第一話 腰の悪い男
明治四年(一八七一年)十一月。
蕨宿、人口――約二千二百人。
中山道、蕨宿。
朝から風が冷たかった。
軒先の布がばたばたと鳴り、土の道を馬が通っていく。蹄の音が遠ざかれば、今度はどこかの旅籠から炊いた米と味噌の匂いが流れてきた。
江戸が東京と名を変えて、まだ三年。
将軍はいなくなり、藩までなくなったらしい。
世の中がこれからどうなるのか、勇吉にはよく分からないし、考えたところで分かるとも思っていなかった。朝になれば店を開け、旅人が来れば宿場が動き出す。腰が痛い奴が来れば揉み、骨を痛めた奴が来れば診て、必要なら灸を据える。
勇吉にとっては、それで一日が過ぎていく。
宿場の少し外れにある店には、小さな看板が出ていた。
『揉み 骨つぎ 灸』
その奥で三十八歳の勇吉は、少し遅い朝飯を食っていた。
焼いた魚、煮物、味噌汁。そして胡瓜。
箸でつまみ上げてみたものの、何度見ても食いたいとは思わない。
「……いらねえな。いつ見ても胡瓜は胡瓜だな」
皿の端へ戻したところで、この時間には珍しく外で馬が鳴いた。続いていた蹄の音も店の前で止まり、勇吉は味噌汁をすすりながら格子戸へ目を向けた。
人影がある。
だが、入ってこない。
何してんだ、こいつ。
飯を噛みながら眺めていると、格子戸の向こうで影がわずかに動いた。
ん?
立ち方がおかしい。
身体がほんの少し右へ逃げている。腰か。
そこまで分かれば十分だった。勇吉はまた焼き魚へ箸を伸ばし、一口食べたところで格子戸が開いた。
火鉢の灰がわずかに揺れ、入り込んだ冷たい風に肩をすくめる。
「ごめんください」
四十くらいの男だった。
旅人にしては身なりがいい。草履には街道の土がついているが、着物は悪くない。男が一歩、また一歩と中へ入ってくるのを見て、勇吉の目は自然と足元へ落ちた。
やっぱりだ。
右足を出す時だけ腰の位置がずれる。
足元から腰へ目を移し、最後に顔を見る。その途中で膳の焼き魚も目に入った。
まだ飯の途中なんだけどな。
「腰か?」
男の返事が一拍遅れた。
「……なぜ分かった」
「見りゃ分かるよ」
勇吉は胡瓜の残った膳を脇へ押しやった。
「こちらで身体を診てもらえると聞いた」
「誰に?」
「宿場の者に」
「ふうん」
誰だろうとは思ったが、それより男の立ち方の方が気になった。右腰だけではない。立っている時から、左へきちんと重さが乗っていない。
「東京から?」
「それも分かりますか」
「いや。格好」
初めて男の口元が少し緩んだ。
何でも身体を見れば分かると思われても困る。
「腰はいつから?」
「少し前からです」
「少しじゃ分からん。どのくらい前だ?」
今度は返事が来なかった。
言いたくないなら、それでもいい。勇吉に必要なのは男の身の上ではなく、目の前の身体だった。
「まあ、入んな」
男が草履を脱いで上がる。
座らせて後ろへ回り、腰から背骨、骨盤の周りへ順に手を当てていくと、見た目よりずっと硬い。
「ここか?」
触れた瞬間、男の肩に力が入った。
「……そこです」
「だろうな」
「本当に分かるんですね」
「さっきからそう言ってんだろ」
背中へ軽く手を添える。
「少し前、倒れてみろ」
男は言われた通り身体を前へ倒していったが、途中で動きが鈍くなった。痛みが出たわけではない。来るはずの痛みを警戒して、身体の方が先に止まっている。
案外悪いな。
腰の奥を探ってみると、やはり右だけではない。
外では馬の蹄が鳴り、旅籠の方から笑い声が聞こえていた。
飯、冷めちまったかな。
膳へ目をやると、胡瓜だけが何事もなかったように残っている。
「名前は?」
そういえば聞いていなかった。
腰へ触れたまま何気なく聞くと、男は少し間を置いた。
「……言ったら治るのか」
何だこいつ。
「そりゃそうだ」
勇吉も適当に返した。
「まあいいや。動くなよ」
名前なんてどうでもいい。
右腰の奥に、まだ妙な硬さが残っている。そっちの方が気になった。
「おい、力抜け」
「抜いています」
「抜けてねえよ」
「力を抜くというのは難しいですね。どう抜けばいいんです」
「知らねえよ。俺に聞くな」
「あなたが抜けと言ったんでしょう」
「じゃあ、そのままでいいよ」
「どちらなんですか」
うつ伏せの男から長い息が漏れた。
口の減らねえ奴だな。
それでも勇吉の手は止まらない。右腰は確かに硬いが、そこだけ揉んでも大して変わらない。尻から腿の外側まで強く張っている一方で、左脚にはうまく力が通っていなかった。
右ばかりで身体を支えている。
痛いのは右でも、始まりはそっちじゃない。
「なあ、馬に長く乗ったか?」
返事より先に、男の身体がわずかに固くなった。
「なぜ分かる」
「腿が張ってんだよ」
「それだけで?」
「尻も硬い。腰だけ悪い奴の身体じゃねえよ」
勇吉は左脚を曲げ、膝をゆっくり外へ倒していった。途中から腰まで一緒についてくる。
来るな。
そう思った時には男の腰が畳から浮き、押し殺しきれなかった声が漏れた。
「あ痛たっ!」
「やっぱりこっちだな」
「そこは左です。痛いのは右ですが」
「分かってるよ」
「では、なぜ左を」
「左が動かねえから、右が代わりに働いてんだよ」
「右が悪いわけではないと?」
「悪くなったのは右だ。でも始まりは別だ」
さっきまでならすぐ何か返してきた男が、自分の左脚を見たまま黙った。
勇吉は脚を戻し、今度は尻の奥にある硬いところを探っていく。力任せには押さず、呼吸に合わせて少しずつ圧を加えた。
ここだな。
指が入った途端、男の肩が持ち上がる。
「うぅぅ……そこは痛いです」
「だろうな」
「先ほどから、そればかりですね」
「だろ。分かってて触ってるからな」
「もう少し優しくできませんか」
「できるよ」
「お願いだから優しくお願いします」
勇吉は素直に圧を抜き、今度は触れているだけに思えるほど弱い力で脚を細かく揺らした。
「えっ、それだけですか?」
「うるせえな。強いって言ったり、それだけかって言ったり」
「強くしろとは言っていません」
「黙って寝てろ」
「はい」
ようやく素直になった。
表からは旅人の声や草履の音が聞こえ、ときおり馬の蹄が土を打つ。旅籠から流れてくる炊いた米と味噌の匂いも、冷たい風に乗って格子戸の隙間から入り込んでくる。
どれも勇吉には、子供の頃から聞き慣れ、嗅ぎ慣れたものだった。
いつもの蕨宿だ。
その音の中で身体へ触れているうちに、男の呼吸が少しずつゆっくりになり、畳をつかんでいた指からも力が抜けてきた。
そろそろいいか。
腰ばかりをむやみに揉まず、脚の付け根から腹の横を緩め、最後にもう一度右腰へ手を戻す。先ほどまで指を押し返していた硬さは、幾分やわらいでいた。
それでも何か残っている。
「ん? 馬だけじゃねえな」
「何がです?」
腰の奥をもう一度探る。
馬に乗っただけで、こんな残り方はしない。
「お前さん、馬車にも乗ってるだろ」
返事が来なかった。
顔を向けると、男はさっきまでの疑うような目ではなく、自分の腰へ触れている勇吉の手を見ていた。
「どうして、それを」
「揺られ方が違う」
「身体を触れば、そこまで分かるんですか」
「全部は分からねえよ」
「ですが、馬車には何日も乗りました」
「なら、それだ」
「ずいぶん簡単に言いますね」
「難しく言えば治るのか?」
「いや」
「じゃあ簡単でいいだろ」
男は返事の代わりに、小さく息を漏らした。
何だよ。笑えるじゃねえか。
店へ入ってきた時は何を聞いても短く答えるだけだったのに、腰が楽になってきたせいか、随分しゃべるようになった。
勇吉としては機嫌が良かろうが悪かろうが、ちゃんと立って帰ってくれればそれでいい。
「じゃあ立ってみろ」
男は立ち上がると、ゆっくり身体を前へ傾けた。先ほど痛みが出たところへ近づくにつれて動きが鈍くなり、一度そこで止まる。
しばらく腰の様子をうかがってから、恐る恐るもう少し深く倒した。
痛まない。
それが分かった途端、さらに身体が前へ倒れていく。
「おお! 痛くない」
勢いよく身体を起こした男を見て、勇吉は眉を上げた。
そんなに驚くかよ。
「まだ全部は取れてねえよ」
「来た時とは、まるで違う」
「今日はもう馬に乗るな」
「それは困ります」
やっぱり乗るのかよ。
「じゃあ腰がまた痛くなっても我慢しろ」
「少しなら構いませんか」
「自分の身体だ。好きにすればいいだろ」
突き放すように言いながら、勇吉は使った布を畳み、男の足元を見ていた。
右へ逃げていた身体の傾きはほとんど戻っている。ただ、左脚への乗り方はまだ少し甘い。
男が何度か左右の足を踏み替える。さっきまで右へ逃げていた重さが、今度は左にも乗っている。
何を見られているのか、男にも分かったらしい。
まあ、これならいいだろ。
そこでようやく勇吉の中でも施術が終わった。
脇へ寄せていた膳を見ると、味噌汁から湯気は消え、魚もすっかり冷めている。
胡瓜だけは何も変わっていなかった。
そりゃそうだ。
最初から冷たい。
「ここには長く住んでいるのですか?」
男の声がした。
勇吉は冷めた味噌汁へ伸ばしかけた手を止めた。




