第三話 土地のない家
「……何の話?」
由三は思わず聞き返した。
目の前では、澪がスマートフォンを膝の上に置き、当然の疑問だと言わんばかりの顔でこちらを見ている。
「だから、土地だよ。うちって江戸時代から蕨にいるんでしょ?」
「そうらしいけど」
「だったら、昔は土地とか持ってたんじゃないの?」
「いや、俺に聞かれてもなあ……」
由三は困ったように頭を撫でた。
確かに、言われてみれば気にならないこともない。
自分の家が昔から蕨にあったことは、父親から何度か聞いた覚えがある。祖父も、そのまた祖父も、この辺りで人の身体を診る仕事をしていたらしい。
しかし、実際にどこで暮らしていたのか、どんな家に住んでいたのかとなると、さっぱり分からなかった。
今の自宅は借家だし、整体院も賃貸である。
江戸時代からこの町に暮らしていたとしても、必ず土地を持っていたとは限らない。それでも、もし代々受け継いできた土地がどこかにあったのなら、今頃どうなっていただろうと考えてしまう。
何しろ、蕨駅から歩いて二分という場所である。
「昔から住んでたからって、土地持ってたとは限らないだろ」
「まあ、そうだけどさ。今だったら、すごい金額になってたかもしれないじゃん」
「そりゃそうだな」
「売っちゃったのかな?」
「知らん」
「誰かに騙されたとか?」
「だから、分かんないって」
澪は少し考えるように首を傾げた。
さっきまで見ていた駅前マンションの画面をもう一度開き、そこに表示された金額を眺めている。
由三も横から覗き込んだが、何度見ても景気のいい数字だった。
「……もったいねえな」
「何が?」
「いや、もし土地持ってたならさ」
「やっぱり気になるんじゃん」
「そりゃ、この金額見せられたら気になるだろ」
澪は得意そうに笑ったが、すぐに何か思いついたらしく、父親の方へ向き直った。
「ねえ、お酒じゃない?」
「は?」
「昔の人が土地売って、お酒飲んじゃったとか」
「……お前な」
「ありそうじゃん」
「なんでだよ」
「お父さん見てれば」
由三は言い返そうとして、思わず笑ってしまった。
「いやいや、俺が酒好きなのと、先祖が土地を売ったかどうかは関係ないだろ」
「でも、お父さんの先祖でしょ?」
「そうだけどさ。俺の先祖がみんな酒飲みだったとは限らないじゃん」
「違ったの?」
「知らないよ!」
澪が吹き出した。
「ほら、何にも知らないじゃん」
「お前だって知らないだろ」
「私は今、聞いてるんだよ」
「だったら親父に聞けよ」
「お父さんが聞いてよ。自分のお父さんでしょ」
それもそうか。
由三は笑いながら椅子の背もたれに身体を預けた。
父親の裕一なら、もう少し昔のことを知っているかもしれない。祖父がどんな人だったのかくらいは聞いたことがあるが、その前の代となると名前さえ怪しかった。
別に、家の歴史を隠されていたわけではない。
ただ、聞こうと思ったことがなかったのである。
「お爺ちゃんに聞いて、何か分かったら教えてよ」
「分かったよ」
「本当に?」
「本当だって」
澪はまだ少し疑っているようだったが、それ以上は追及してこなかった。
由三自身、父親と会ったら聞いてみようという気にはなっていた。もっとも、今まで気にもしていなかった話だけに、次に会った時に覚えているかどうかは別問題である。
そんなことを考えていると、入口の扉が開いた。
「お疲れさま~」
聞き慣れた声に振り返ると、さとが立っていた。
仕事帰りの服装のまま肩に鞄を掛け、受付に座っている澪を見つけると、軽く手を上げる。
「ごめんね、遅くなっちゃって」
「大丈夫。お父さんと話してた」
「そうなの?」
「おう、お疲れさん」
由三が声を掛けると、さとは少し疲れた顔で笑った。
長く看護師を続け、以前の病院では看護師長も務めていたさとは、今も別の病院で働いている。今日も帰り際にあれこれ仕事が重なったらしく、鞄を椅子へ置くと、凝り固まった肩をほぐすようにゆっくりと回した。
「肩、つらいの?」
「ちょっと重いだけ」
「やる?」
「今日はいいよ。早く帰って休みたい」
「そっか。じゃあ、また今度な」
由三はそれ以上勧めなかった。
さとは、施術を受けたい時には自分から言ってくる。長年一緒に暮らしているので、そのくらいのことは分かっていた。
「そういえば、お母さん」
澪がさとの方へ椅子を向けた。
「お父さんって、うちの昔のこと何にも知らないんだよ」
「何、急に?」
「さっき駅前のマンションの話してたんだけどさ。うちって江戸時代から蕨にいるんでしょ?」
「そうみたいね」
「なのに、昔どこに住んでたかも知らないんだって」
さとは由三を見た。
「お義父さんに聞いたことないの?」
「ないんだよなあ」
「そうなんだ」
「お前は聞いたことある?」
「私は嫁いできたんだから、そんな昔のこと知らないよ」
「まあ、そうだよな」
さとは少し考えてから、澪に向き直った。
「でも、お爺ちゃんだったら何か知ってるかもしれないね」
「でしょ? だからお父さんに聞いてって言ったの」
「分かったって。今度聞いてみるよ」
由三が答えると、さとは笑いながら頷いた。
「そうしてみたら? 昔の話、何か面白いことが分かるかもしれないし」
もっとも、由三自身はそこまで大げさなことになるとは思っていない。
土地を持っていたなら、いつ手放したのか。
持っていなかったなら、それはそれで構わない。
父親が何か知っていれば、酒の席の話題が一つ増えるくらいのものだろう。
そんなことより、今はそろそろ仕事終わりの時間である。
由三は立ち上がり、冷蔵庫へ向かった。
扉を開けて中を覗くと、いつも置いてあるはずの缶酎ハイが一本もない。
「あれ? なあ、缶酎ハイ知らない?」
「ないよ」
さとが当たり前のように答えた。
「なんで?」
「家に持って帰ったから」
「全部?」
「全部」
「一本くらい残しといてくれればいいのに」
「だって、ゆうぞうくん、今日飲みに行くんでしょ?」
由三は冷蔵庫の扉を閉めた。
「……何で分かんの?」
「顔」
「顔?」
「飲みに行く顔してる」
さとは笑っていた。
由三は少し納得のいかない顔をしたが、言われてみれば、さっきからスマートフォンを何度か確認している。
しかも、石ちゃんがもう飲んでいると知ってからは、仕事の片づけも何となく早くなっていた。
さとは小学校からの同級生である。
髪があった頃も、若い頃に散々やんちゃをしていた頃も知っている。結婚してからの年月まで数えれば、今さら隠せることなど、そう多くはなかった。
「石ちゃんが、もう櫻乃にいるんだってよ」
「ああ、やっぱり」
「何がやっぱりなんだよ」
「だって、楽しそうだもん」
さとは鞄を開けながら笑った。
「行っておいでよ。ただし、飲み過ぎないでね」
「了解」
「明日も仕事なんでしょ?」
「朝から予約入ってるよ。そこはちゃんと分かってる」
「だったら大丈夫ね」
さとはそれ以上何も言わず、澪に帰り支度をするよう声を掛けた。
こういう時のさとは、案外あっさりしている。
もちろん、毎回そうとは限らない。帰りが遅すぎれば怒るし、飲み過ぎた翌朝には小言を言われることもある。それでも、由三が飲みに行くこと自体を頭ごなしに止めるわけではなかった。
仕事をきちんとすること。
家族に迷惑を掛けないこと。
そのあたりを守っていれば、お互いの好きな時間まで細かく口を出すことはない。
長く一緒に暮らしているうちに、自然とそんな関係になっていた。
「そういえば、ゆうぞうくん」
さとがスマートフォンを鞄へしまいながら口を開いた。
「ん?」
「さっきの先祖の話、本当に一回聞いてみたら?」
「ああ、親父に?」
「うん。お義父さん、昔のことを何か知ってるかもしれないじゃん」
「そうだな。今度会った時にでも聞いてみるよ」
「ゆうぞうくん、ウイスキーのことはあんなに調べるのにね」
由三は思わず笑った。
「それとこれとは別でしょ」
「何が違うの?」
「いや、酒は大事だからね」
「自分の先祖は大事じゃないの?」
「そういう意味じゃないって」
さとは呆れたように笑った。
「ウイスキーなら百年前の蒸留所まで調べるじゃん。どこで造ってるとか、何年ものだとか」
「そりゃ調べるよ。蒸留所によって全然違うんだから。樽だって……」
「ほら、もう始まった」
由三が説明を続けようとすると、さとは澪と顔を見合わせて笑った。
「お父さん、酒の話になると長いんだよね」
「いや、これは大事な話なんだって」
「分かった、分かった。じゃあ、その調子でご先祖様も調べてみてよ」
澪に言われ、由三は苦笑いした。
「分かったよ。親父に聞くくらいならできるだろ」
「何か分かったら教えてね」
「はいはい」
澪は満足したように頷き、足元に置いていた鞄を持ち上げた。
由三も帰り支度を始める。
時計を見ると、そろそろ櫻乃も賑やかになっている頃だった。
「じゃあ、俺そろそろ行くわ」
上着を手に取ると、さとが顔を上げた。
「もう?」
「石ちゃんがいるからさ」
「石ちゃんは待ってないと思うよ」
「なんで?」
「もう飲んでるんでしょ? しかもママもいるんだから」
由三は少し考えた。
「……それはそう」
「でしょ」
澪が横で笑った。
「お父さんが行かなくても、もう楽しんでそうだよね」
「まあ、あいつならそうだろうな」
由三は笑いながら上着を羽織った。
石ちゃんは昔から行動が早い。
飲みに行くと決めたら、気がついた時にはもう店にいる。こちらが仕事をしている間に、何杯飲んだのか分からなくなっていることも珍しくなかった。
今日は何を飲んでいるだろう。
どうせ、いつものカリラあたりだろうか。
そんなことを考えながら、由三はポケットの中を確かめた。
財布とスマートフォン、それから電子たばこ。
忘れ物はなさそうだった。
「悪いけど、片づけ終わったら鍵閉めといてくれる?」
「いいよ。もうほとんど終わってるんでしょ?」
「うん。明日の予約も確認したし、あとは戸締まりだけ」
「分かった」
さとは受付に残っていた書類を揃え、澪も使っていた椅子を元の位置へ戻した。
由三が靴を履いていると、背後から声が掛かった。
「ゆうちゃん」
「ん?」
「飲み過ぎないでね」
「大丈夫」
「十二時までには帰ってきて」
「努力します」
「十二時」
「はい」
さとは笑っていたが、帰宅時間については譲るつもりがなさそうだった。
「あと、帰ってきてラーメン作らないでね」
「作らないよ」
「冷蔵庫も漁らないでね」
「分かったって」
澪が横から笑った。
「お父さん、前も夜中に何か食べてたじゃん」
「腹減るんだからしょうがないだろ」
「飲んだ帰りに食べるからでしょ」
「お前、母親に似てきたな」
「親子だもん」
「そうだけどさあ」
由三は苦笑いしながら靴を履き終えた。
扉の向こうでは、駅へ向かう人々の足音が続いている。通り沿いの店にも明かりが灯り始め、昼間とは違う賑わいが生まれていた。
「じゃあ、行ってくるわ」
由三がドアノブに手を掛けたところで、さとが思い出したように声を上げた。
「あ、そうだ」
「何?」
「きゅうり買ってあるから」
由三の手が止まった。
「……何?」
「きゅうり」
「なんで?」
「食べるから」
「誰が?」
「私と澪」
「なんだよ、俺の分じゃないのか」
「ゆうちゃん、食べないでしょ?」
「食べないよ!」
澪が吹き出した。
「じゃあ、いいじゃん」
「いや、そういう問題じゃなくてさ」
「何が?」
さとは何がおかしいのか分からないという顔をしている。
由三はドアノブを握ったまま振り返った。
「お前に何回も言ってるけど、きゅうりは俺の敵なんだよ!」
「知ってるよ」
「いいか、よく聞けよ。そもそも、あれは……」
「早く行きなよ」
さとは笑いながら手を振った。
「石ちゃん、待ってるんでしょ?」
「だから、あいつはもう飲んでるんだって!」
「じゃあ、なおさら早く行けば?」
「……そうだけどさ」
結局、由三はそれ以上何も言わずに扉を開けた。
背後から聞こえてきたのは、さとと澪の笑い声だった。
まったく、あの二人は。
そう思いながらも、由三の口元には笑みが浮かんでいる。
外へ出ると、九月の終わりとは思えないほど生ぬるい風が吹いていた。
駅前の高層ビルには次々と明かりが灯り、仕事を終えた人々が改札へ急ぐ一方で、これから飲みに出る者たちが古い路地の方へ歩いていく。
大通りを一本外れれば、昔から変わらない小さな店が並んでいた。
由三はその見慣れた道へ足を向けた。
さて、今日は何を飲もうか。
石ちゃんは、どうせもうカリラを飲んでいるだろう。
そんなことを考えているうちに、自然と足取りが軽くなっていた。
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