第二話 仕事終わり
「じゃあ、もう一度立ってみてください」
施術ベッドに腰掛けていた男は、由三に促されると、両足を床につけてゆっくりと立ち上がった。
五十代半ばくらいだろうか。仕事帰りらしいワイシャツ姿で、脱いだ上着はベッドの端に畳んである。
今日が初めての来院だった。
腰が痛くなったのは一週間ほど前で、それ以来、椅子から立ち上がる時や身体を前に倒した時に痛みが出るという。
最初に歩いてもらった時から、由三には気になるところがあった。右足を前に出す時だけ歩幅が狭くなり、腰をかばうように身体が左へ逃げている。本人は腰ばかり気にしていたが、股関節の動きにも左右で違いがあった。
「どうです? さっきと比べて」
男は腰に手を当て、ゆっくりと身体を前へ倒した。
最初は途中で痛みを警戒して動きを止めていたが、今度はもう少し先まで曲げられている。本人もそれに気づいたらしく、一度身体を起こすと、確かめるようにもう一度前屈しようとした。
「あれ、さっきより曲がりますね」
「そうですね。でも、何回も試さなくていいですよ」
「いや、さっきはここまで行かなかったんで」
「分かりますけど、急に無理するとまた痛めますから」
由三は笑いながら男の動きを止めた。
こういう人は珍しくない。痛みが軽くなると、今までできなかった動きを何度も確かめたくなる。気持ちは分かるのだが、そこで勢いよく身体を動かしてしまう人もいる。
「今度は少し歩いてみましょうか」
男が施術室を往復する。
来院した時より右足の歩幅は広がっていたものの、まだ少し腰をかばう癖が残っていた。本人は先ほどから楽になったと喜んでいるが、由三は足の運び方を見ながら、もう一度歩いてもらった。
「歩く方も楽ですね」
「うん、さっきよりいいですね。ただ、まだ右をかばってるんで、今日はあまり無理しないでください」
「腰が悪いのに、足の方を結構触ってましたよね」
「腰も触りましたよ」
「そうでしたっけ?」
「結構触りましたけどね。忘れないでくださいよ」
男が笑った。
「でも、どうして足なんですか?」
「腰が痛いからって、腰だけに原因があるとは限らないんですよ。腰をかばって足の使い方が変わることもありますし、反対に足の動きが悪くて腰に負担が掛かることもありますから」
由三は男の立ち方をもう一度確かめた。
「お仕事、ずっと座ってるって言ってましたよね?」
「ええ。ほとんど一日中ですね」
「だったら、途中で少し立って歩いてください。同じ姿勢が長いと、どうしても身体が固まりやすくなりますから」
「そうですね。気をつけます」
男は頷きながらベッドに置いていた上着を手に取り、何となく腰を捻ってみせた。
「これなら明日のゴルフも行けそうだな」
「えっ、明日ゴルフなんですか?」
「そうなんですよ。誘われてましてね」
「いやいや、ちょっと待ってくださいよ」
思わず由三の声が大きくなった。
男は笑っている。
「やっぱり駄目ですかね?」
「今の状態なら勧めないですね。せっかく少し動けるようになったんですから、もうちょっと様子を見ましょうよ」
「そうですよねえ」
男は残念そうだったが、もう一度腰を触ってから、仕方がないといった様子で頷いた。
「今回はやめておきます」
「そうしてください。ゴルフは逃げないですから」
「そうなんですけどねえ」
「その代わり、明日はゆっくりしてください」
由三がそう言うと、男は苦笑いを浮かべながら上着に袖を通した。
受付へ出ると、弟がパソコンの画面を確認していた。男が施術室から出てきたことに気づくと椅子から立ち上がり、次回の予約について説明を始める。
弟は柔道整復師で、由三と同じように長く施術の仕事を続けている。
性格はかなり違うが、施術については互いに意見を交わすことも多かった。兄弟だからといって考え方がいつも一致するわけではない。それぞれの経験から、同じ身体を見ても気になるところが違う場合もある。
「今日はありがとうございました。何か気になることがあったら、また連絡してください」
由三が声を掛けると、男は上着を整えながら振り返った。
「ありがとうございました。最初はちょっと緊張しましたけど、来てよかったです」
「緊張?」
「あ、いや……」
男の視線が由三の顔から耳元へ動いた。
弟が受付で下を向いた。
「ちょっと、今笑った?」
「笑ってないよ」
「絶対笑っただろ」
男まで笑い始めた。
「すみません。でも、身体も楽になりましたし、またお願いします」
「はい。お大事にしてください」
由三は男を送り出し、扉が閉まるのを見届けてから弟を振り返った。
「俺、そんなに怖いかな?」
「まあ、初めての人は驚くんじゃない?」
「普通だろ」
「兄さんがそう思ってるなら、それでいいんじゃない?」
「何だよ、その言い方」
弟は笑いながら受付へ戻っていった。
由三も施術室へ戻り、使い終わったタオルを外し始めた。
今日の予約はこれですべてだった。
九月も終わりに近いというのに、外はまだ蒸し暑い。窓の向こうでは駅へ向かう人の流れが増え始め、夕方の混雑に向かう車の列がゆっくりと動いていた。
新しいタオルを敷きながら、由三は最後のお客様の歩き方を思い返した。
痛みが軽くなったのはよかったが、右足を出す時の癖はまだ残っている。普段どんな姿勢で仕事をしているのか、もう少し詳しく聞いておけばよかったかもしれない。
施術が終わってから、別のことが気になる場合もある。
三十年以上続けていても、身体は一人ひとり違う。以前うまくいった方法が、次の人にも合うとは限らないし、同じ腰痛でも、痛みの出方や身体の使い方によって施術は変わってくる。
それが難しいところであり、面白いところでもあった。
「兄さん、さっきの人さ」
受付から弟が声を掛けてきた。
「ん?」
「来た時、立ち上がるのも結構つらそうだったよね」
「ああ、右をかばってたね」
「帰る時はだいぶ普通に歩いてたけど、まだ少し残ってた?」
「残ってた。最初よりはいいけど、右足を出す時にまだ逃げるんだよ」
由三が自分の身体を少し傾けて見せると、弟は頷いた。
「最初に受付で立ってもらった時さ、左足に体重掛けてたんだよね。立ち上がる時も、左側で押し上げる感じだったし」
「ああ、そうだった?」
「うん。腰だけじゃなくて、右足に体重掛けるのも嫌がってたように見えたよ」
由三は、男が施術室に入ってきた時の様子を思い返した。
歩き方は確認していたが、受付で椅子から立ち上がるところまでは見ていなかった。
「なるほどな。それなら次は、立ち上がる時の動きももう一回見てみるか」
「そうだね。座ってる時間が長いって言ってたし」
「そうなんだよ。しかも明日ゴルフ行くって言うからさ」
「明日?」
「そう」
「それはちょっと早いね」
「だろ? 元気なのはいいけど、無理されても困るからね」
弟は笑いながら、次回の予約画面を確認した。
こういう会話は珍しくない。
二人とも長く同じ仕事を続けているが、見ているところは少しずつ違う。相手の話を聞いて初めて気づくこともあり、患者の状態について意見が分かれることもあった。
それでも、どちらかが兄だから、弟だからという理由で意見を押し通すことはない。
由三は弟の話を聞きながら、次に来院した時に確認しておきたいことを頭の中で整理した。
「じゃあ、次はそこも確認してみるか」
「うん、それがいいと思う」
弟が予約画面を閉じると、由三は使い終わったタオルをまとめ、施術室の入口にある鏡へ何気なく目を向けた。
そこには、見慣れた自分の顔が映っている。
頭はきれいに剃り上げてあり、顎には髭。耳にはいくつもピアスが並んでいる。
別に怖い顔をしているつもりはない。
ただ普通に立っているだけなのに、初対面の人から警戒されることがあるのだから不思議なものだ。
由三は鏡に映った自分を眺めながら、頭を撫でた。
「なあ」
「今度は何?」
「俺さ、髪あったら印象変わると思わない?」
弟が顔を上げた。
「またその話?」
「またって何だよ」
「前も言ってたじゃん」
「いや、今の植毛ってすごいんだぞ。本物の髪とほとんど変わんないらしいし、増毛だって昔とは全然違うんだから」
「へえ」
「へえって、お前……もうちょっと興味持ってくれない?」
弟は兄の頭を眺め、それから顎の髭と耳のピアスへ目を移した。
「兄さん」
「ん?」
「髪生やしても、髭とピアスはそのままでしょ?」
「そりゃそうだよ」
「じゃあ、あんまり変わらないんじゃない?」
「嘘だろ!」
弟が笑い出した。
由三としては、もう少し真剣に考えてもらいたかった。
若い頃にはちゃんと髪があったのだ。
最初からなかったわけではない。
ここは本人にとって、かなり重要なことである。
少しずつ額が広くなり、やがて手入れをするのも面倒になったので全部剃ることにした。あの時は潔い判断だったと思っているが、だからといって髪が欲しくないわけではなかった。
「アデランスなんか、今すごいんだからな」
「分かった分かった」
「絶対分かってないだろ」
「分かってるよ。兄さんが髪欲しいのは」
「そういう話じゃねえんだよ」
弟はまだ笑っている。
由三が何か言い返そうとしていると、弟はさっさとパソコンを閉じ、帰り支度を始めてしまった。
「それより、明日の予約は確認した?」
「したよ。朝から入ってるだろ」
「うん。じゃあ、俺そろそろ帰るね」
「もう?」
「もうって、仕事終わったじゃん」
「まあ、そうだけど」
弟は鞄を持ち、受付の照明を一つ消した。
「兄さんは?」
「もうちょっといる」
「飲み?」
「まだ決めてない」
弟の手が止まった。
振り返った顔には、何とも言えない笑みが浮かんでいる。
「何だよ」
「別に」
「今日は帰るかもしれないじゃん」
「はいはい」
「何その言い方」
「兄さん、昨日もそんなこと言ってなかった?」
「昨日は昨日だろ」
「今日は?」
「今日は今日だよ」
「分かった分かった」
弟は笑いながら靴を履いた。
こういう時の弟は、何を言ってもまともに相手をしてくれない。
「気をつけて帰れよ」
「兄さんもね」
「俺、まだ帰らないけど」
「だから言ってるんだよ」
「どういう意味?」
弟は答えず、片手を上げて店を出ていった。
扉が閉まると、さっきまでの賑やかさが嘘のように静かになった。
由三は受付へ戻り、明日の予約をもう一度確認した。最後のお客様の記録も残してあるし、施術室の片づけも終わっている。あとは自分が帰るだけだった。
窓の外では、高層ビルの窓に夕日が反射し、その下を電車が走っている。
駅の周りには新しい建物が随分増えたが、一本裏へ入れば昔から知っている道も残っていた。子供の頃によく通った店がなくなってしまったこともあるし、久しぶりに通った場所が見違えるほど変わっていることもある。
それでも、由三にとって蕨は蕨だった。
生まれた時から暮らしている町で、仕事をして、知っている店に飲みに行く。そんな毎日を、もう何十年も続けている。
スマートフォンを手に取ると、行きつけの店から連絡が入っていた。
石ちゃんが、もう飲んでいるらしい。
「早えな、あいつ」
思わず笑った。
さっき弟には、まだ飲みに行くと決めていないと言った。
それは嘘ではない。
少なくとも、あの時はまだ決めていなかった。
しかし、石ちゃんがいるとなれば話は別である。
最近は煙たいウイスキーばかり飲んでいたし、今日は少し違うものでもいいかもしれない。
そんなことを考え始めたところで、入口の扉が開いた。
「お父さん」
聞き慣れた声だった。
振り返ると、娘の澪が立っていた。
看護大学二年生。小柄で、母親譲りの大きな目をしている。
大学帰りらしく肩から鞄を掛け、もう片方の手にはスマートフォンを持っていた。
「おう、どうした?」
「お母さん待ってる」
「ああ、そうだったな」
「忘れてたでしょ」
「忘れてないよ」
「今、ちょっと考えたじゃん」
「考えてないって」
澪は父親の返事を聞き流し、いつものように受付の椅子へ腰を下ろした。
子供の頃から何度も来ている場所なので、遠慮などない。鞄を足元へ置くと、さっそくスマートフォンを見始めた。
「お母さん、あとちょっとだって」
「了解」
「お父さん、仕事終わったの?」
「終わったよ」
「じゃあ、もう帰れるじゃん」
「まあな」
「どうせ飲みに行くんでしょ」
「まだ決めてないよ」
澪はスマートフォンから顔を上げないまま笑った。
「石ちゃん?」
「何で分かんの?」
「だって、いつもじゃん」
「いつもってほどじゃないだろ」
「お母さんにはそう言っとくね」
「いや、ちょっと待って」
澪はもう別の画面を開いている。
娘は昔から、父親の言い訳を最後まで聞いてくれない。
由三は近くの椅子へ腰を下ろし、冷蔵庫から取り出したペットボトルの茶を飲んだ。
外では車の音が続き、時折、駅の方から電車の走る音が聞こえてくる。澪はスマートフォンの画面を指で動かしていたが、何か気になるものでも見つけたのか、途中で手を止めた。
「ねえ、お父さん」
「ん?」
「駅前のマンション、もうすぐできるんだって」
「ああ、あの工事してるやつ?」
「そう。二十八階建てが二棟」
「ああ、あれね。だいぶ出来上がってきたもんな」
由三も何度か工事現場の前を通っていた。
以前からあるタワーマンションの近くに、新しく二棟の高層マンションが建設されている。長いこと工事をしていた印象があるが、最近では外観もほとんど出来上がり、駅前の景色がまた少し変わっていた。
「あそこ、昔はもっと古い建物が並んでたんだぞ」
「そうなの?」
「そうだよ。子供の頃なんか、今と全然違ったからね」
由三は窓の向こうへ目を向けた。
昔の駅前を思い返してみると、知っている店がいくつも浮かんでくる。今では影も形もなくなってしまった場所もあれば、名前を変えて残っている店もあった。
「最初はもっと早くできる予定だったんでしょ?」
「そうだったかな。コロナの頃に工事が遅れたとか、そんな話は聞いたけど」
「大学で友達と話してたんだけどさ、あそこのマンション、すごい高いんだって」
「二十八階なら、そりゃ高いだろ」
「値段の話!」
「ああ、そっちか」
澪は呆れたように笑い、スマートフォンを父親へ向けた。
「ほら、見て」
「どれどれ」
由三は身を乗り出して画面を覗いた。
広いリビングに大きな窓。高層階からは街を見渡せるらしく、なかなか立派な造りだった。
「すげえな。こんなところ住んでみたいね」
「でしょ?」
「でも高えんだろ?」
「そりゃそうだよ。駅のすぐ前だし」
由三は画面を眺めながら首を振った。
「まあ、この辺も昔とは全然違うからな。駅前なんか、もう別の町みたいだよ」
「お父さんが子供の頃って、そんなにマンションなかったんでしょ?」
「そりゃそうだよ。今みたいに高い建物ばっかりじゃなかったし、古い店も結構あったからね」
「へえ」
「昔から残ってるところもあるけどな。この辺なんか、まだ古い道が残ってるだろ」
由三が窓の外を指差すと、澪もそちらへ目を向けた。
駅前には大きな建物が並んでいるが、一本裏へ入れば、昔からの細い道が今でも残っている。新しいビルと古い建物が隣り合う、蕨では珍しくもない風景だった。
澪はしばらく外を眺めていたが、ふと思いついたように振り返った。
「そういえば、うちって江戸時代から蕨にいるんでしょ?」
「そうみたいだな」
「お爺ちゃんも、そのまたお爺ちゃんも?」
「たぶんな。何代前からかは知らないけど」
由三はペットボトルの蓋を閉めながら答えた。
父親から、昔の先祖もこの辺りで身体を診る仕事をしていたらしいと聞いたことはある。
ただ、それが何代前の話だったのか、どこに住んでいたのかまでは覚えていない。
澪は再びスマートフォンへ目を落とし、画面に表示されたマンションを眺めた。
「じゃあさ、昔からこの辺に住んでたってことだよね?」
「まあ、そうなるな」
「その頃って、土地とか安かったんじゃないの?」
「そりゃ今よりは安かったんじゃない?」
「でしょ?」
澪が顔を上げた。
何となく嫌な予感がした。
「何だよ」
「いや、ちょっと思ったんだけどさ」
娘はスマートフォンを膝の上へ置き、当たり前のことを聞くような顔で言った。
「じゃあ、なんでうち土地ないの?」
由三の手が止まった。
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