第二話 浦和で良いなら、蕨でも良いではないか
帰るかと思った男が、まだそこにいる。
「生まれた時からだよ」
「ご家族も?」
「親父も、その前も蕨だ」
「何代くらいです」
「知らん」
「ご自分の家のことなのに?」
「死んだ奴の人数を数えて何になる」
「土地はお持ちですか」
勇吉の手が止まった。
「何だよ。今度は土地を売りつけるのか」
「そうではありません」
「じゃあ、何で聞くんだよ」
男は答えず、懐から銭を取り出して勇吉へ差し出した。言った額はちゃんとある。それでも手の中にはまだ銭が残っている。
「これで足りるんですか」
「足りるよ」
「もう少し取ってもよいのでは?」
「多く取れば早く治るのか?」
「治らないでしょうね」
「じゃあいらねえよ」
残った銭を懐へ戻しても、男は帰ろうとはせず、格子戸の向こうを眺めている。
勇吉もつられて目を向けたが、そこにあるのはいつもの蕨だった。
「この宿は、思っていたより人が多い」
「宿場だからな」
「本陣があり、旅籠もある。人も馬も集められる」
「さっきから何の話だよ」
男はすぐには答えず、しばらく街道を見ていた。
「藩がなくなり、これからは県ごとに役所が置かれます。役所があれば、そこへ人も荷も集まる」
廃藩置県。
その言葉くらいは勇吉も知っている。
偉い奴らが東京のどこかで勝手に決め、気がついたら藩がなくなって県になった。勇吉にとっては、その程度のものだった。
「その話ってよ、俺には何の関係もねえだろ」
「今は、ないかもしれません」
「だったらもう帰れよ。飯が冷えちまってるよ」
「もう冷めていますよ」
「お前さんの話が長えせいもあるだろ」
男の視線が膳へ落ちた。
何を見るのかと思えば、胡瓜だった。
「それは食べないのですか」
「食わねえよ。胡瓜は爺さんの代から敵だからな」
「敵?」
「あいつは野菜みたいな顔して、ほとんど水だろ」
「水なら身体によいのでは」
「そういう問題じゃねえ。気に入らねえんだよ」
とうとう男が声を出して笑った。
何がおかしいんだよ。
勇吉は冷めた味噌汁をすすった。
まずい。
こいつが来る前に食っときゃよかった。
「それで、県がどうした」
「新しくできる埼玉県の県庁は、岩槻へ置かれることになっています」
「決まってるなら、それでいいだろ」
「ただ、すぐ岩槻へ移せるかは別の話です」
「何で?」
「浦和には、すでに役所があります」
「浦和ねえ」
中山道を南へ行った先にある浦和なら、勇吉も何度か行ったことがある。遠くはないが、わざわざ行くとなれば面倒な距離だ。
向こうには役所があって、こっちには本陣や旅籠がある。
……ん?
「浦和でいいなら、蕨でも変わらなくねえか?」
口に出してから、別に深い意味なんかないから、どっちでもいいと思った。
ところが男から笑いが消えた。
「あなたも、そう思いますか」
「そこまでは思ってねえよ。近いし、同じ道だろって話だ」
「蕨の方が東京に近い」
「だろ」
「本陣があり、旅籠もある。人も馬も受け入れられる」
「そんなの浦和も同じだろ」
「浦和には、すでに役所があります」
「なんだよ。だったら浦和で決まりじゃねえか」
「今のままならね」
そこで男は口を閉じた。
何かあるらしいが、自分からは言わない。こっちが聞くのを待っているように見える。
面倒くせえな。
「あんたさ、何しに蕨に来てんだよ」
「腰を診てもらいに」
「その前だよ」
「東京から蕨へ来ました」
「だから、何のために」
男の目が、また格子戸の外へ向いた。
勇吉も同じ方を見る。
旅人が歩き、荷車が行き交い、旅籠から人が出てくる。馬が土を蹴り、どこかの店から呼び込みの声が飛ぶ。朝から何度も見ている、いつもの蕨宿だ。
勇吉には、それ以上でもそれ以下でもない。
この男には何が見えてるんだ?
「場所を見に来ました」
「何の場所だ」
「これから先も、人が集まる場所になり得るのか。それを見ています」
「これから先って、いつまでだよ」
男は少し考えてから答えた。
「百年、あるいはその先まで残るような場所かどうか」
百年?
冗談を言っているようには見えない。
冗談じゃないなら、余計に変な奴だ。
「百年後なんか、俺もあんたも死んでるよ」
「だから面白いんです」
何がだよ。
自分が死んだ後の蕨に人が集まろうが、誰もいなくなろうが、どうやって確かめるんだ。そんなことより、今日の飯が冷めた方がよほど分かりやすい。
男が草履を履き、ようやく格子戸へ手をかけた。
やっと帰るのか。
……そういえば。
「名前は?」
冷めた魚を箸でほぐしながら背中へ声をかけると、男が足を止めた。
「先ほどは、聞かなかったでしょう」
「腰を診てる時は名前なんかいらねえよ。もう客じゃねえから聞いてんだ」
今度こそ言うかと思ったが、男は少し困ったような顔をしただけだった。
「また腰が痛くなったら名乗ります」
「もう来なくていいよ」
「腕は確かなのに、ずいぶんな言い方ですね」
「名前も言わねえ奴に愛想よくしてどうすんだ」
「それも、そうですね」
格子戸が開き、冷たい風が入り込んだ。火鉢の灰がわずかに舞う。
「今日は馬に乗るなよ」
「努力します」
「乗る奴の返事だな、それ」
男は答えず、そのまま外へ出ていった。
勇吉は飯へ戻ろうとして、何となく格子戸の向こうをのぞいた。
少し離れたところに、別の男が待っている。
連れがいたのか。
二人が何を話しているのかは聞こえない。
それより勇吉が見ていたのは、男の腰だった。
一歩、二歩。
来た時には右へ逃げていた身体が、今はまっすぐ前へ進んでいる。右足もきれいに出ていた。
よし。
今日も良い仕事したな、俺。
それを確認すると、もうどうでもよくなった。
二人が向かったのは中山道の南。板橋、その先は東京だろう。
「変な奴」
誰に聞かせるでもなく呟き、膳の前へ戻った。
魚を食い、煮物を口へ運び、冷え切った味噌汁をもう一口すする。
やっぱりまずい。
それでも胡瓜よりはましだ。
ただ、飯を食っている間も、男の言葉だけは妙に頭へ残っていた。
県庁は岩槻に置かれる。だが浦和には、すでに役所がある。
それなら同じ中山道沿いの蕨でも変わらないんじゃないかと、大した意味もなく言っただけだった。
なのに、あの男は百年、その先までと言った。
百年後なんて知るかよ。
魚を口へ運んでも、しばらくするとまたその言葉が戻ってくる。
「……百年ねえ」
膳の端には、朝から一度も場所の変わらない胡瓜が残っていた。
百年後の蕨より、今はこいつの方がよほど気になる。
何でこんなものが飯に入ってるんだ。
勇吉は最後まで、胡瓜には手をつけなかった。




