前に話しただけ」
「その前だ」
「誰にもしてねえよ。そんなに面白い話でもないだろ」
「お前にはな」
何だそれ。
加兵衛は帳面から目を離さない。
「だが、町にとっては違うかもしれん」
昼間にも似たようなことを聞いた気がする。
またその話かよ。
勇吉は酒を口へ運びながら格子戸の向こうへ目をやった。町なら今日も普通に動いていたし、明日も同じように人が歩くんじゃないのか。客さえ来て、夜になればこうして酒が飲めれば、今のところそれで十分だった。
「お前まで何言ってんだよ」
「県庁が置かれれば役人が来る。人が来れば商いも増える」
「宿場なんだから、今でも人は来るだろ」
「分かってると思うが、参勤交代はなくなっただろ」
勇吉は返しかけた言葉を飲み込み、そのまま杯の酒も一緒に流し込んだ。
ああ、それはそうか。
大名行列が通らなくなったことくらいは知っている。旅籠も問屋も、この先どうなるのか分からない。江戸が東京になり、藩までなくなったのだから、昨日まで続いていた商いが明日も同じように続くとは限らない。
政治なんかどうでもいいと思っていた勇吉にも、それくらいは分かった。
空になった杯を置く。
「だからって、本当に蕨へ持ってくるのか?」
「それは俺一人で決める話じゃない」
「じゃあ誰が決めるんだよ」
「だから、まず誰が決める話なのか調べるんだろ」
「俺はやらないぞ」
ようやく帳面から顔を上げた加兵衛が、妙なものを見るような目を向けてきた。
「何でだ」
「俺、身体診るのが仕事だから」
加兵衛が何か言おうとしたところで、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
襖が開き、大きな男が顔を出す。
権蔵だった。
六十を越えても首は太く、肩幅も広い。白いものが混じった髪を後ろへ流し、手もでかい。
町で揉め事が起きると、なぜか最後には権蔵のところへ話が行く。誰と誰が昔から折り合いが悪いだとか、どこの家なら誰を通せば話を聞くだとか、そういうことを妙によく知っていた。
もっとも、昔から知っている勇吉にとっては、ただの権蔵だ。
「おい勇吉、何を騒いでんだ」
「騒いでねえよ」
「もう夜だぞ。お前の声が廊下まで聞こえてんぞ」
「普通に喋ってただけだろ」
「お前の普通はでかいんだよ」
それだけ言うと、権蔵は勝手に部屋へ入り、勇吉の横へ腰を下ろした。
加兵衛が杯を出してやると、それを受け取るより先に徳利へ手を伸ばす。
こいつだって人のこと言えねえじゃん。
「で、何の話だ」
加兵衛が昼間の客について話し始めると、権蔵は黙って酒を飲んでいた。
時々勇吉を見るので、そのたびに何となく居心地が悪い。
やがて加兵衛が、
「勇吉は、浦和でいいなら蕨でもいいだろうと言ったそうだ」
と締めたところで、勇吉は思わず口を挟んだ。
「ちょっと待て。何か違うぞ」
「どこがだ」
「俺はそんな立派に言ってねえよ。浦和でいいなら蕨でも変わらなくねえかって、それだけだ」
権蔵が杯を傾けたまま勇吉を見る。
「同じだろ」
「違うよ。何か俺が考えて言ったみたいになってるじゃん」
「考えてなかったのか」
「考えてねえよ」
「馬鹿かお前は」
「何でだよ!」
権蔵はもう勇吉を見ていなかった。
何だよ。
徳利が回ってきたので、ひとまず黙る。
酒の方が大事だ。
しばらくすると、また廊下から人の気配がした。
今度は二人だった。
先に顔を出したのは清兵衛。五十を少し越えた、小柄で目の細い男だった。
その後ろから、旅籠をやっている宗助も入ってくる。
「何だよ、みんな来てんじゃん」
「加兵衛に呼ばれた」
清兵衛が答えた。
「いつ?」
「ついさっきだ」
「来んの早くねえ?」
「近くにいたからな」
それだけ言って清兵衛は空いている場所へ座ったが、目はすでに加兵衛の前に置かれた帳面へ向いている。
昔からそうだった。
米でも布でも土地でも、こいつは物を見ると、まず値打ちを考える。何に使えて、どれだけのものになるのか。昔からそういうところがあった。
宗助は帳面より先に、勇吉の前に並んだ徳利を見た。
「もう結構飲んでるな」
「そりゃ今日はちゃんと仕事したからな」
「仕事してなくても飲んでないか勇吉は」
「もちろん、しなくても飲む」
宗助が苦笑した。
「じゃあ関係ないじゃないか」
まあ、そうなんだけどな。
加兵衛が二人に昼間の男の話を始めた。
また最初からかよ。
三度目ともなれば、勇吉が聞いている必要もない。
肴へ箸を伸ばす。
焼いた魚、煮物、漬物。
その端に緑色のものが見えた。
……おい。
胡瓜だった。
昼も見たぞ、お前。
「……ここにもいるのかよ」
「何が?」
宗助が聞く。
「いや、何でもない」
勇吉は皿を少し遠ざけた。
加兵衛の話が県庁へ移ったところで、宗助が口を開いた。
「役人が来るなら、その人たちもどこかで寝て、飯を食うんだろ」
加兵衛が宗助を見る。
「そうなるな」
「それなら役人だけじゃない。荷を運ぶ人間も来るんじゃないか」
「だろうな」
「最近、東京から来る客も前より目につく。みんなが同じ理由じゃないだろうけど、人の流れは少し変わってるよ」
勇吉は箸を止めた。
「そんなの分かるのか?」
「旅籠やってればな」
「へえ」
「お前だって腰を見れば馬車に乗ってきたか分かるんだろ」
「まあな」
「同じようなもんだよ」
そういうもんか。
勇吉にはよく分からなかったが、宗助がそう言うならそうなのだろう。
話が一段落する頃には、清兵衛が加兵衛の帳面を横から覗き込んでいた。
「県庁か」
「まだ蕨に来ると決まった話じゃねえぞ」
勇吉は念のため言っておく。
何となく、このままだと自分が言い出したことにされそうな気がしてきた。
「分かってるよ、勇さん」
清兵衛は帳面から目を上げない。
「俺はちょっと言っただけだからな」
「それも分かってる」
「ならいいけど」
清兵衛は返事をせず、帳面の上を追っていた。
やがて、その指がぴたりと止まる。
「それで土地はどうする」




