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閑話 蕨宿の女将

 夕方が近づくと、蕨宿の料理屋『桜屋』にも少しずつ人の気配が増えてくる。


 中山道を行き交う旅人が宿を探し始め、昼間の仕事を終えた商人たちは、どこで一杯やろうかと暖簾を覗く。そんな客を迎えるため、女将のお咲はいつものように店の奥から小鉢を運び、長い台の上へ並べていた。


 入口から続く土間には腰掛けがあり、客は台を挟んで女将と向かい合いながら酒を飲める。脇の小上がりには座卓が二つ、さらに奥には襖で仕切った座敷もあって、一人でふらりと立ち寄る者から、仲間を連れて飲みに来る者まで、それぞれ好きな場所に腰を落ち着けられる造りになっていた。


 もっとも、お咲にとって一番都合がいいのは、客が目の前の腰掛けに座ってくれることだった。いちいち席を離れなくても酒を注げるし、相手が退屈そうなら話もできる。奥座敷に客が入れば娘が料理を運んでくれるものの、できることなら自分はこの台の向こうにいたい。


 奥の台所から煮物の匂いが漂ってきたところで、お咲は青菜を盛っていた手を止めた。


「ねえ、あなた。今日の煮物、もうできた?」


 鍋の蓋が触れ合う音に続いて、もう少しだという返事が聞こえてきた。そろそろ暖簾を出す時間だというのに、夫は相変わらず味にうるさい。


「もうちょい出汁を足したら終わりだ」


「そんなにこだわらなくても、十分おいしいじゃない。まったく、面倒くさいねえ」


「この一手間が俺の作る料理だろ」


「分かってるわよ。だからお願いしてるんじゃない」


 隣で膳を揃えていた娘のお鈴が笑いをこらえているのに気づき、お咲は少し眉を上げた。


「何よ。あんたまで父ちゃんの味方?」


「だって、母ちゃんは食べる時が一番うるさいじゃない。昨日だって、煮物の味がいつもと違うって言ってたでしょ」


 言い返そうとして、お咲は口を閉じた。確かに昨日の煮物は少し甘かったし、そのことを夫に伝えた覚えもある。


「……本当に口が達者になったねえ」


 お鈴は母親によく似た整った顔立ちをしているが、物事をはっきり言うところは父親譲りだった。まだ若いのに店の仕事をよく覚え、言われなくても客の膳を揃え、料理が出来上がれば奥から運んでくる。


 お咲はそんな娘を横目に、残っていた青菜を小鉢へ盛りつけた。手のかかる煮物や焼き物は夫の源次郎に任せているが、酒の肴になるような和え物や漬物なら自分でも作る。味見をしながら少し塩を足し、出来上がった小鉢を並べ終えたところで、お鈴が表の暖簾を出しに行った。


「今日はお客さん、たくさん来るかな」


「どうだろうねえ。忙しくなるのは嫌だけど、暇なのも困るし」


「じゃあ、ほどほどに来てくれるといいね」


「そうね。それが一番いいわ」


 そんな都合のいい商売があるものかと思いながらも、お咲は娘の言葉に頷いた。


 やがて暖簾が揺れ、二人連れの男が顔を覗かせた。


「ごめんよ、二人いいかい?」


「はぁい、いらっしゃいませ」


 お咲はそれまでの気だるそうな様子を引っ込め、客を迎える笑顔を浮かべた。


 一人は昔から通っている商人だったが、連れの男には見覚えがない。旅の途中なのか、着物の裾には道中の土埃がついている。


 その男はお咲を見るなり、少し驚いたように目を見開いた。


「おや、ずいぶん綺麗な女将さんだ」


「まあ、お客さまったら。そんなことおっしゃっても、おまけはできませんよ?」


 お咲が柔らかく微笑むと、隣にいた商人がたまらず吹き出した。


「おいおい、お咲さん。俺たちにはそんな顔、一度も見せたことねえだろ」


「何言ってんだい。あんたには見せる必要がないでしょ」


 途端にいつもの調子へ戻ったお咲を見て、初めての男は呆気に取られたが、商人の方は慣れたもので、笑いながら腰掛けに座った。


「こういう女将なんだよ。あんたも何度か来りゃ分かる」


「余計なこと言わないの。さあ、お客さま、こちらへどうぞ。今日は何を召し上がります?」


 お咲は商人の方を見もしないで、初めての男に席を勧めた。


「俺にもそれくらい丁寧に聞いてくれよ」


「あんたはいつもの煮物と酒でいいんでしょ?」


「……よく分かってるじゃねえか」


「何年通ってると思ってんのよ」


 お咲が笑いながら徳利を用意すると、初めての男もつられて笑った。


 旅人は温かい飯と魚が食べたいと言い、焼き魚を勧められたものの、できれば煮たものがいいと頼んできた。


「煮魚ですと、少々お時間をいただきますけど、よろしいですか?」


「ああ、構わない。今日の仕事はもう終わったからな。ゆっくり食わせてもらうよ」


「まあ、そうでしたか。それなら、先に何かつまめるものをお出ししますね」


 お咲は小鉢を二つ取ると、奥の台所へ顔を向けた。


「あなた、煮魚一つお願いね」


「あいよ」


 奥からすぐに返事があり、お咲が客の前へ小鉢を並べていると、源次郎がもう一度声をかけてきた。


「少し時間がかかるぞ」


「ええ、お客さまにはお伝えしてあるわ」


 それだけで話は済み、台所からは包丁がまな板を叩く音が聞こえ始めた。


「こちら、よかったらお酒と一緒にどうぞ」


 旅人が礼を言うと、お咲はまた柔らかく微笑んだ。その横で商人が笑いをこらえているのが目に入り、お咲はそちらへ顔を向けた。


「……何よ」


「いや、別に」


「変な顔してないで、早く酒でも飲みなさいよ」


 そう言いながら商人の徳利を手に取ると、男はようやく声を出して笑った。


 初めての客には愛想よく、昔からの客には遠慮がない。お咲としては当たり前のことをしているつもりだったが、なぜか常連たちはその違いを面白がる。


 まあ、楽しそうに飲んでいるなら、それでいい。


◇


 日が暮れる頃には、店の中もすっかり賑やかになっていた。


 長い台の前では旅人と近所の商人が肩を並べ、小上がりでは仕事帰りの男たちが徳利を囲んでいる。奥座敷からも時折笑い声が聞こえ、お鈴は出来上がった料理を運んでは空いた膳を下げ、客に呼ばれれば茶を出しに走っていた。


 お咲も酒を用意したり小鉢を盛りつけたりと、それなりに忙しくしていたが、客の話に付き合う時間だけは惜しまなかった。


「女将、こっちにも酒をくれ」


「さっき出したばっかりじゃない。少しは味わって飲みなさいよ」


「味わってるから、もうなくなったんだよ」


「よく言うねえ。どうせ隣の奴と話してるうちに飲んじまったんでしょ」


 そう言いながらも徳利を取り替えてやると、客は嬉しそうに猪口を差し出した。


「女将も一杯どうだ?」


「まだ仕事中よ」


「一杯くらいいいだろ。今日は忙しそうだったし」


 お咲は差し出された猪口を眺めた。確かに忙しかったし、客に酒を勧められて断るのも悪い気がする。


 何より、酒は好きだった。


「……じゃあ、一杯だけね」


 自分の猪口を取り出したところで、お鈴が横から呆れたような目を向けてきた。


「母ちゃん、その一杯、いつまで続くの?」


「今飲み始めるところじゃない。変なこと言わないでよ」


「そうじゃなくて……もういいや」


 お鈴はそれ以上何も言わず、奥座敷へ料理を運んでいった。


 お咲はその背中を見送りながら、客と猪口を合わせた。口に含んだ酒は思ったより香りがよく、仕事の合間に飲むには少々もったいない気もしたが、だからといって残す理由もない。


 もう一口飲んでいると、先ほどの旅人が声をかけてきた。


「女将、この煮魚はうまいな。久しぶりにまともな飯を食った気がするよ」


「まあ、ありがとうございます。うちの人が作ったんですよ。料理のことになると、ちょっと口うるさいんですけどね」


 お咲は奥の台所へ聞こえないように声を落としたつもりだったが、すぐに源次郎の声が返ってきた。


「聞こえてるぞ」


「あら、耳のいいこと」


 常連の商人が笑い、旅人も箸を止めて奥を覗いた。


「旦那はずっと向こうで料理をしてるのかい?」


「ええ。あの人、料理を始めると夢中になっちゃうんですよ。私なんかが横から口を出すと、かえって邪魔になるくらいで」


「それだけ腕がいいってことだな」


「そう言っていただけると、きっと喜びますよ」


 お咲がそう答えると、奥から小さく咳払いが聞こえた。旅人はそれがおかしかったらしく、また笑っている。


 皿が空きかけているのを見て、お咲は飯のおかわりを勧めた。男は少し迷ってから、もう一杯もらおうかと言い、お鈴が茶碗を受け取って奥へ向かった。


「ところで、お客さまはどちらからいらしたんです?」


「江戸……いや、東京の方からだ」


「まあ、東京から。遠いところをお疲れさまでした」


「まだ江戸って言っちまうんだよな。東京なんて、どうにも慣れなくて」


「ふふっ。長年そう呼んでいたんですもの、急には変わりませんよね」


 お咲だって、江戸と言われた方が分かりやすいことはある。将軍様がいなくなったと思ったら藩までなくなり、役所の名前も次々と変わっていくのだから、世の中がどうなっているのか、話を聞いてもよく分からない。


 もっとも、名前が変わったからといって、旅人が飯を食わなくなるわけではない。目の前の男も東京から来たと言いながら、煮魚をうまそうに食べている。


「浦和の方じゃ、役所のことでいろいろ動いてるらしいな。この辺りも、そのうち人が増えるんじゃないか?」


「さあ、どうでしょう。でも、お役人さまがうちのご飯を食べに来てくださるなら、大歓迎ですよ」


「なるほど、そいつは違いない」


 旅人が笑うと、お咲も笑いながら徳利を取り替えた。


 最近は見慣れない客が少し増えた気もするが、宿場なのだから珍しいことでもない。ただ、もし本当に人が増えるなら、酒も料理も今まで以上に必要になるだろう。


 源次郎は喜ぶかもしれない。


 自分はどうだろう。


 忙しくなるのは困るが、客が増えれば酒を勧められる機会も増える。


 そう考えると、案外悪くない話のような気もした。


◇


 夜も少し更けた頃、表の暖簾をくぐって見慣れた三人が入ってきた。


「おう、まだやってるか?」


 先頭にいた勇吉の後ろには、清兵衛と宗助が続いている。朝から浦和へ出かけていたはずだが、三人とも思ったより元気そうで、勇吉に至っては店へ入るなり空いている腰掛けを探していた。


「何だい、あんたたち。今日は浦和まで行ってたんでしょ?」


「何で知ってんだよ」


「宗助さんから聞いてたよ。あんた、覚えてないの?」


 勇吉が首を傾げると、宗助が苦笑した。


「昨日、ここで飲んだ時に話しただろ。お前も一緒にいたじゃないか」


「そうだったか? いや、飲んでたのは覚えてるんだけどよ」


「肝心なところだけ忘れるんだからねえ」


 お咲が呆れていると、清兵衛が勇吉の肩を軽く叩いた。


「まあ、浦和まで歩いて帰ってきたんだから、少しは頭もすっきりしただろ」


「歩いてりゃ酒も抜けるよ」


「抜ける前に着いちまったけどな」


「余計なこと言うなよ、清さん」


 三人が腰を下ろす間に、お咲は徳利と小鉢を用意していた。


「おい、まだ何も頼んでねえぞ」


「あんたたちの頼むものなんて、決まってるじゃない。違ったら言ってちょうだい」


 勇吉は小鉢を覗き込み、何か言いかけたものの、そのまま箸を取った。昔からそうだ。口ではあれこれ言うくせに、食べ物を出してやれば大抵は機嫌よく食べ始める。


 お咲はその様子を見ながら、清兵衛の猪口に酒を注いだ。


「それで、浦和はどうだったの? 朝から三人で出かけるなんて、よっぽど面白いものがあったんでしょうね」


「役所を見てきたんだが、思ったより小さくてな」


 清兵衛が答えると、勇吉も箸を持ったまま話に加わった。


「そうなんだよ。加兵衛んとこの方が広いんじゃねえかって思ったくらいだ」


「へえ。そんなこと、役所の人に言ったの?」


「いや、清兵衛に」


「何だ、つまんないねえ」


「何を期待してんだよ」


 お咲は笑いながら、空きかけた勇吉の猪口に酒を足した。


 清兵衛はその後も、役所の周りには人が集まるだの、土地を持っていれば商売になるだのと話していたが、お咲にはあまり馴染みのない話だった。それでも宗助が宿の話を始めると、少しばかり興味が湧いた。


「役所の仕事が増えりゃ、遠くから来る人間も増えるだろう。そうなりゃ、泊まるところだって必要になるからな」


「そうだろうねえ。泊まるなら、ご飯だって食べるでしょうし」


「そういうことだ。蕨にも人が来るようになれば、ここの商売にも関係するかもしれないぞ」


 宗助の言葉に、お咲は少し考えた。


 客が増えるのはありがたいが、今でさえ忙しい時間にはお鈴が奥座敷と台所を何度も行き来している。これ以上増えたら、源次郎はますます料理にかかりきりになり、自分も酒を飲んでいる暇がなくなるかもしれない。


「……それは困るわねえ」


「商売が増えるのに困るのか?」


 清兵衛が不思議そうに尋ねると、お咲は徳利を置いて肩をすくめた。


「お客さんが増えるのは嬉しいわよ。でも、忙しくなりすぎたら、せっかく来てくれた人とゆっくり話せないじゃない」


「なるほどな。女将にとっちゃ、そっちの方が大事か」


「そうよ。儲かったって、私がお酒を飲む暇もなくなったらつまらないじゃない」


 勇吉が何か言いたそうに顔を上げたが、お咲は先回りしてその猪口に酒を注いだ。


「ほら、あんたの分はちゃんとあるんだから」


「……俺、まだ何も言ってねえぞ」


「顔に書いてあったわよ」


 宗助が笑いながら煮物を口へ運び、うまいなと呟いた。お咲は自分が作ったわけでもないのに、つい得意になってしまう。


「でしょう? うちの人、料理だけは本当に上手なのよ」


「料理だけって、旦那が聞いたら怒るぞ」


 清兵衛が奥を見やると、お咲は声を潜めた。


「聞こえてないから大丈夫よ」


「聞こえてるぞ」


 台所から間髪入れずに声が飛び、勇吉が笑いながら小鉢を口へ運んだ。


「こっちもうまいじゃん」


「あら、分かってるじゃない。それは私が作ったのよ」


「じゃあ、もう一つくれ」


「褒めたら何でも出てくると思ってるでしょ?」


 そう言いながらも、お咲は小鉢を一つ取り、勇吉の前へ置いた。


「追加の分は、ちゃんとお勘定に入れるからね」


「……ちゃっかりしてんなあ」


「商売ですもの」


 勇吉は苦笑しながらも箸を伸ばし、しばらく黙って食べていたが、何かを思い出したように顔を上げた。


「そうだ、鰻!」


「何よ、急に」


「浦和で鰻食ってきたんだよ。あれはうまかったなあ」


「へえ、いいわねえ。あんたたち、そんなおいしいもの食べてきたの?」


「食べてきたよ。できれば蕨にも鰻屋が欲しいくらいだ。俺の店の隣なら、なおいいんだけどな」


 お咲は呆れたように勇吉を見た。


「ずいぶん勝手な話ね。そんなに欲しいなら、あんたが作ればいいじゃない」


「俺が? 冗談じゃねえよ。面倒くせえ」


「でしょうねえ。私だって、そんな手間のかかることは嫌だもの」


 そこで二人とも黙り、何となく顔を見合わせた。


 宗助が先に笑い出した。


「お前ら、そういうところは本当に似てるな」


「一緒にすんなよ!」


「一緒にしないでよ!」


 ほとんど同時に声が重なり、清兵衛まで笑い始めた。


 お咲は不満そうにしていたが、勇吉が酒を飲みながらまだ笑っているのを見ると、結局自分も笑ってしまった。


◇


 夜が更け、奥座敷の客が帰る頃には、店の賑わいも少しずつ落ち着いてきた。


 お鈴が空いた膳を下げ始めると、お咲はようやく長い台の向こうへ腰を落ち着けた。勇吉たちはまだ飲んでおり、清兵衛が何やら商売の話を続けているものの、お咲はもう半分ほどしか聞いていない。


 目の前には自分の猪口があった。


 最初は客に勧められて一杯だけのつもりだったが、忙しい時間が過ぎると、もう少しくらいいいだろうと思えてくる。勇吉たちも楽しそうに飲んでいるのだから、自分だけ我慢することもない。


 お咲は徳利を持ち上げ、勇吉の猪口に酒を注いでから、何のためらいもなく自分の猪口にも注いだ。


 それを見ていた勇吉が口を開きかけると、お咲は先に言った。


「何よ。あんたの分はちゃんとあるでしょ」


「いや、まだ何も言ってねえって」


「じゃあ、いいじゃない」


 清兵衛が苦笑したが、お咲は気にせず酒を口にした。


 先ほどから身体が少し温かく、いつもより客の顔が近く感じる。話し声も心地よく、勇吉が何かくだらないことを言うたびに、つい笑ってしまう。


 酒を注ごうとして徳利を傾けると、勇吉が慌てて猪口を差し出した。


「おいおい、こぼすなよ」


「大丈夫よ。ほら、ちゃんと入ったじゃない」


 実際、酒は一滴もこぼれていなかった。お咲は少し得意になって、勇吉の顔を覗き込んだ。


「はい、勇吉さん。どうぞ」


 勇吉は猪口を持ったまま、妙な顔をした。


「……何だよ、急に」


「何が?」


「いや、別にいいけどよ」


 そのやり取りを聞いていた清兵衛が、お咲の顔を見て笑い始めた。


「おい女将、もう酔ってるだろ。勇吉に『さん』が付いたぞ」


「いいじゃない。勇吉さんは勇吉さんでしょ?」


「普段はそんな呼び方しねえくせに」


 勇吉がぼやくと、お咲は少し首を傾げ、いつもより柔らかな声で答えた。


「まあ、失礼ねえ。せっかく優しくしてあげてるのに」


 宗助は笑いながら酒を飲み、清兵衛は面白がってお咲の様子を眺めている。勇吉だけが何となく居心地悪そうにしているのが、お咲にはおかしかった。


 奥の台所からは、源次郎が鍋を片づける音が聞こえていた。お咲が勇吉に酒を勧めていると、清兵衛がそちらへ声をかけた。


「源さん、女将がだいぶ出来上がってきたぞ」


「名前に『さん』が付いたくらいなら、まだ大丈夫だ」


「その次はどうなるんだ?」


「俺にまで優しくなったら終わりだな」


 それを聞いたお鈴が、片づけの手を止めて顔を上げた。


「父ちゃん、もう止めた方がいいよ。母ちゃん、さっきからずっと飲んでるんだから」


「まあ、もう少しだけな」


「もう少しって、父ちゃんは母ちゃんに甘すぎるんだよ」


 お咲は娘の言葉を聞きながら、また酒を口にした。


 そんなに飲んでいるつもりはないし、客の相手だってちゃんとしている。少なくとも、今は誰も酒を頼んでいないのだから、こうして一緒に飲んでいたところで困ることはないはずだった。


「ねえ、勇吉さん」


「今度は何だよ」


「浦和の鰻、本当にそんなにおいしかったの?」


「うまかったって、さっきから言ってんだろ」


「いいわねえ。私も食べてみたいわ」


「じゃあ、行ってくりゃいいじゃねえか」


「遠いじゃない。歩いたら疲れちゃうもの」


 お咲が少し拗ねたように言うと、勇吉は呆れた顔をした。


「食いたいけど歩きたくねえって、どうすりゃいいんだよ」


「それを考えてくれるのが、優しい人なんじゃない?」


「知らねえよ。俺は鰻屋じゃねえんだから」


「もう、冷たいんだから」


 お咲はそう言って猪口を持ち上げたが、中身はすでになくなっていた。


 徳利へ手を伸ばしたところで、お鈴がすっと横から取り上げる。


「母ちゃん、もうおしまい」


「何よ、まだ飲んでないじゃない」


「十分飲んだよ。明日も仕事でしょ?」


「分かってるわよ。そんなに怒らなくてもいいじゃない」


 お鈴は返事の代わりに徳利を少し離れた場所へ置いた。お咲は取り返そうかとも思ったが、立ち上がるのが億劫だったので諦めることにした。


 勇吉がそれを見て笑っている。


「女将、本当に酒弱いよな」


「好きなのと強いのは、別の話じゃない?」


「そりゃそうだけどよ」


「おいしいお酒を楽しむのに、強い必要なんてないでしょ?」


 お咲がそう言うと、勇吉は少し考えてから、妙に納得した顔で頷いた。


「……それはそうだな」


「でしょう?」


 何だ、分かってるじゃない。


 お咲は満足して、空になった猪口を台の上へ置いた。


 その頃、奥では源次郎が最後の鍋を片づけ終えたらしく、戸を閉める音がした。


「おい、そろそろ店じまいにするぞ」


 お咲はその声に振り返った。


「ねえ、あなた。そんなところにいないで、こっちに来てちょうだいな」


 自分ではいつもどおりに呼んだつもりだったが、清兵衛が急に笑い出し、勇吉まで猪口を持ったまま肩を震わせている。


「源さん、終わりだな!」


「そうだな。今日はそこまでだ」


 源次郎は台所の入口から顔を覗かせ、お咲の前に置かれた空の猪口を見た。呆れたような顔をしていたが、目元には笑みが浮かんでいる。


「もう片づけるから、お前もそろそろ休め」


「まだ勇吉さんたちがいるじゃない」


「その勇吉たちも、もう帰るところだろ」


 お咲が振り返ると、勇吉はちょうど最後の酒を飲み干したところだった。


「そういうことだ。女将もいい加減寝ろよ」


「何よ、みんなして。せっかく楽しく飲んでたのに」


 不満を言ってみたものの、お鈴が差し出した茶を飲むと、急に眠くなってきた。


 源次郎はその様子を見て小さく笑い、勇吉の前へ腰を下ろした。


「最後に一杯だけ付き合うか」


「お、源さんも飲むのか?」


「片づけも終わったしな。お前らが帰ったら、こっちも店じまいだ」


 お鈴が二人の前へ猪口を置くと、お咲は自分の分もあるのかと期待したが、娘は何も言わずに茶碗を指さした。


 どうやら、今夜は本当におしまいらしい。


 勇吉と源次郎が静かに猪口を合わせるのを眺めながら、お咲は少しだけ頬を膨らませた。


「あなたまで勇吉さんと飲むなんて、ずるいわねえ」


「お前はもう十分飲んだろ」


「そんなに飲んでないわよ」


 源次郎は言い返さず、ただ笑って酒を口にした。


 長年一緒にいるが、こういう時の夫は何を言っても聞いてくれない。普段はあれこれ世話を焼いてくれるくせに、酒のことになると娘と同じ側に回ってしまう。


 もっとも、夫がこうして楽しそうに飲んでいるのを見るのは嫌いではなかった。


 勇吉と何を話しているのか、お咲にはもう半分も聞き取れなかったが、二人の笑い声だけは心地よく耳に残った。


◇


 勇吉たちが帰る頃には、中山道の通りもだいぶ静かになっていた。


 お咲は娘に支えられるほど酔っているつもりはなかったが、立ち上がると少し足元が頼りなく、結局、長い台に手をついてからゆっくり歩き出した。


「ほら、母ちゃん。もう休んでなよ。あとは私がやるから」


「大丈夫よ、これくらい」


「さっきもそう言って、徳利を片づけるの忘れてたじゃない」


 お鈴が指さした先には、お咲が飲んでいた酒の徳利がまだ残っていた。


「あら、そうだった?」


「そうだったの」


 娘は呆れながらも笑い、徳利を持って奥へ引っ込んでいった。


 お咲は暖簾を下ろそうとして、ふと外を覗いた。


 通りにはまだ旅人の姿があり、少し離れた旅籠からは男たちの話し声が聞こえてくる。今日もいろんな客が来た。昔から顔を知っている商人もいれば、東京から来たという旅人もいた。


 そういえば最近、見慣れない顔が少し増えた気もする。


 役所がどうなるとか、浦和がどうだとか、清兵衛たちはずいぶん真面目に話していたが、お咲には難しいことはよく分からない。ただ、そうした話が本当なら、これから蕨へ来る人間も増えるのかもしれなかった。


 客が増えれば、源次郎は今よりたくさん料理を作ることになるだろうし、自分も小鉢を並べたり酒を用意したりと忙しくなる。


 それは少し困る。


 けれど、知らない土地から来た客がうまそうに飯を食べ、酒を飲みながら話していくのを見るのは、案外嫌いではなかった。


 今日の旅人も、帰り際にはまた来ると言っていた。


 次に来た時は、きっとお咲の顔を見て笑うだろう。あの馴染みの商人と一緒になって、また何か余計なことを言うかもしれない。


 それでも、来てくれるなら嬉しい。


 そんなことを考えていると、奥から源次郎の声がした。


「おい、明日の小鉢はどうするんだ?」


「そうねえ。今日の青菜が評判よかったから、またあれにしようかしら」


「分かった。魚は朝のうちに見てくる」


「お願いね。ああ、それと、お酒も少し多めに用意しておいた方がいいかもしれないわ」


「客の分だぞ」


「分かってるわよ」


 何だか余計なことを言われた気がしたが、お咲は聞かなかったことにした。


 暖簾を外して畳んでいるうちに、ふと勇吉の話を思い出した。


 浦和の鰻がうまかったとか、蕨にも鰻屋が欲しいとか、ずいぶん楽しそうに話していた。


 そういえば、帰り際に「今度鰻を作ってくれ」なんて言っていなかっただろうか。


 ……言っていたような気がする。


 お咲は少し考えてから、首を振った。


「鰻なんか、浦和で食ってきな」


 誰もいない店先でそう呟くと、奥からお鈴の声が飛んできた。


「母ちゃん! もう早く寝なよ!」


「はいはい、今行くよ!」


 まったく、どっちが親なんだか。


 お咲は苦笑いしながら暖簾を抱え、奥へ向かった。


 明日もきっと、誰かが腹を空かせてこの店へやって来る。源次郎が料理を作り、お鈴が膳を運び、自分はいつもの場所で酒を注ぐのだろう。


 蕨宿がこの先どう変わっていくのか、今はまだ誰にも分からない。


 それでも、ここで飲む酒と、客たちのくだらない話だけは、いつまでも変わらないでほしいものだ。


 そう思いながら、お咲は家族の待つ奥へと引っ込んでいった。

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