第四話 櫻乃の夜
蕨駅から少し離れた、古い飲食店街。
大通りには新しいビルが並び、少し歩けば立派な商業施設もあるというのに、路地を一本入ると、昔から変わらない小さな店が肩を寄せ合うように並んでいる。
その一角に『櫻乃』はあった。
一階の路面店で、古びた看板と少し色あせた暖簾が目印になっている。初めて訪れる人間なら、ここにスナックがあると気づかず通り過ぎてしまうかもしれないが、由三にとっては何年も通っている馴染みの店だった。
扉を開けた途端、聞き覚えのある声が飛び込んできた。
「だから俺は、ギロッポンか赤坂のバーで飲んでる男なんだよ。港区のイケおじなんだから」
由三は思わず笑った。
「また言ってるよ、あの人」
涼しい空気と酒の匂いに迎えられながら中へ入ると、カウンターの向こうではママがグラスを拭いていた。
「ゆうちゃん、いらっしゃい。遅かったじゃん」
「まだそんな時間じゃないだろ」
「石ちゃん、もう随分飲んでるよ」
「知ってる。入ってきた瞬間から聞こえてた」
由三が笑いながらカウンターへ向かうと、眼鏡を掛けた細身の男がグラスを持って振り返った。
「おう、ゆうちゃん。遅いよ」
「石ちゃんが早すぎるんだよ。俺、仕事してたんだから」
「仕事は大事だよ。俺だって今日仕事してたんだから」
「それで何時から飲んでんの?」
「細かいこと聞くなよ」
「自分で仕事の話したんじゃん」
石ちゃんは悪びれもせず笑い、グラスに残っていたカリラを飲んだ。
六十歳。化学会社の二代目社長で、仕事では決断が早い。由三が何気なく旅行の話をすれば、その日のうちに予定を組み始め、翌日にはホテルまで押さえてしまうような男だった。
ただし、酒が入ると話は少し違ってくる。
六本木と赤坂で飲んでいる自分は港区のイケおじなのだと、もう何年も同じことを言っていた。
「で、今日はギロッポンから来たの?」
「今日は蕨」
「じゃあ蕨のおじさんじゃん」
「俺は港区でも飲んでる男なんだよ」
「だから今、蕨にいるじゃん」
石ちゃんは何か言い返そうとしたが、ママに笑われ、それ以上は続けなかった。
「ゆうちゃん、最初は何飲む?」
「レモンサワーで」
「はいはい。いつものね」
ママは四十六歳。綺麗な顔立ちをしていて、初めて来た客が少し緊張することもあるのだが、常連客に対しては遠慮がない。
由三が腰を下ろすと、ママは氷を入れたグラスを用意しながら、ちらりとこちらを見た。
「さとちゃんは?」
「さっきまで店にいたよ。澪と一緒に帰った」
「喧嘩してない?」
「なんで最初に喧嘩なんだよ」
「してないの?」
「してないよ」
「珍しい」
「嘘だろ!」
ママは楽しそうに笑い、出来上がったレモンサワーを由三の前へ置いた。
石ちゃんがそのグラスを見て、いかにも不満そうな顔をする。
「まだそんなの飲んでんの?」
「一杯目だからいいじゃん」
「最初からウイスキーでいいだろ」
「石ちゃんは最初から最後までカリラじゃん」
「当たり前だよ」
「何が当たり前なの?」
石ちゃんはグラスを持ち上げ、少し得意そうに言った。
「俺はカリラが好きだからじゃなくてさ。カリラが俺に似合うっていうか、俺にカリラが合わせて来る感じなんだよ」
由三は一瞬だけ石ちゃんの顔を見て、それから軽く頷いた。
「うんうん。似合うね」
「だろ?」
「じゃあ、俺も飲んじゃおうかな」
「いいじゃん。カリラが合わせて来るんだから」
「俺にも合わせてくれるの?」
「もちろん」
石ちゃんは満足そうに笑った。
乾杯するでもなく、由三はレモンサワーを一口飲んだ。
仕事の終わりに飲む最初の一杯は、やはりうまい。冷たい炭酸が喉を通っていくのを感じながら周囲を見回すと、少し離れた席では、てっちゃんがスマートフォンを覗き込んでいた。
白髪に白い髭、身体も大きい。六十五歳になった今でも、座っているだけで妙な迫力がある。
「てっちゃん、何見てんの?」
「ん? いや、ちょっとな」
「なんだよ、見せてよ」
「お前には関係ねえよ」
「そんなこと言われたら気になるじゃん」
由三が身を乗り出すと、てっちゃんはスマートフォンを少し遠ざけた。
「だから何でもねえって」
「変なもん見てんじゃないの?」
「お前と一緒にすんなよ!」
「俺、何も言ってねえじゃん!」
てっちゃんは大きな声で笑い、スマートフォンを伏せてしまった。
何を見ていたのかは結局分からなかったが、まあ、その程度の話である。隣の客が何をしていようと、酒がうまければそれでいい。
「ゆうさん、こんばんは」
今度はカウンターの奥から、落ち着いた声がした。
「北さん、お疲れさまです」
北さんは七十六歳。元銀行の支店長で、いつも穏やかな口調で話す。ただし、その穏やかさと行動が一致しているかどうかは、また別の問題だった。
今日もきちんとした服装でカウンターに座り、目の前には赤ワインのボトルが置かれている。北さん自身のグラスには少ししか入っていなかった。
「ママ、もう少しどうですか」
「いただきまーす」
ママが嬉しそうにグラスを差し出すと、北さんは自分の分よりずっと多くワインを注いだ。
「北さん、自分よりママに飲ませてるじゃん」
「私は、それほど量を飲めませんから」
「じゃあ、なんでボトル入れるの?」
北さんが答えるより先に、ママが口を開いた。
「私のため」
「自分で言う?」
「だって、そうだもん。ねえ、北さん?」
「まあ、そうですね」
「ほら!」
ママは満足そうにワインを一口飲み、北さんも楽しそうに笑っている。
「北さん、優しいねえ」
「ゆうさんも飲みますか?」
「えっ、いいの?」
「どうぞ、どうぞ」
ママが早速、別のグラスを取り出した。
「じゃあ、ゆうちゃんもいただこうか」
「いや、ママの酒じゃないでしょ」
「北さんがいいって言ってるんだから」
「そうだけどさ」
結局、由三の前にはレモンサワーと赤ワインが並んだ。まだ来て十分も経っていない。
石ちゃんはその様子を見ながら、何がおかしいのか一人で笑っている。
「ゆうちゃん、もう二杯じゃん」
「石ちゃんが言うなよ。今日何杯飲んでんの?」
「数えてない」
「だろうね」
北さんの隣には、由三の知らない女性が座っていた。
上品な服装の、よく笑う人だった。先週は違う女性だったような気がするし、その前も確か別の女性だった。
由三が何となくそちらを見ていると、北さんと目が合った。
北さんは一瞬だけ目を細め、口元に笑みを浮かべた。
余計なことを言うな、と目で伝えてきたように見えた。
「ゆうさん、何か?」
「えっ、いや、別に」
「そうですか」
北さんは穏やかに笑った。
何も聞いていないのに、何かを見透かされたような気がした。
由三がレモンサワーに口をつけると、北さんは上着のポケットから葉巻を取り出した。
「あ、北さん……」
止める間もなく火がつき、しばらくすると独特の濃い煙がカウンターへ流れてきた。
由三が石ちゃんを見ると、案の定、顔をしかめている。
「……あのじじい、臭えよ」
「石ちゃん、声でかいって!」
「だって臭いだろ!」
石ちゃんは喘息があり、喉も弱い。由三もてっちゃんもそのことを知っているので、店では紙巻きたばこを控えて電子たばこで済ませることが多かった。
ところが北さんだけは、あまり気にしない。
「北さん、聞こえてる?」
由三が声を掛けると、北さんはゆっくり振り返った。
「ええ、聞こえていますよ」
「聞こえてんのかよ!」
石ちゃんが思わず身を乗り出した。
「俺、喘息なんだって。葉巻はちょっと勘弁してよ」
「それは大変ですね」
「知ってるだろ!」
「でも、良い香りでしょう」
「香りじゃねえよ!」
てっちゃんが吹き出し、ママまで笑い始めた。
「北さん、石ちゃんがいる間だけでもちょっと控えてあげてよ」
「そうですか」
北さんは葉巻を見つめ、それから石ちゃんへ視線を移した。
「石さんは、煙が駄目なんですね」
「だからさっきからそう言ってんじゃん!」
結局、北さんは名残惜しそうに葉巻を灰皿へ置いた。
「いやあ、良い葉巻なんですけどね」
「分かったよ! 良い葉巻なのは!」
石ちゃんが咳払いをすると、由三とてっちゃんは顔を見合わせた。
こんなやり取りも、もう何度見たか分からない。それでも北さんは、次に来た時にはまた葉巻を取り出すのだろう。
由三は自分の電子たばこを手に取りながら、ふと思い出したように口を開いた。
「そういや北さん、俺また職質されたんだよ」
「またですか?」
北さんが由三を見た。
頭を剃り上げ、顎には髭、耳にはいくつもピアスが並んでいる。北さんは一度ゆっくり頷いた。
「ゆうさんは、しょうがないですよ」
「なんでだよ!」
その声を聞いて、てっちゃんが顔を上げた。
「何だ、また警察に止められたのか?」
「そうなんだよ。自分の店の前でたばこ吸ってただけだぞ」
「当たりめえだろ! 俺でも声掛けるわ」
「てっちゃんに言われたくねえよ!」
「俺は大丈夫だろ」
「いや、てっちゃんも相当だぞ」
「一緒にすんなよ!」
てっちゃんが豪快に笑った。
由三としては少し不満だった。確かに見た目で誤解されることはあるが、本人は至って普通にしているつもりなのである。
「それで、何聞かれたの?」
ママが興味深そうに尋ねた。
「何してるんですかって」
「何て答えたの?」
「休憩中って言ったらさ、普通の大人はこんな時間に外で休憩なんかしないって言われたんだよ」
「それはまあ、警察も気になるよね」
「それで、免許か身分証明できるものありますかって言われたから、店に戻ったの」
「店に?」
「そう。そこの整体院が俺の店だから。身分証を取りに戻ったら、警察がすぐに『もういいです』っていなくなったんだよ」
「えっ、見せてないの?」
「見せてない。酷くね?」
由三が笑うと、ママも吹き出した。
「それ、確認する前に帰っちゃったんじゃん」
「だろ? でも、お客さんに『初めて職質見た!』って喜ばれたから、まあいいけどさ」
「見世物じゃねえんだぞ」
てっちゃんが笑いながら言った。
「でも、ゆうちゃんは普通の人は職質されないって、自覚した方がいいよ」
「そんなに怖いかなあ」
「怖いだろ!」
「俺は普通だと思ってるんだけど」
「その自覚が一番怖えんだよ!」
てっちゃんが大声で笑った。
由三は自分の頭を撫でながら少し考えた。確かに髭もピアスもあるし、一般的な五十歳の男性とは少し違うかもしれないが、本人としてはこれが普通なのだ。
「髭とピアスは俺のチャームポイントだから」
「自分で言う?」
「言うよ。彫物を入れてないのが、逆に俺の自慢なんだから」
「何でそこが自慢なんだよ」
「若い頃、入れようと思ったことがあったんだけどさ。嫁に、彫物入れたらMRIが撮れなくなるぞって脅かされて、やめたんだよ」
「それでやめたのか?」
「まあ、そういうこと。内緒だけどな」
「今ここで言ってんじゃねえか!」
てっちゃんがテーブルを叩いて笑い始め、ママも吹き出した。
「さとちゃん、そんなこと言ったの?」
「言ったよ。あいつ、昔から俺には厳しいんだから」
「でも、言うこと聞いたんだ」
「そりゃ、MRI撮れなくなったら困るだろ」
「そんなに怖かったのかよ!」
「違うって!」
由三は笑いながら否定したが、てっちゃんはまだ笑っている。
実際のところ、入れ墨があるからといって必ずMRI検査ができなくなるわけではない。けれど、若い頃の由三は、さとにそう言われて妙に気になってしまったのだ。
「そういや、娘が小さい頃も大変だったんだよ」
「何が?」
「保育園でさ、『うちのお父さんはよく逮捕される』って言ってたらしくて」
「ええっ!」
ママが目を丸くした。
「職質の話を、逮捕されたって覚えてたんだよ。先生に誤解を解くのが大変だったんだから」
「そりゃ先生も心配するわ!」
「俺だって好きで職質されてるわけじゃないよ」
「でも、娘からしたら警察に止められるお父さんだからな」
てっちゃんが笑いながら言った。
「そんなに怖いかなあ」
「まだ言ってるよ」
ママは呆れたように笑った。
石ちゃんもグラスを持ち上げ、由三の顔を眺めている。
「ゆうちゃん、やっぱりカリラ飲めよ」
「何でその話に戻るんだよ」
「似合うから」
「俺に?」
「そう。飲めば分かるよ」
「便利だな、その理屈」
由三も笑いながら、ママにグラスを差し出した。
「じゃあ、少しもらおうかな」
「はいはい」
「石ちゃんのボトル、減るぞ」
「いいよ、いいよ。飲めよ」
石ちゃんは気前よく手を振った。
ママがカリラを注ぎ、由三が一口飲んだところで、石ちゃんのスマートフォンが震えた。
画面を確認した石ちゃんは、何か思い出したような顔をして財布を手に取った。
「あ、俺ちょっと中抜けしてくるわ」
「えっ、今から?」
「ちょっと隣の店に顔出してくる」
「また?」
「さっき、後で行くって言っちゃったんだよ」
「何でそんな約束すんの?」
「酒の約束は守らないと駄目だろ」
「仕事の予定みたいに言うなよ」
石ちゃんはもう立ち上がっている。
「一時間くらいで戻るから」
「一時間? 全然ちょっとじゃないじゃん」
「ゆうちゃん、細かいなあ」
石ちゃんは笑いながら扉へ向かった。
隣には、石ちゃんがよく顔を出すガールズバーがある。櫻乃に来たかと思えば、途中で抜けてそちらへ行き、しばらくして何事もなかったように戻ってくる。
それが石ちゃんだった。
「あ、石ちゃん。隣に可愛い子がいたら呼んでよ」
由三が背中に声を掛けると、石ちゃんは扉の前で振り返った。
「自分で探しに来いよ」
「いや、俺はここで飲んでるからさ。いい子がいたら連れてきて」
「分かった、分かった。いたらな」
「頼んだよ!」
石ちゃんは笑いながら店を出ていった。
扉が閉まると、ママが由三を見た。
「ゆうちゃん、何言ってんの」
「何が?」
「可愛い子って」
「いいじゃん、連れてきてくれたら」
「さとちゃんに言いつけるよ」
「それはやめて!」
ママが声を上げて笑った。
由三も笑いながら、カリラのグラスを持ち上げた。
石ちゃんがいなくなっても、櫻乃の賑やかさは変わらない。
てっちゃんは隣の客と何やら話し始め、北さんはママへ赤ワインを勧めている。店の奥では誰かがカラオケの曲を探しており、時折、聞き覚えのある歌のイントロが流れてきた。
由三はカリラを飲みながら、ボトル棚を眺めた。
「ママ、俺のボトル、イラハある?」
「イラハは前回なくなって、アードベッグ入れときました~」
「酔ってて全然覚えてねえわ」
「ちゃんと入ってるよ」
「じゃあ、それを水割りで」
ママが棚からアードベッグのボトルを取り出したところへ、横から甘い声が割り込んできた。
「お酒のボトル、お手伝いいたします~♡」
声の方を見ると、ゆかりちゃんが石ちゃんのカリラを手にしていた。
片手には電子たばこ。もう片方の手には大きめのグラスがある。
「ゆかりちゃん、それ石ちゃんのだよ?」
「はい♡」
「はい、じゃなくてさ」
「いつも飲んでいいって言ってくれるんですよ~」
「まあ、そうだけど……」
ゆかりちゃんはにこにこしながら氷を入れ、カリラを注ぎ始めた。
由三は何となくその手元を見ていたが、なかなか止まらない。
「ちょっと、ちょっと!」
「はぁい?」
「入れすぎじゃない?」
「そんなことないですよ~」
グラスの中には、かなり濃い色の液体が出来上がっていた。
「いや、それもう麦茶の色だろ!」
「麦茶じゃないですよ~。カリラです♡」
「知ってるよ!」
てっちゃんが笑い始め、ママもつられて笑った。
ゆかりちゃんは何も気にせず、グラスを持ち上げた。
「いただきまーす♡」
「石ちゃん、帰ってきたらびっくりするぞ」
「大丈夫ですよ~。石ちゃん、優しいから♡」
確かに、石ちゃんはこういう時、あまり細かいことを言わない。むしろ「いいよ、いいよ。飲めよ」と笑ってしまう。
だから、ゆかりちゃんも遠慮がない。
「石ちゃんがいなくても、ボトルだけは働いてるな」
由三がそう言うと、カウンターの少し離れた席から笑い声が上がった。
「いいんだよ、男はそれくらい気前よくなきゃ!」
靖子だった。
黙っていれば女優のような雰囲気があるのだが、口を開くと遠慮がない。
「靖子、それ石ちゃんに言ってんの?」
「男全員に決まってんじゃん」
「俺まで?」
「当たり前だろ」
「嘘だろ!」
「何が嘘なんだよ」
靖子は笑いながら自分のグラスを持ち上げた。
「男は黙って、女にうまい酒飲ませてりゃ格好いいんだよ」
「それ、北さんのことじゃん」
「そうそう。北さんは分かってるよ」
靖子は北さんの隣にいる女性へちらりと目を向け、優しく笑った。
「だから、いつも綺麗な女性を連れてるんだよね」
北さんは赤ワインのグラスを持ちながら、穏やかに笑った。
「私は、ママが喜んでくれれば十分ですよ」
「ほら、北さん格好いい!」
「いや、北さんは最初からママに飲ませるためにボトル入れてるから」
北さんが由三を見た。
その目が、今度ははっきりと語っていた。
余計なことを言うな。
「ゆうちゃん、余計なこと言わない!」
ママまで笑いながら口を挟んだ。
あちらで笑い声が起きれば、こちらでも別の話が始まる。誰かが仕事の話をしていたかと思えば、隣では全く違う話題で盛り上がっている。
カウンターの端では、コバちゃんが隣の客に何かを熱心に説明していた。
大きな会社に勤め、今でも仕事ではしっかりしている人なのだが、酒が入ると話の行き先が怪しくなる。
「だからね、あの時はさ、そもそも向こうが違うって言ってたわけよ!」
「何が違ったんですか?」
「いや、だから、それを今説明してんじゃん!」
「そうでしたっけ?」
「そうだよ! 取締役がさ、いや、会長だったかな。あれ、最近名前変わりましたっけ?」
「会社の名前ですか?」
「違う違う、役職の名前。取締役……いや、執行役員? まあ、偉い人がさ!」
「はい……」
「だからね、櫻には一部上場の会長まで来るんだよ!」
「そうなんですか」
「そうなんだよ! それで、向こうが違うって言ってたわけ。何が違ったんだっけ?」
コバちゃんは自分で言ったことが分からなくなったのか、しばらく考えていたが、結局グラスを持ち上げて笑った。
「まあ、いいか!」
隣の客も困ったように笑っている。
由三はその様子を眺めながら、アードベッグの水割りを口にした。
櫻乃には、なぜか経営者や大手企業の偉い人が集まる。
化学会社の二代目社長である石ちゃん、元銀行支店長の北さん、大きな会社に勤めるコバちゃん。ほかにも、普段なら簡単には知り合えないような人間が、何食わぬ顔でカウンターに座っている。
けれど、店の中でそんな肩書きが前面に出ることはない。
社長も元支店長も、酒を飲めばただの常連客だ。
誰かが煙草の煙に文句を言い、誰かが人のボトルを飲み、誰かが同じ話を何度も繰り返す。
それでいいのだと思う。
しばらくすると、店内に懐かしい歌のイントロが流れ始めた。
てっちゃんがそちらへ顔を向け、ママは空いたグラスに氷を足す。ゆかりちゃんは相変わらず楽しそうにカリラを飲み、靖子は隣の客と別の話を始めていた。
北さんはワインを少しだけ口にしながら、時折、隣の女性へ何か話しかけている。
由三はグラスを傾けながら、そんな店内をぼんやりと眺めていた。
仕事の話をしていたはずが、いつの間にか酒の話になり、酒の話をしていたはずが、誰かの昔話に変わっている。途中から参加した人間には、そもそも何の話だったのか分からない。
それでも誰も困らない。
何か結論を出すために集まっているわけではないのだから。
「ママ、この店ってさ、みんな好き勝手だよね」
「今さら何言ってんの」
「いや、そうなんだけど」
「ゆうちゃんもでしょ」
「俺は普通じゃん」
「普通の人は、そんなに職質されないと思うけど」
「またその話かよ!」
ママが笑った。
由三も笑いながら、グラスに残った酒を飲んだ。
ふと時計を見ると、石ちゃんが店を出てから一時間近く経っていた。
「ママ、石ちゃんから帰るLINE来てない?」
ママはスマートフォンを確認した。
「まだ来てないね」
「ほら。一時間くらいって言ってたのに」
「可愛い子を探してくれてるんじゃない?」
「それなら、一時間じゃ戻らないな」
ママは笑いながら、空いたグラスを片づけ始めた。
由三は、家を出る時に妻と娘から聞かれた先祖の話を思い出しかけた。
江戸時代から蕨に住んでいたらしいのに、どうして土地を持っていないのか。
父親に聞いてみようと思っていたのだが、今はそれより石ちゃんがいつ帰ってくるのかの方が気になっていた。
「石ちゃん、まだかな」
「放っとけよ。帰ってきたらまた飲むんだから」
てっちゃんが横から口を挟んだ。
「まあ、そうだね」
「それより、ゆうちゃん。お前、明日仕事だろ?」
「そうだよ」
「朝から?」
「うん」
「またお客さんに酒臭いって怒られんぞ」
「てっちゃんに言われたくないよ!」
てっちゃんが腹を抱えて笑った。
由三も笑いながら、次の一杯を注文しようとママを呼びかけた。
その時、入口の扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
ママがいつもの声で迎えた。
由三も何気なく入口へ目を向けたが、そこに立っていたのは、見覚えのない老人だった。
八十歳は越えているだろうか。痩せた身体に少し古びた上着を着ているが、年齢の割には背筋が妙に伸びており、杖も持っていなかった。
櫻乃には、ときどき初めての客がやってくる。誰かの紹介だったり、昔この辺りに住んでいた人だったり、理由はいろいろだ。
由三も最初は、その程度にしか思わなかった。
老人は入口に立ったまま、ゆっくり店の中を見渡していた。
カウンターの奥にいる北さん、スマートフォンを手にしたてっちゃん、グラスを片づけているママ。
そして、由三。
そこで老人の視線が止まった。
由三は、手にしていたグラスを口元へ運びかけ、そのまま動きを止めた。
知らない顔だった。少なくとも、今まで櫻乃で会った覚えはない。
しかし、老人は由三から目を離そうとしなかった。
店の奥では、誰かの歌声に合わせて手拍子が始まっている。隣ではてっちゃんが笑い、ママも別の客と話していた。
いつもの櫻乃の夜だった。
ただ一人、入口に立つ老人だけが、まるで最初から由三を探していたかのように、まっすぐこちらを見つめていた。
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