第五話 浦和を見る①
蕨を出てからしばらく、三人ともそれほど口を開かなかった。
清兵衛はさっきから道の両側ばかり見ている。畑があればその奥まで目をやり、家が途切れれば少し先まで眺めているが、景色を楽しんでいるわけではないことくらい勇吉にも分かる。
また土地かよ。
昨日の晩から土地、土地とうるさかったが、浦和へ着く前からこれでは先が思いやられる。
宗助は宗助で、向こうから来る旅人や荷車をいちいち目で追っていた。荷が多ければどこへ運ぶのか気になるらしく、馬が何頭か連なって来れば道を空けながら最後まで眺めている。
二人とも朝からよくそんなものばかり見ていられるなと思ったものの、自分も人のことは言えなかった。
前から腰を曲げた老人が歩いてくれば腰へ目がいき、片方の肩が下がった男がいれば背中を見る。右足を少し引きずる旅人とすれ違えば、痛いのは膝か、それとも腰から来ているのかと、頼まれてもいないのに歩き方を追ってしまう。
仕事でもないのに目に入るんだからしょうがない。
少し前を若い女が歩いていた時も、その向こうにいる男の左足が気になって見ていると、清兵衛が横から顔を覗き込んできた。
「さっきから何見てんだ」
「別に」
「女の尻ばっか見てるだろ」
「見てねえよ! あいつだよ、前の男。左膝悪いんじゃねえかな」
「なら聞いてこいよ」
「なんでだよ嫌だよ」
「お前の客になるかもしれないだろ。それとも手前の尻か?」
「違うって言ってんだろ。面倒くせえ、今日は仕事じゃねえし尻は見てない」
最後の方になるほど声が小さくなったせいか、少し前を歩いていた宗助の肩が揺れた。そのまま宗助まで男の歩き方を確かめるように眺めている。
「蕨の奴じゃねえだろ、あれ」
「結局そこかよ?」
そもそも何で朝から知らない男の膝を診なきゃならないんだ。勇吉はもう一度だけ男の足運びを確かめ、やっぱり左だなと思ったところで興味を切った。どうせ蕨の人間でもなさそうだし、自分の客になることもないだろう。
ただ、清兵衛にあんなことを言われたせいで、前を歩く女まで妙に目に入る。
……別に尻を見たわけじゃない。
たぶん。
そんな他愛もない話をしながら歩いているうちに、三人は浦和へ入った。
昨日から加兵衛たちがあれこれ言うものだから、どんな町なんだと少しは構えていたのだが、中山道の両側に家や店が並び、旅人と荷を積んだ馬が行き交う様子を見ているうちに、その構えもすぐに消えた。旅籠の前では客を迎える声まで聞こえてくる。
何だ、蕨とあんまり変わらねえじゃん。むしろ宿場だけ見れば、蕨の方がでかいんじゃないか。
「なぁ浦和って、蕨とあんまり変わらなくねえか?」
「勇吉、もう少し歩け」
清兵衛は相手にもせず、道の先へ目を向けたまま歩いていく。
何だよと思いながら仕方なくついていくと、やがて宿場を行き交う旅人とは少し違う人間が混じり始めた。
紙を抱えた男が脇を急いで通り過ぎ、その後を若い男が追いかけていく。少し先では荷車が道端に止まり、縄を解いた男たちが木箱や包みを次々と下ろしていた。
荷を積んで街道を通っていくのではなく、ここで下ろしている。
何運んでんだ?
何となく眺めていると、荷を運ぶ男たちの脇に一人だけ何も持っていない男がいた。四十を少し過ぎたくらいだろうか。着物はきちんとしているが役人には見えず、商家の主人か何かだろうと思っていると、木箱を指して何か言っただけで二人の男が向きを変えた。
今度は荷車の男が何か聞きに来て、それに答えているうちに、通りがかった商人らしい男まで足を止める。二言三言交わしただけでそちらは去っていったが、どうも荷物だけを見ていればいい人間でもないらしい。
「あれも役人か?」
勇吉に言われて、清兵衛はすぐには答えなかった。男の着物から荷車へ目を移し、何をしている人間なのか探るように眺めている。
「いや、違うだろ」
「じゃあ何だよ」
「知らん」
「お前、さっきから知らねえばっかじゃん」
「俺が浦和の人間全部知ってるわけないだろ」
それもそうか。
男は最後の荷を指示すると、役所があるという方へ歩いていった。勇吉にとっては、名前も知らない男より昨日から散々聞かされている役所の方がまだ気になる。どうせそれを見るために朝から歩かされてきたのだから、さっさと見て帰りたかった。
やがて三人は目当ての場所まで来たが、勇吉は教えられるまでそれが目的の建物だと気づかなかった。
「……これ?」
思わず足が止まり、目の前の建物から周りへ目を移してみる。昨日の晩、加兵衛たちがあれだけ真面目な顔で話していたせいで、もっと大きくて、誰が見ても役所だと分かるような立派なものを勝手に想像していた。
「これが役所か?」
「そうだ」
「県庁って、こんなもんなのか?」
清兵衛の眉がわずかに寄った。
「まだ県庁じゃない」
ああ、そうだった。
勇吉にとっては昨日から県庁だ役所だと聞かされ続けているせいで、もうほとんど同じものになっている。宗助は建物だけではなく、その脇を出入りしている人間まで眺めながら話を続けた。
「今は浦和の役所だ。これをそのまま使うかもしれないって話だろ」
「ふうん」
改めて見ても、やはり想像していたほど大した建物には見えない。
「加兵衛んとこでも出来そうじゃねえ?」
「ん? 何がだ」
「役所だよ」
「そんなに簡単に言うなよ」
「だってよ、加兵衛んとこの方が広くねえか?」
宗助はすぐに答えず、建物の前を通る人や荷へ目を向けた。
「建物だけじゃないだろ。人が増えれば荷も置く。住むところもいる」
その横で清兵衛は役所より周りの土地を見ている。昨日から変わらない。
「やはり土地がいるな」
「また土地かよ」
「当たり前だろ」
「それに建物もいる」
宗助まで加わったところで、勇吉も仕方なく辺りを見回した。
昨日の晩に聞いた時には、土地だの荷だの宿だのと好き勝手なことを言っているようにしか聞こえなかったが、実際に来てみると少し違った。役所そのものは思っていたほど大した建物ではないのに、その周りでは紙を抱えた人間が急ぎ、荷がここで下ろされ、宿場を通り過ぎる旅人とは違う人間が行き来している。
蕨と似ているのに、何かが違う。
「……何か違うんだよな」
「何がだ」
「やっぱり分かんねえ」
「なら言うなよ」
「分かんねえから見に来たんだろ」
清兵衛が一度だけ勇吉を見た。
お、今のは俺の勝ちだな。
「ならお前も少しは考えろ」
すぐに返され、勇吉はもう考えるのをやめた。
それより腹が減った。
朝は清兵衛に起こされ、飯もろくに食えないまま連れ出された。酒はようやく抜けてきたが、その代わりに空っぽの腹がさっきからうるさく、役所の周りを見ているはずなのに食い物屋ばかり目に入る。
「なあ、そろそろ飯にしねえ?」
「今その話するか?」
「お前らのせいで朝飯食ってねえんだよ」
「お前が寝坊したからだろ」
「寝坊じゃねえよ。起きたくなかっただけだ」
「それ、もっと悪いだろ」
前を歩いていた宗助が振り返った時には、口元がすっかり緩んでいた。こいつなら分かってくれると思ったのに、味方になるどころか通りの店を探している。
「あそこ入ろう。俺も腹減った」
ほらな。
飯となれば話は早かった。
店へ入った途端、焼けた脂と甘辛い匂いが鼻へ入ってきた。何の店か確かめるまでもなく、空っぽだった腹が急に騒ぎ始める。
「鰻か?」
浦和で鰻を食わせる店があることくらい、蕨育ちの勇吉も知っている。隣の宿場なのだから、それくらいの話は耳に入る。ただ、なぜ浦和で鰻なのかまで考えたことはなく、宗助の方がその辺りはよく知っていた。
「浦和の辺りは昔から鰻が獲れるらしいぞ。街道を通る旅人にも蒲焼を出すって話は聞いたことがある」
「へえ、浦和って鰻なんだ」
なるほど、そういう意味で浦和の鰻なのか。
役所よりこっちの方がいいじゃねえか。
朝から歩かされたことも忘れて機嫌よく腰を下ろし、しばらく待っていると、焼けた鰻が運ばれてきた。目の前から立ち上る匂いを嗅いだだけで、県庁も土地も一旦どうでもよくなる。
箸をつけようとした、その時だった。
「浦和は初めてかい」




