↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
11/63

第六話 浦和を見る②

 何だよ、今かよ。


 声のした方には、一人で酒を飲んでいる男がいた。どこかで見た顔だと思ったものの、目の前の鰻が気になって、すぐには思い出せない。


「さっきの……」


 清兵衛の声で、勇吉も男の着物に見覚えがあることに気づいた。


 ああ、あいつか。


 役所の近くで、荷を下ろしていた連中に指示を出していた男だ。


「役所の辺りにいただろ」


「気づいてたのか」


「気づいたというより、あれだけ三人で立ってりゃ目につくよ」


 こっちも見られていたらしい。


 それより鰻だ。勇吉は男のことをひとまず脇へ置き、目の前の蒲焼を一口食べてみた。


 ……うまい。


「浦和の人?」


「ああ。生まれも育ちも浦和だ」


「ここの鰻はうまいな」


 横から清兵衛の視線が刺さったが、勇吉には何が悪いのか分からない。男の方は気にした様子もなく、猪口を置いた。


「この辺りは水が多いからな。昔から鰻が獲れた。街道を通る客にも食わせてる」


「蕨じゃあんまり聞かねえな」


「だったら食っていけばいい」


「もう食ってるよ」


 男の口元が緩んだ。


 よく笑う奴だなと思うものの、少なくとも話しづらい相手ではなさそうだ。勇吉はそれ以上気にせず鰻へ戻ったが、しばらくすると向こうからまた声が飛んできた。


「それで、あんたたち。あれを見に来たのか」


 あれ?


 勇吉が顔を上げるより早く、隣で清兵衛の箸が止まった。


「何でそう思う」


「さっきから役所ばかり見てただろ」


「別に怪しいことしてたわけじゃねえよ」


「そんなこと言ってない。それとも怪しいことでもしに来たのかい」


 男は面白そうに笑い、猪口へ酒を注いだ。


「役所があると、いろんな人間が来るんだよ。役人だけじゃない。用事のある奴も来るし、荷を運ぶ奴も来る」


 清兵衛は黙って聞いている。


「役人が増えりゃ、食う飯も増える。紙だって筆だって要るし、それを運ぶ奴もいる。役所ってのは、建物だけあれば済むもんじゃないんだよ」


 何だ、また昨日と似たような話か。


 そう思って鰻を食べていた勇吉だったが、男が膳の方へ目を向けたので、何となく顔を上げた。


「まあ、役人だって腹は減るからな」


「そりゃそうだ」


 それなら分かる。


 そこで初めて、勇吉の頭にさっき見たものが浮かんだ。紙を抱えて急いでいた男も、荷車から下ろされていた木箱も、目の前の鰻も、昨日の晩には全部ばらばらの話に聞こえていた。


 役所そのものじゃない。そこへ来る奴らも、みんな腹が減る。


「じゃあ、この鰻も役所のおかげで売れるのか?」


 男の手が猪口のところで止まった。


「いや。鰻の方がずっと先輩だ」


 隣で宗助が堪えきれずに噴き出し、清兵衛まで肩を揺らした。


「そりゃそうか」


 勇吉も納得して、また鰻を食べた。


 結局、男の名前は聞かなかった。向こうも三人の名前を聞いてこなかったので、そのまま話が続いていたのだが、蕨から来たと知った時だけ男の目がこちらへ向いた。


「蕨か」


「ああ」


「本陣のあるところだな」


「知ってんの?」


「中山道にいる人間なら知ってるさ」


「何だ、そんなもんか」


 それ以上蕨について聞くこともなく、男は先に勘定を済ませて店を出ていった。戸口では店の主人から声をかけられ、二言三言話しただけで主人が頭を下げている。


 荷車の連中だけじゃなく、ここの主人とも知り合いらしい。


「あいつ顔広そうだな」


 勇吉が言うと、宗助も戸口へ目を向けた。


「店の主人ともずいぶん親しそうだったな」


「商人か何かじゃないか」


 清兵衛は男が消えた戸口を見たまま答えた。


「ちゃんと聞けばよかったじゃん」


 そこで初めて清兵衛が勇吉へ顔を向けた。


「お前が言うな」


「何でだよ」


「昨日の男の名前も聞けなかった奴が」


「聞いたよ。言わなかったんだよ」


 一緒にすんなよ。


 不満の代わりに鰻を口へ入れると、やっぱりうまい。


 清兵衛はもう浦和の男には興味を失ったらしく、今度は勇吉の方を見ながら別の話を始めた。


「勇さん、土地は持ってるんだろ」


「少しはな」


「買い足しとけ」


「何で?」


「もし本当に役所が来れば、この辺りの土地は上がる」


「蕨の?」


「蕨に来ればな」


「そんなの来るか分かんねえじゃん」


「だから今のうちに買うんだよ」


 清兵衛にとってはそれで話が通じるらしいが、勇吉には、来るかどうかも分からないもののために先に金を使う方がよほど不思議だった。


「土地なんか買ったら酒の量減らされちまうだろ」


 清兵衛はしばらく勇吉の顔を見た。


「お前は一生、金持ちになれねえな」


「別になりたくねえよ。うまい酒が飲めるくらいの金があれば十分だ」


「後で後悔しても知らねえぞ」


「しねえって」


 ちょうどその時、店の外で馬が鳴いた。


 何となくそちらへ目をやると、一頭の馬から身なりのいい男が降りてきた。手綱を別の男へ渡し、そのまま役所の方へ歩き出す。


 勇吉は鰻を口へ運びかけたまま、その歩き方を追った。


 顔まではよく見えない。それでも二、三歩進んだところで自然と目が腰へ落ちた。昨日よりずっと真っ直ぐ歩いているが、左へ体重が乗る瞬間だけ、ほんの少し腰が逃げる。


 昨日、何度も触って動かした身体だ。顔より先にそっちで分かった。


「あいつだ」


「何が?」


 清兵衛が外へ目を向けても、勇吉にはもう確信があった。


「あの腰だよ」


「腰じゃ分かんねえよ!」


「昨日の男だよ!」


 宗助も身体をずらして外を覗き込む。


「あの男か?」


「たぶん」


「たぶんって何だよ」


「顔がちゃんと見えねえんだよ」


「じゃあ何で分かる」


「歩き方と腰」


 二人とも妙なものを見るような顔をしているが、勇吉にはそっちの方が分からない。昨日あれだけ触った身体なら、歩いているところを見れば分かる。


 昨日、蕨で腰を揉んだ男が、今日は浦和の役所へ向かっている。東京から来たと言っていたし、県庁の話もしていた。


 昨日はどうでもよかったはずなのに、今度は勇吉の方が気になった。


「追うか?」


 清兵衛が腰を浮かせる。


「当たり前だろ、行こう」


 今度会ったら名前を聞く。ついでに何をしている奴なのかも聞いてやる。何で蕨を見ていたのか、何で県庁の話を知っていたのか。


 男の姿が人の向こうへ消えかけている。


「行くぞ」


「おう」


 勇吉も立ち上がって二歩ほど進んだところで、何か大事なものを置いてきた気がして振り返った。


 鰻がまだ残ってる。


「ちょっと待てよ」


「見失うぞ」


「分かってるけど、鰻が」


「後で食え」


「冷めるだろ」


「昨日も冷めた飯食ってただろ」


「何で知ってんだよ! 昨日はあいつのせいだよ」


 何で清兵衛がそれを知っているのか聞く暇もなく、宗助まで立ち上がった。三人で戸口へ向かおうとしたところで、店の主人と目が合った。


 主人は何も言わず、じっとこちらを見ている。


 勇吉が足を止めると、前にいた清兵衛と宗助も止まった。誰も何も言わないまま主人と三人の視線だけが行き来したところで、宗助が声を落とした。


「……金払った?」


「あ」


 誰も払ってない。


 さっきまで急いでいた三人が揃って黙ると、主人も何も言わない。それが余計に気まずく、勇吉はとりあえず清兵衛を見た。


「お前、商人だろ」


「何だよ」


「こういうの一番ちゃんとしろよ」


「お前も食っただろ」


「俺は男見てたんだよ」


「関係ねえだろ」


「早く払えよ、見失うだろ」


「お前も払え!」


 結局、きっちり三人分の勘定を済ませて外へ出た。


 嘘だろ!


 役所へ続く道には人も馬もいて、荷車まで通っているのに、さっきまで追っていたあの歩き方だけがどこにもない。


「どこ行った?」


「だから早く出ればよかったんだよ」


「お前らが金払わねえからだろ」


「お前もだよ!」


 少し先まで歩いて探してみたものの、あれなら人混みの中でも歩いてさえいれば見つけられるが、どこかの建物へ入られたり立ち止まられたりしたらどうしようもない。


 顔、ちゃんと見とけばよかったな。


 今さら思っても遅かった。


 しばらく探したところで諦め、三人は店へ戻った。勇吉が席へ着いて真っ先に確かめたのは、もちろん残してきた鰻だった。


「……冷めてんじゃん」


「お前のせいだろ」


「俺じゃねえよ。あいつのせいだよ」


「何でだよ」


「昨日から俺の飯ばっか冷ましやがって」


 向かいでは宗助がまだおかしそうにしている。


 何がおかしいんだよと思いながら冷めかけた鰻を口へ入れてみれば、それでも十分うまかった。


 結局、昨日の男の名前は今日も分からず、何者なのかも分からない。ただ昨日は蕨にいた男が、今日は浦和の役所へ向かって歩いていた。


 昨日より少しだけ、あの男が気になっている。


 それが何となく癪だった。


「勇さん、次は名前くらい聞いとけよ」


「分かってるよ」


 清兵衛はまだ何か言いたそうだったが、勇吉が鰻へ箸を伸ばすのを見ると、もう何も言わなかった。


 宗助が笑いながら口を開いた。


「また腰が痛くなって来るかもしれないな」


「もう治したから来ねえよ」


「じゃあ、もう会えないかもしれないな」


 それは勇吉にも分からない。


 昨日は向こうから来た。今日はたまたま浦和で見かけた。次もそんな具合に会えるとは限らない。


「……治さなきゃよかったかな」


 清兵衛が何とも言えない顔でこちらを見た。


 何だよ、冗談だよ。


 たぶん。


 外では何事もなかったように、人と馬が中山道を行き交っている。


 浦和へ来たばかりの時には蕨と大して変わらないと思っていたし、今でも役所の建物そのものが大層なものには見えない。それでも、紙を抱えて急ぐ男や、ここで荷を下ろす連中を見て、さっきの浦和の男から「役人だって腹は減る」と聞いたあとでは、来た時とまったく同じには見えなかった。


 政治の話は相変わらずよく分からない。


 でも、人が来れば腹が減る。


 それなら分かる。


 勇吉は最後の鰻を口へ入れ、さっきより少し冷めた身をゆっくり噛んだ。


「……うまいな」


「さっきから何回言ってんだよ」


「だってうまいんだからしょうがねえだろ。鰻は俺の大好物だ」


 清兵衛に何を言われても、うまいものはうまい。


 窓の向こうには、さっきまで自分たちが珍しがって見ていた浦和の町がある。蕨と何が違うのか、その答えはまだよく分からなかった。


 ただ、それより先に一つ思う。


 蕨にも鰻屋があればいいのにな。できれば、うちの店の隣がいい。


 ……誰か作んねえかな。


***

【ちょっとだけ史実】

浦和といえば、現在でも「うなぎの街」として知られています。

浦和周辺にはかつて沼や川が多く、そこで獲れた鰻を中山道を行き交う旅人に出したことから、鰻の蒲焼が名物になったとされています。

作中で勇吉たちが浦和で鰻を食べていますが、これはそんな浦和の歴史から入れました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。