第五話 明治四年の施術帳
「……俺に何か用ですか?」
由三が声を掛けると、入口に立っていた老人は少し表情を緩め、丁寧に頭を下げた。
「失礼ですが、由三さんでいらっしゃいますか」
「そうですけど。どちらさん?」
「突然お邪魔して申し訳ありません。少し、お話を伺いたいことがありまして」
八十歳は越えているだろうか。痩せた身体に古びた上着をきちんと着込み、年齢の割には背筋が伸びている。物腰も穏やかで、ごく普通の老人に見えたが、由三を見つめる目には、何かを確かめようとしているような真剣さがあった。
「ゆうちゃん、知り合い?」
ママに聞かれた由三は首を振った。
「いや、全然。初めて会うと思うんだけど」
「人違いじゃないですか?」
「いえ、間違いありません」
老人はそう言い切ると、由三の顔をもう一度確かめた。
「お父様は、裕二さんですね」
由三はグラスを置いた。
「……そうだけど」
「お祖父様が祐三郎さん。その前が勇治さん」
「ちょっと待って!」
祖父の名前は確かに祐三郎だった。勇治という名前にも聞き覚えはあるが、どうして初対面の老人がそんなことまで知っているのだろう。
「何でうちの親父や爺さんの名前まで知ってんの?」
「少し調べさせていただきました」
「調べたって……何を?」
老人はすぐには答えず、周囲へ目を向けた。
てっちゃんはスマートフォンから顔を上げ、北さんも何事かとこちらを見ている。店の奥ではカラオケが続いていたが、カウンターのこちら側には少しずつ人の視線が集まり始めていた。
「まあ、とりあえず座ってくださいよ。立ち話も何だし」
「よろしいんですか?」
「どうぞ、どうぞ」
由三が隣の椅子を勧めると、老人は礼を言って腰を下ろした。
「何か飲まれます?」
ママが尋ねる。
「温かいお茶をいただけますか」
「はい、少々お待ちくださいね」
老人は膝の上に小さな革鞄を置いた。長く使い込まれているらしく、角の部分は色が薄くなっている。
由三がその鞄を眺めていると、横からてっちゃんが身を乗り出した。
「何だよ、ゆうちゃん。今度は何やらかしたんだ?」
「何もやってねえよ!」
「親父さんの名前まで知ってるんだろ。借金取りか?」
「何でそうなるんだよ!」
てっちゃんが豪快に笑ったところで、老人が真面目な顔で口を開いた。
「いえ、借金のお話ではありませんので、ご安心ください」
「ほら、違うって!」
「そりゃよかったな!」
借金取りでないことが分かっても、てっちゃんは相変わらず面白がっている。由三は呆れながらも、ママが老人の前にお茶を置くのを待った。
「そういえば、おじいちゃんの名前、まだ聞いてなかったですね」
「これは失礼いたしました」
老人は湯呑みを置くと、由三へ向き直った。
「杉浦正一と申します。どうぞよろしくお願いいたします」
「杉浦さんね。俺は由三です。もう知ってるみたいだけど」
「ええ」
「それで杉浦さん、何でうちのことそんなに詳しいんですか?」
「昔の蕨について、少し調べておりまして」
「歴史の先生とか?」
「いえ、そんな立派なものではありません。個人的に古い記録を調べているだけですよ」
杉浦は穏やかに笑い、鞄から一枚の紙を取り出した。
「実は、これをお見せしたかったのです」
差し出された紙には、何人もの名前が縦に並べられていた。
由三、裕二、祐三郎、勇治、祐太郎、勇作。
さらに古い名前が続いている。
「……何これ。うちの家系図?」
「古い記録をたどって、私なりにまとめたものです。間違いがあるかもしれませんが」
「へえ、よく調べましたねえ。自分の家の家系図なんて初めて見たよ」
由三は紙を手に取り、名前を追っていった。親父と爺さんの名前は間違いないが、その上となると誰が誰なのかさっぱり分からない。今まで自分の先祖について調べようと思ったこともなかったので、こうして一枚の紙に並べられると、妙に不思議な気分になった。
「これ、どこまで続いてるんですか?」
「一番古いところをご覧ください」
杉浦に言われて目を移すと、そこには勇吉という名前があった。
「……勇吉?」
「ご存じですか?」
「いや、初めて聞いたと思うけど。うちの先祖?」
「ええ。明治の初め頃、この蕨で人の身体を診ていた方です」
「えっ、施術師?」
由三は思わず顔を上げた。
「そうなんですか?」
「揉んだり、灸を据えたりしていたそうです。今とは随分違うでしょうが」
「へえ! じゃあ俺と一緒じゃん」
昔から蕨に住んでいる家だとは聞いていたものの、先祖がどんな仕事をしていたかなんて考えたこともなかった。父の裕二も同じ仕事をしていたし、弟も柔道整復師だが、まさか明治の頃にまで遡るとは思わなかった。
「面白いなあ。うちの先祖にも、そういう人がいたんだ」
「由三さんも、長く鍼灸のお仕事をされているそうですね」
「ええ、もう三十年以上になりますけど」
「弟さんも柔道整復師でいらっしゃるとか」
「……弟のことまで知ってるの?」
「はい。失礼とは思いましたが、少し調べました」
「いやいや、そこまで調べて会いに来るって、よっぽどのことですよね?」
杉浦は申し訳なさそうに頭を下げた。
「おっしゃるとおりです」
「別に怒ってるわけじゃないですよ。ただ、何で俺なんだろうって」
杉浦は少し考え、由三の前に置かれたウイスキーのグラスへ目を向けた。
「お酒がお好きなんですね」
「えっ? ああ、まあ。好きですけど」
「勇吉さんも、お好きだったそうですよ」
「本当ですか!」
思わず声が大きくなった。
「何だよ、酒好きまで一緒じゃん!」
横で聞いていたてっちゃんが吹き出した。
「お前の家、何代前から酒好きなんだよ!」
「知らねえよ!」
「立派な血筋じゃねえか」
「何が立派なんだよ!」
ママも笑いながら、由三のグラスに氷を足した。
「ゆうちゃん、よかったじゃん。ご先祖様と共通点があって」
「でも、明治四年でしょ? 何飲んでたんだろうな」
由三はカウンターに残された石ちゃんのカリラのボトルへ目を向けた。
「さすがにカリラじゃないだろうし」
「そこかよ! 昔のご先祖様が何飲んでたかなんて分かるか!」
てっちゃんが声を上げたので、由三もつられて笑った。
杉浦は二人のやり取りを楽しそうに聞いていたが、やがて湯呑みを置き、少し懐かしむような口調で話し始めた。
「勇吉さんは、少し変わった方だったそうですよ」
「変わったって、どういう?」
「頼まれ事を、なかなか断れなかったようでして」
「へえ」
「困っている方を見ると、つい手を貸してしまう。そんな方だったと聞いています」
由三には何となく、その人物の姿が想像できた。
「それで自分が面倒なことになるタイプ?」
「そうかもしれませんね」
「何だよ、俺と似てるじゃん」
「お前そのものだろ!」
てっちゃんに即座に言われ、由三は顔を向けた。
「俺じゃねえよ!」
「お前、頼まれると文句言いながら結局やるじゃねえか」
「ちゃんと断る時は断るよ」
「断ってからやるんだろ?」
「……まあ、たまにはね」
てっちゃんは満足そうにグラスを持ち上げた。杉浦はそんな二人を眺めながら、穏やかに頷いている。
「やはり、似ていらっしゃるのかもしれませんね」
「いや、会ったことないから分かんないですけどね」
由三は笑ってから、家系図をテーブルへ置いた。
「それで、杉浦さん。その勇吉って人がどうしたんです?」
「実は、一つ探しているものがありまして」
「何ですか?」
「明治四年の施術帳です」
「施術帳?」
「ええ。『施術覚』という帳面があったそうなのですが、ご自宅に残っていないでしょうか」
「明治四年って、百五十年以上前ですよね?」
「そうなります」
「さすがに、そんなの残ってるかなあ」
「古い記録の中に、その帳面について触れたものがありましてね。もし残っているなら、一度確かめたいのです」
「実物は見たことないんですか?」
「ええ」
「それで、何が知りたいんです?」
杉浦は少し間を置いてから答えた。
「東京から蕨へ来た、一人の男のことです」
「東京から?」
「明治四年のことです。その男は腰を悪くしていて、勇吉さんのところで施術を受けたそうです」
「へえ。腰痛の患者さんか」
由三は何気なく頷いた。
腰を痛めた人間なら、今でも毎日のように診ている。昔の蕨は宿場町だったのだから、旅人が立ち寄ったとしても珍しくはないだろう。
「それで、その人が何か?」
「その男が、勇吉さんと何を話したのか。それを知りたいのです」
「施術帳にそんなこと書きますかね?」
「分かりません」
「普通だったら、どこが痛いとか、何をしたとか、そういうことしか書かないと思うけど」
「そうでしょうね。ただ、どうしても気になりまして」
「その男って、何か有名な人なんですか?」
「それも、まだはっきりとは」
「何だろうなあ。余計気になるじゃん」
杉浦は困ったように微笑んだ。
由三も、何か事情があるのだろうとは思ったが、それが自分の先祖とどう関係するのかまでは分からなかった。
その時だった。
入口の扉が勢いよく開いた。
「ただいまー!」
「おお、石ちゃん! 帰ってきた!」
「おう、ゆうちゃん。まだ飲んでんの?」
「まだ飲んでんのじゃないよ! 一時間くらいで戻るって言ったじゃん」
「そうだっけ?」
「言ったよ!」
石ちゃんは悪びれもせず笑いながらカウンターへ戻り、自分のカリラのボトルを手に取った。
そして、残量を見た途端、嬉しそうな声を上げた。
「おお! 今日のお手伝い、やばいくらい頑張ってくれてんじゃん!」
「石ちゃん、結構減ってるよ」
「いやあ、ゆかりちゃん働き過ぎだよ!」
「はぁい♡ 今日も頑張りました~」
ゆかりちゃんが甘い声で答えると、石ちゃんはますます楽しそうになった。
「俺も飲まないとなくなっちゃうからさ。ゆかりちゃん、濃いめで作ってよ!」
「はぁい♡」
「いや、石ちゃん。ゆかりちゃんに濃いめで作らせたら、またなくなるぞ!」
「いいんだよ! どうせ飲むんだから」
ゆかりちゃんは大きなグラスを取り、氷を入れ始めた。石ちゃんはその様子を満足そうに眺めていたが、ふと由三の隣に座っている杉浦に気づいた。
「あれ? で、何話してんの? 誰、この方は?」
「ああ、こちら杉浦さん。俺のご先祖様のこと調べてるんだって」
「ご先祖様?」
「そう。明治の頃の話らしいんだけど」
「へえ! すごいじゃん!」
石ちゃんは杉浦へ向き直った。
「どうも、初めまして。石ちゃんです」
「初めまして。杉浦正一と申します」
「杉浦さんね。よろしくお願いします!」
石ちゃんは軽く頭を下げ、ゆかりちゃんが作ったカリラを受け取った。
「石ちゃ~ん、濃いめにしましたぁ♡」
「おお、ありがとう!」
一口飲んだ石ちゃんは満足そうに頷き、また由三へ顔を向けた。
「で、ゆうちゃん。ご先祖様がどうしたって?」
「いや、うちの先祖にも施術師がいたらしくてさ。明治四年の施術帳が残ってないかって」
「明治四年? そんな昔の?」
「そうなんだよ」
「へえ、面白いじゃん。それ、探してみれば?」
「探してみようかなとは思ってるけど」
「探そうと思ってるだけじゃ見つかんないだろ」
「そりゃそうだけどさ!」
石ちゃんはカリラを飲みながら、由三の前に置かれた家系図を覗き込んだ。
「でもさ、自分の先祖が何やってたか分かるかもしれないんだろ? 俺だったら絶対探すよ」
「まあね」
「それで杉浦さん、そのご先祖様って何かすごいことしたんですか?」
杉浦は少しだけ目を伏せ、それから二人を見た。
「すごいことかどうかは、私にも分かりません。ただ、その方が診た東京から来た男のことが、どうしても気になっておりまして」
「東京から来た男?」
石ちゃんは由三を見た。
「何それ。何か怪しいじゃん!」
「俺もさっきから聞いてるんだけど、よく分かんないんだよ」
「じゃあ、見つけて確かめるしかないな」
石ちゃんはそう言って、またカリラを口にした。
由三も家系図へ目を落とした。
最初は酒好きの先祖がいたという程度の話だったのに、聞けば聞くほど妙な話になってくる。わざわざ櫻乃まで訪ねてきた杉浦も、単に昔の施術帳を見たいだけとは思えなかった。
「杉浦さん、その帳面が見つかったらどうすればいいですか?」
「もし残っていましたら、東京から来た男についての記録がないか、確かめていただければと思います」
「分かりました。探してみますよ。俺もちょっと気になるし」
「ありがとうございます」
「でも、何で俺に会いに来たんです? 親父に聞いた方が早かったんじゃないですか?」
杉浦は少し困ったように笑った。
「お父様へお尋ねすることも考えました。ただ、今も勇吉さんと同じように、人の身体を診ている方がいらっしゃると知りまして」
「それで俺に? まあ、親父も同じ仕事してたけど、もう引退しちゃってるからね」
「そうでしたか」
「でも、何でそこまでうちのこと調べてるんですか?」
「勇吉さんの残された記録に、以前から興味がありまして」
「へえ……よっぽど面白いこと書いてあったのかな」
杉浦は穏やかに微笑んだが、その答えまでは教えてくれなかった。
やがてお茶を飲み終えると、静かに立ち上がった。
「それでは、そろそろ失礼いたします」
「えっ、もう帰るんですか?」
「ええ。遅い時間に、長々とお邪魔してもいけませんので」
「そうですか。じゃあ、何か分かったらお知らせしますよ」
「ありがとうございます」
杉浦はママにお茶の礼を言い、鞄を持って入口へ向かった。
扉の前で一度振り返る。
「由三さん」
「はい?」
「もし帳面が見つかりましたら、ぜひ東京から来た男についての記録を確かめてみてください」
「ああ、腰の悪い人ね」
「ええ」
「分かりました」
杉浦は丁寧に頭を下げた。
「お会いできて、よかったです」
そう言って店を出ていった。
由三は閉まった扉をしばらく眺めていた。
「……何だったんだろうな、あのおじいちゃん」
「お前んちのこと、随分詳しかったな」
てっちゃんがグラスを持ち上げながら言った。
「そうなんだよ。親父や爺さんの名前まで知ってたからね」
「それで、ゆうちゃん。あの人、また来るの?」
ママに聞かれ、由三はふと顔を上げた。
「……あれ? 誰か連絡先聞いた?」
てっちゃんと石ちゃんが顔を見合わせた。
「俺は聞いてねえぞ」
「俺も知らないよ」
「ママは?」
「私も聞いてないよ。ゆうちゃんが話してたんじゃん」
「あ、そっか」
由三は少し考えたが、すぐにアードベッグのグラスを持ち上げた。
「まあ、いいか。また今度来るでしょ」
「……ゆうちゃんさあ」
石ちゃんが呆れたように笑った。
「あんだけ話して、連絡先も聞いてないの?」
「石ちゃんだって聞いてなかったじゃん!」
「俺、途中から来たんだから!」
「そりゃそうだけどさ」
てっちゃんが大きな声を上げた。
「まあ、由三ならそんなもんだろ」
「何だよ、それ!」
結局、誰も杉浦の連絡先を知らなかったが、それ以上気にする者もいなかった。
石ちゃんは隣の店での話を始め、てっちゃんもいつもの調子で口を挟む。ママが北さんの赤ワインを注ぎ足す頃には、杉浦が座っていた椅子もすっかり元の酒場の風景に戻っていた。
由三は家系図を折り畳み、上着のポケットへしまった。
明日、親父にでも聞いてみるか。
その程度のつもりだった。
*
翌日、由三は仕事の合間に父親へ電話を掛けた。
『何だ?』
「親父、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
『何だよ』
「うちの先祖で、勇吉って人いた?」
電話の向こうで少し間があった。
『勇吉? ああ、そんな名前を聞いたことはあるな』
「本当? 明治の頃の人らしいんだけど」
『そうだったと思うぞ。何で急にそんなこと聞くんだ?』
「いや、昨日さ、変なおじいちゃんが櫻乃に来てさ」
『また飲みに行ってたのか』
「それはいいんだよ、日課だから。それより親父だって昼から飲んでんだろ。母ちゃんが愚痴ってたぞ」
『俺はもう引退してんだからいいんだよ』
「俺だって仕事終わってから飲んでんだから同じじゃん!」
『お前、そんな話するために電話してきたのか?』
「違うって! 勇吉の話だよ!」
『だったら最初からそう言えよ』
「最初から言ってんじゃん!」
由三は昨日の出来事を説明した。
杉浦という老人が櫻乃に現れ、父親や祖父の名前まで知っていたこと。勇吉という先祖が施術師だったらしいこと。そして、明治四年の施術帳を探していること。
黙って聞いていた裕二だったが、施術帳という言葉が出たところで、何か思い出したらしい。
『そういや、昔の書類が入った箱があったな』
「えっ、あるの?」
『あるかどうかは分からんぞ。爺さんの物を片づけた時、古い帳面やら何やらが出てきたんだ』
「それ、どうしたの?」
『捨てるのも何だから、まとめて取っておいたと思うけどな』
「どこに?」
『お前んちに渡した箱があっただろ』
「……箱?」
『ほら、古い写真とか書類が入ってるって渡したやつ』
由三は少し考えた。
何年か前、父親から古い書類を預かったことは覚えている。ただ、中身まで確認した覚えはなかった。
「そういや、あったような気もするけど。あれ、どこやったっけ」
『お前が持ってったんだから、俺に聞くなよ』
「そりゃそうだけどさ」
『さとさんに聞いてみろ。お前より覚えてるだろ』
「……まあ、そうだね」
反論できなかった。
電話を切ると、由三はすぐにさとへメッセージを送った。
『前に親父から預かった古い箱って、どこにあるか知ってる?』
しばらくして返事が届いた。
『物置の奥にあると思うけど。何か探してるの?』
『昔の施術帳があるらしい』
『また変なこと始めたの?』
『いや、今回は結構面白い話なんだって』
『じゃあ帰ってから自分で探してね』
由三は画面を見ながら口元を緩めた。
何とも、いつもどおりの返事だった。
*
その日の仕事を終えた由三は、珍しくどこにも寄らずに帰宅した。
普段なら仕事帰りに一杯くらい飲んでから帰ることも多いのだが、今日は朝から明治四年の施術帳のことが頭に残っていた。父親から預かった箱に、本当にそんな古い物が入っているのだろうか。
「ただいまー」
居間へ入ると、さとが少し驚いた顔でこちらを見た。
「あれ、ゆうぞうくん。今日は早いね」
「うん。今日はまっすぐ帰ってきた」
「珍しい。飲んでこなかったの?」
「そうなんだよ。俺もびっくりしてる」
「自分でびっくりすること?」
「いや、あの古い箱が気になってさ」
さとは呆れたように笑った。
「そんなに気になってたんだ」
「まあね。百五十年以上前の施術帳なんて、普通見つからないじゃん」
「じゃあ、ご飯食べたら探してみようか」
「そうする」
夕飯を済ませると、由三は物置へ向かった。使わなくなった家電の箱や季節物の荷物が積まれ、奥の棚にはいつから置かれているのか分からない段ボールまである。
「さとー! どの箱?」
「奥の方の、茶色いやつ!」
「茶色い箱ばっかじゃん!」
「古い写真って書いてあるでしょ!」
言われて探すと、棚の奥にそれらしい箱が見つかった。埃をかぶった段ボールの側面には、確かに『古い写真』と書かれている。
由三は箱を引っ張り出し、居間へ運んだ。
「お父さん、何やってんの?」
澪が顔を覗かせた。
「親父から預かった古い箱、探してたんだよ」
「何それ。この前の土地の話?」
「いや、ちょっと違うんだけどさ。うちの先祖が書いた帳面があるかもしれないんだって」
「先祖って、どのくらい昔?」
「明治の頃」
「えっ、そんな古いの?」
澪は興味を持ったらしく、由三の隣へ座った。
「じゃあ、土地のことも分かるかもしれないじゃん」
「お前、まだそれ気にしてんの?」
「だって、気になるじゃん」
そこへさともやってきた。
「何か本当に古そうだね」
「親父が爺さんの物を片づけた時の箱らしい」
「そんなの、どうして今まで見なかったの?」
「だって、古い書類だろ。見る機会ないじゃん」
「ゆうぞうくん、そういうところ昔から変わらないよね」
「何が?」
「自分が興味ないことは、全部後回し」
「そんなことないでしょ」
「あるよ」
澪まで頷いた。
「あると思う」
「親子で何なんだよ!」
由三が文句を言いながら箱を開けると、中には古い写真や書類の封筒、使われなくなった手帳などが詰め込まれていた。
昭和の頃の写真もあれば、もっと古そうな紙もあり、領収書や住所の書かれた封筒まで混ざっている。どういう基準でまとめたのか分からないが、少なくとも祖父の代から誰かが捨てずに取っておいたものらしい。
「うわ、何これ。昔の写真じゃん」
澪が一枚を取り上げた。
「これ、おじいちゃん?」
「どれ?」
「若い頃じゃない?」
由三が覗き込むと、確かに父親によく似た顔が写っていた。
「たぶん親父だね。若いなあ」
「お父さんより格好いいじゃん」
「嘘だろ!」
「本当だ。若い頃の裕二さんだね」
さとまでそう言うので、由三は不満そうに顔を向けた。
「何でそんなにすぐ分かるの?」
「昔の写真、見せてもらったことあるから」
「俺より詳しいじゃん」
自分の家の写真なのに、妻の方がよく覚えているらしい。
澪が次の写真を手に取っている間に、由三は書類の束を確かめていった。大半は比較的新しい物だったが、箱の底に布で包まれた小さな冊子がいくつか入っている。
「……これ、何だ?」
布を広げると、茶色く変色した紙の束が現れた。表紙は柔らかくなり、端の方はところどころ傷んでいる。
由三は冊子をテーブルへ置き、表紙の墨文字を覗き込んだ。
「さと、ちょっと見て。これ、読める?」
「えーっと……施術、覚?」
「……ちょっと待って」
由三は目を細め、薄くなった文字をもう一度確かめた。
『明治四年 施術覚』
「……あった」
「えっ?」
「これだよ。昨日のおじいちゃんが探してたやつ!」
澪が慌てて近づいてきた。
「何? 見つかったの?」
「うん。明治四年の施術帳!」
「えっ、そんな昔の物が本当に残ってたの?」
「そうなんだよ!」
由三自身、まだ半信半疑だった。
杉浦が櫻乃で話していた帳面が、本当に自宅の物置から出てきたのだ。
「ゆうぞうくん、あんまり触ると破れちゃうよ」
「ああ、そうだね」
さとに言われ、由三は冊子をテーブルに置いたまま表紙を確認した。
その下には、もう一つ名前が書かれている。
『勇吉』
由三は上着のポケットから家系図を取り出し、一番古いところに書かれた名前と見比べた。
「……本当に勇吉って書いてある」
「その人が、ゆうぞうくんのご先祖様?」
「そうらしい」
「身体を診る仕事してた人だっけ?」
「そう。杉浦さんが言ってた」
澪も家系図を覗き込んだ。
「すごいじゃん。お父さんの仕事って、そんな昔から続いてたんだね」
「いや、ずっと同じ仕事だったかどうかは分かんないけどさ」
由三は慎重に最初の頁を開いた。
想像していたより細かな文字が並び、日付や人の名前らしいものの横に、身体の状態や施術内容が記されている。金額まで書き添えられており、由三は思わず身を乗り出した。
「……へえ、結構ちゃんと書いてるな」
「読めるの?」
さとが尋ねる。
「全部は無理だけど、何となくね。ほら、この人は腰が痛くて来てるんだと思う。こっちは肩かな」
古い文字には苦戦したが、施術師として馴染みのある言葉もあった。患者がどう動かすと痛むのか、どこを施術したのか。読み取れる部分を追っていくと、勇吉なりに身体の状態を細かく確かめていたことが分かってくる。
「これ、灸って書いてあるよね?」
「そうだと思うけど」
「やっぱりな。こっちは揉んだって書いてあるのかな」
「ゆうぞうくん、よく分かるね」
「仕事のことだからさ。普通の文章より、こっちの方が何となく読めるんだよ」
由三は感心していた。
百五十年以上前の施術師が、どんな方法で人の身体を診ていたのか。道具も知識も今とは違うだろうが、患者の状態を確かめ、その結果を記録するところには、同じ仕事をしてきた人間として親近感があった。
「なかなかやるじゃん、ご先祖様」
由三が小さく笑うと、澪が横から口を挟んだ。
「ねえ、土地のことは書いてないの?」
「また土地かよ!」
「だって気になるじゃん」
「これは施術の帳面だからね。土地のことは書いてないと思うよ」
「ご先祖様、土地持ってなかったのかな」
「知らないよ」
「お酒飲みすぎて売っちゃったとか?」
「それ、俺がこの前言ったやつじゃん!」
澪は悪びれもせず笑い、さとも呆れたように首を振った。
「親子で同じこと言ってるんだから」
由三は言い返そうとしたが、確かに自分が言い出した話だったので、そのまま帳面へ目を戻した。
何頁かめくったところで、文字の並びが少し乱れている部分があった。
ほかの記録に比べて墨の濃さが不揃いで、途中から行も斜めになっている。患者の名前らしい文字や施術内容の横に、何か書き足されているようだった。
「……何だ、ここ」
由三は顔を近づけ、読める文字を拾っていった。
『胡瓜出る。食わず。やはり敵なり。』
「…………」
もう一度読んだ。
胡瓜。
食わず。
敵。
「……キュウリ?」
思わず声が出た。
「何?」
澪が覗き込む。
「いや、ここにキュウリって書いてあるんだけど」
「キュウリ?」
「胡瓜出る。食わず。やはり敵なり……だって」
澪は一瞬黙った後、吹き出した。
「お父さんじゃん!」
「嘘だろ!」
さとまで顔を寄せてきた。
「何それ! ご先祖様もキュウリ嫌いだったの?」
「いや、知らないよ! でも、そう書いてあるんだよ!」
「敵って、何?」
「俺が聞きたいよ!」
由三は可笑しくなって、もう一度その文字を見た。
何の事情があったのか分からないが、とにかく食べたくなかったことだけは伝わってくる。
「何だよ、この人……」
「ねえ、お父さん。酒好きで、身体を診る仕事してて、キュウリ嫌いなんでしょ?」
「そうみたいだね」
「もう、お父さんじゃん」
「俺じゃないよ!」
家族で笑い合っているうちに、百五十年以上前の勇吉という男が、急に身近な存在に思えてきた。
澪はやがて古い写真の方へ戻り、さとも箱に入っていた書類を整理し始めたが、由三はまだ帳面から目を離せなかった。
杉浦が話していた、東京から来た男のことを思い出したのだ。
腰を痛めて勇吉の施術を受けたという、四十歳くらいの人物。
あの老人は、どうしてそんな患者のことを調べているのだろう。
由三は日付を確かめながら、もう一度頁をめくり始めた。
蕨宿で暮らす人間だけでなく、旅人らしい記録も混ざっている。名前が書かれている者もいれば、どこから来たのかしか分からない者もいた。
何頁か進んだところで、由三の目が止まった。
「……あれ?」
『昼過ぎ、男一人。四十くらい。東京より来る。右腰悪し。』
その文字を見た途端、昨日の杉浦の話が頭に浮かんだ。
「……これじゃん」
「何が?」
さとが振り返る。
「昨日のおじいちゃんが言ってた人だよ。東京から来た、腰の悪い男」
「本当?」
「ほら、四十くらいって書いてある。右腰悪し……だって」
由三は続く記録を読み進めた。
身体を前へ倒す時に痛みがあり、立ち上がる時にも腰をかばっているらしい。古い言葉で書かれているため細かなところまでは分からないが、勇吉が動きを確かめながら施術していたことは読み取れた。
「へえ……結構ちゃんと動きも見てるんだな」
「何か分かった?」
「この人、ただ腰が痛いだけじゃなくて、どう動かすと痛むかまで書いてあるんだよ。俺らが今やってるのと、そんなに変わらないじゃん」
由三は感心しながら読み進めた。
その時、施術内容の下に見慣れない一文があることに気づいた。
『妙な話をする。』
「……妙な話?」
由三の声に、さとがもう一度顔を近づけた。
「何それ?」
「いや、分かんない。妙な話をするって書いてある」
「患者さんが?」
「たぶんね」
次の行は少し文字が崩れていた。
由三は帳面を傷めないよう顔を近づけ、ゆっくりと読み取っていった。
『浦和でよいなら、蕨でもよいではないか。』
「……浦和?」
思わず声に出した。
「浦和でよいなら、蕨でもよいではないか……?」
さとが首を傾げた。
「どういう意味?」
「分かんない。何が浦和でも蕨でもいいんだろ」
由三は前後の記録を確かめた。
東京から来た男が腰を痛めていたことは分かる。勇吉がその男を診たことも、施術内容から読み取れる。
しかし、この一文だけは妙だった。
患者の身体とは何の関係もない。
「何の話だろうな……」
昔の蕨と浦和。
その二つを並べて語るような出来事が、明治四年にあったのだろうか。
由三は少し考え、子供の頃に学校で習った歴史を思い出した。
蕨は昔、県庁が置かれた町だった。その後、鉄道が通り、周辺の町を取り込みながら大きくなり、やがて東京へ編入された。
今では人口五百十二万人の大都市だ。
この町で育った人間なら、誰でも知っている話だった。
ただ、なぜ県庁が蕨に置かれたのかと聞かれれば、由三には説明できなかった。
「……もしかして」
「何?」
「いや、昔の県庁の話かなと思って」
「県庁?」
「うん。蕨に県庁があったって、学校で習ったじゃん」
「習ったけど、それがどうしたの?」
「いや、浦和って書いてあるからさ。何か関係あったのかなって」
自分で言いながら、少し無理がある気もした。
施術を受けに来た男が県庁の話をすることだって、ないとは言えない。しかし、勇吉がわざわざ帳面に残すほどの話だったのか。
「まあ、考えすぎか」
由三が次の頁へ進もうとした時、さとが声を掛けた。
「ゆうぞうくん、ちょっと待って」
「何?」
「ここの字、後から書いたみたいじゃない?」
さとが指さしたのは、頁の端に小さく書き加えられた文字だった。
ほかの部分より墨が濃く、行の向きも少し違っている。
由三は目を凝らした。
短い書き込みだったが、その中に見覚えのある二文字があった。
『県庁』
「……えっ?」
もう一度確かめる。
「……やっぱり県庁って書いてある」
「本当だ」
「でしょ?」
「でも、何で施術の帳面にそんなこと書いてあるの?」
「だから、それが分かんないんだよ」
由三はさっき読んだ一文へ目を戻した。
『浦和でよいなら、蕨でもよいではないか。』
その下に、後から書き足されたらしい『県庁』という文字。
やはり何か関係があるのだろうか。
由三は記録の中に男の名前がないか探した。ほかの患者には名前が残っている者も多いのに、この男については年齢や身体の状態しか見当たらない。
「名前、書いてないのかな……」
「誰の?」
「この東京から来た人。ここだけ名前が見つかんないんだよ」
読めない文字の中に紛れている可能性もあったが、何度か確かめても見つけられなかった。
由三は手を止めた。
杉浦が探していたのは、間違いなくこの記録なのだろう。
「あー、杉浦さんに聞けば何か分かるのかな」
そう呟くと、さとが顔を上げた。
「聞いてみればいいじゃん」
「いや、連絡先聞き忘れちゃったんだよ」
「えっ、あんなに詳しい人だったのに?」
「そうなんだよ。飲んでたからさ」
「もう、ゆうぞうくんは……」
さとは呆れたように笑い、テーブルに置かれていた家系図を手に取った。
「これ、そのおじいちゃんがくれたの?」
「そう。すごいでしょ。俺、自分の家の家系図なんて初めて見たよ」
「本当だね。随分古いところまで調べてあるんだ」
さとは紙を眺めながら裏返した。
その時、手が止まった。
「……ねえ、これ違う?」
「何が?」
「電話番号、書いてあるよ」
「えっ?」
由三が覗き込むと、紙の裏に『杉浦正一』という名前と電話番号が丁寧な字で記されていた。
「……嘘だろ! いつの間に書いたんだ?」
「最初から書いてあったんじゃない?」
「いや、全然気づかなかったよ!」
「ちゃんと裏まで見なさいよ」
「ごもっともです……」
昨日、櫻乃であれだけ話しておきながら、連絡先を聞き忘れたと思っていた。てっちゃんにも石ちゃんにも呆れられたが、実際には杉浦がきちんと残してくれていたらしい。
「本当、丁寧な人だなあ」
「ゆうぞうくんが適当すぎるんでしょ」
「否定できないな」
由三はスマートフォンを取り出し、杉浦の電話番号を登録した。
「明日、連絡してみようかな」
「そうしたら? きっと喜ぶと思うよ」
「そうだね」
さとは古い写真や書類を片づけ始め、澪も何枚か気に入った写真を見つけたらしく、母親と一緒に眺めていた。
由三はもう一度、施術帳を開いた。
東京から来た男。
その男が何を話したのか、杉浦は知りたがっていた。
勇吉は確かに施術をしている。そして、患者の身体について書き残した記録のすぐ下には、浦和と蕨を比べるような言葉があり、後から加えられたらしい『県庁』という文字まである。
だが、それらがどうつながるのか、由三には分からなかった。
「ゆうぞうくん、そろそろ片づけようよ。明日も仕事でしょ」
さとに声を掛けられ、由三は顔を上げた。
「ああ、そうだね」
返事をしたものの、もう一度だけ帳面へ目を落とした。
勇吉。
明治四年、この蕨で人の身体を診ていた男。
自分と同じ仕事をし、酒が好きで、キュウリを敵だと書き残すような先祖だったらしい。
そんな男が、どうして県庁の話に関わっていたのか。
由三は帳面の表紙に書かれた名前をしばらく眺め、誰に聞かせるでもなく呟いた。
「……ご先祖様、何やったんだよ」
**現代編・完**




