第七話 県庁を買う町①
浦和から蕨へ戻った頃には、陽がだいぶ傾いていた。
朝は酒の残った身体を引きずるように歩いていた勇吉も、帰りにはすっかり普段の調子を取り戻していたが、だからといって足取りまで軽くなったわけではない。行きは浦和まで歩くのが面倒だったし、帰りは帰った後のことを考えるのが面倒だった。
前を歩く清兵衛と宗助は、さっきから飽きもせず浦和の話をしている。
清兵衛が気にしているのは、相変わらず土地のことだった。役所の周りにどれほど空き地があったか、街道からどこまで家が続いていたかと、思い出したように宗助へ尋ねている。
やっぱり土地しか見てなかったんじゃねえか。
一方の宗助は、旅籠の数や人の流れだけでなく、荷車がどこから来てどこへ向かっていたかまでよく覚えていた。二人の話を聞いていると、同じ浦和を歩いてきたはずなのに、自分だけ違う町を見ていたような気がしてくる。
勇吉にとって浦和といえば、役所があって、人と荷が集まっていて、鰻がうまかった町である。もちろん、それだけを見てきたつもりはないが、何を聞かれても結局その辺りの話になりそうだった。
それより気になっているのは、昨日、腰を揉んでやった男のことだ。
浦和で見かけた時には正面から顔を確かめられなかったものの、右腰を庇う癖には覚えがあった。施術を終えた後、立ち上がって歩かせた時にも、あの男はほんのわずかに右足の運びを気にしていた。本人が意識しているかどうかも分からない程度の動きだったが、自分の手で触れた身体のことなら、勇吉はそう簡単には忘れない。
東京から来たと言って蕨を見て回り、翌日には浦和の役所へ向かっている。偶然と言われればそれまでだが、どうにも引っかかった。
もう一人、役所の近くで荷を下ろす連中に指示を出し、その後、鰻屋で隣り合わせになった男も気になる。役人には見えなかったが、荷車を扱う男たちだけでなく、通りがかった商人や鰻屋の主人とも顔馴染みのようだった。
「なあ、宗助。さっきの鰻屋の男、見覚えねえのか?」
勇吉が尋ねると、宗助は少し考えてから首を振った。
「知らねえなあ。浦和にも顔見知りはいるけど、さすがに全員知ってるわけじゃねえよ」
「旅籠やってるから、ああいうの詳しいのかと思ったんだけどな」
「知ってる顔なら気づいてるさ。それより勇吉、お前こそ随分話してただろ。名前くらい聞かなかったのか?」
「飯屋で隣になった男の名前なんか、いちいち聞かねえよ」
すると、少し先を歩いていた清兵衛が肩越しに振り返った。朝から土地ばかり気にしていたくせに、こういう話だけは聞き逃さないらしい。
「昨日の男も名前が分からん。今日の男も分からん。お前、何しに浦和まで行ったんだ」
「鰻食いに行ったんじゃねえぞ」
「そんなことは言ってねえよ。結果は似たようなもんだったがな」
「お前らだって食ったじゃねえか」
自分だけ鰻を食べて帰ってきたように言われるのは納得がいかなかったが、清兵衛はもう前を向いて宗助と話し始めている。勇吉もそれ以上は追いかけず、二人の後ろを歩きながら、見慣れた蕨宿の町並みへ目を向けた。
街道の幅も、並んでいる家も、旅籠の軒先も朝と何も変わっていない。それなのに、浦和から戻って見ると、どこか違って見えるのが不思議だった。
もし、この道を役所の書付を抱えた人間が行き交うようになったらどうなるのだろう。知らない旅人が増え、飯屋や旅籠が忙しくなり、荷車が今より頻繁に通るようになれば、蕨も浦和で見たような町になるのだろうか。
役所というものは、建物が一つあれば済む話ではない。
鰻屋で聞いた言葉を思い出しながら、勇吉は荷車や馬で賑わう街道を想像してみた。人が増えれば商売も増えるだろうし、飯屋が増えるなら悪い話ではない。もっとも、馬まで増えたら今より臭くなりそうだった。
そんなことを考えていると、桜屋の暖簾が目に入った。
夕飯時にはまだ少し早いが、店の奥からは出汁のいい匂いが漂ってくる。朝から歩き通しだったこともあり、勇吉は思わず足を緩めた。浦和で鰻を食べたとはいえ、あれから随分歩いている。ここで一杯やって、何かつまんでから帰るのも悪くない。
「なあ、桜屋で――」
「じゃあ、後で岡田家な」
清兵衛が振り返りもせずに言ったので、勇吉は言いかけた言葉を飲み込んだ。
「はぁ? 何でよ?」
「何でって、浦和で見てきたことを話すんだよ。加兵衛が待ってる」
「お前らで話してこいよ。俺はもう家に帰って酒飲みてえんだよ」
「酒なら向こうにもあるだろ」
家へ向きかけていた身体が、その一言で止まった。
「……出るの?」
「たぶんな。権蔵も来るって話だし、何も出さねえことはないだろ」
清兵衛の顔を見ても、冗談を言っている様子はない。
勇吉は少しだけ考え、何事もなかったように二人の方へ戻った。
「じゃあ行くよ。酒が出るんじゃしょうがねえ」
「何がしょうがないんだよ」
宗助は呆れたように笑ったが、勇吉は気にせず歩き出した。
酒が出るなら最初からそう言えよ。
◇
三人が岡田家へ着いた時には、加兵衛と権蔵がすでに待っていた。
通された部屋には人数分の座布団が並び、中央には徳利と猪口、それに簡単な肴まで用意されている。勇吉は部屋へ入るなりそれを見つけ、朝から浦和まで歩かされたことも、少しは許してやっていい気分になった。
向かいに座っていた権蔵と目が合うと、何か言いたげな顔で徳利を見られたが、勇吉は知らないふりをして腰を下ろした。
「それで、浦和はどうだった」
加兵衛に尋ねられ、清兵衛は早速、役所の周りで見てきたことを話し始めた。
「建物だけなら大したもんじゃない。ただ、あそこにはもう役所があって、それを使うために人も荷も動いてる。あれは大きいな」
宗助も頷き、役所に用のある人間だけでなく、荷を運ぶ者や商人まで行き交っていたことを話した。宿場を預かる身としては、役所そのものより、そこへ集まる人間がどこで飯を食い、どこへ泊まるのかが気になったらしい。
「旅人とはまた違う客が増えるだろうな。あれが毎日続くなら、飯屋も旅籠も忙しくなるぞ」
二人が真面目な顔で話しているので、勇吉も自分が分かったことを伝えておくことにした。
「鰻もうまかったぞ」
加兵衛の目が清兵衛から勇吉へ移った。
「……鰻?」
「浦和の鰻。あれはうまかったな」
加兵衛はしばらく勇吉を見ていたが、ほかに続きがないと分かると、何も言わず清兵衛へ目を戻した。
「こいつ、役所より鰻見てる時間の方が長かったからな」
「しょうがねえだろ。食ってる時にあいつが来たんだから」
「あいつ?」
猪口へ伸びかけていた加兵衛の手が止まった。今度は鰻の時とは違い、勇吉の方へ身体を向けて続きを待っている。
勇吉は、昨日腰を揉んだ男を浦和で見かけたことを話した。顔まではっきり確かめられなかったものの、歩き方と右腰を庇う癖には覚えがあったこと。男が馬を降りて役所の方へ歩いていったので追いかけようとしたが、鰻屋の勘定を済ませている間に見失ってしまったことも伝えた。
「飯食ってたのか」
権蔵が眉を寄せたのは、なぜかそこだった。
「だから鰻だよ」
「鰻はもういい。お前はそいつを追いかけたんだろ?」
「追いかけようとはしたんだよ。でも勘定払わねえで出るわけにもいかねえだろ」
「そりゃそうだが……」
権蔵は何とも言えない顔で猪口を傾けた。
加兵衛は二人のやり取りには加わらず、男が東京から来たと言っていたことや、昨日は蕨にいたのに今日は浦和の役所へ向かっていたことを確かめている。名前や仕事についても尋ねられたが、勇吉としても知っていることなら教えてやりたい。ところが、名前は次に会った時に教えると言われたきりで、東京のどこにいるのかも、何をしているのかも聞いていなかった。
加兵衛は少し困ったように眉を寄せた。
「じゃあ、お前はその男の何を知ってるんだ」
「腰」
一瞬、部屋が静かになった。
権蔵は勇吉の顔を見たまま口元を歪め、とうとう堪えきれなくなったように吹き出した。宗助まで俯いて笑っている。
「しょうがねえだろ。腰が痛くてうちに来たんだから。名前だって俺はちゃんと聞いたんだぞ。言わなかったのはあいつだからな」
まるで自分が悪いように言われるのは心外だった。
そもそも勇吉にとって、客の名前や身分は施術をするうえで大した問題ではない。どこが痛むのか、どう動かすと痛むのか、その方がよほど大事だったし、昨日の男についても、右腰を庇っていたことなら細かく覚えている。
もっとも、県庁の話まで知っていた男が、翌日には浦和の役所へ向かっていたとなれば、気にならないわけでもない。だからこそ、せっかくの鰻を置いてまで追いかけようとしたのだ。
俺にしては結構頑張った方だろ。
「その男、町を見て回ってるんじゃないか?」
笑いを収めた宗助がそう言うと、清兵衛もすぐには返さず、しばらく考えてから頷いた。
「蕨を見て、次の日に浦和か。何も関係ないとは言い切れんな」
偶然なら別に構わない。だが、もし違うのなら、あの男は蕨で何を見ていたのだろう。
勇吉が昨日のことを思い返していると、宗助がもう一人の男の話を持ち出した。
「そういや、鰻屋で会った男も妙だったな」
役所の近くで荷を下ろす連中に指示を出し、町の人間からも何度も声をかけられていた男である。清兵衛がその様子を説明すると、権蔵は猪口を卓へ戻し、少し身を乗り出した。
「商人か?」
「たぶんな。役人には見えなかったが、あの辺りじゃ随分顔が利くらしい」
「そいつの名前は?」
清兵衛の口が止まった。
ついさっきまで淀みなく話していたのに、権蔵から目を外して酒へ手を伸ばす。宗助も清兵衛をちらりと見たきり、なぜか勇吉と目を合わせようとしない。
その様子を見て、勇吉はようやく気がついた。
「おい、ちょっと待て。お前らも名前聞いてねえのか?」
「……話してるうちに別れちまったんだよ」
「ほら! 俺のこと散々言っといて、お前らだって同じじゃねえか!」
清兵衛は露骨に嫌そうな顔をした。
「お前と一緒にするな」
「一緒だろ。俺の方が腰を知ってるだけ、まだましだろ」
「何の勝負してるんだよ」
宗助が呆れていたが、何の勝負だったのか自分でもよく分からない。それでも、さっきまで散々責められていた分を取り返せた気がして、勇吉は上機嫌で酒を飲んだ。
勇吉が満足して酒を飲んでいる間も、加兵衛は男の歳や格好、誰と話していたのかを細かく尋ねていた。三人で覚えていることを出し合ってみたものの、結局名前すら分からないのだから、何者なのかまでは見当がつかない。
「浦和にも、町のことで動いてる人間がいるってことか」
権蔵が真面目な顔でそう言ったので、勇吉は鰻屋で酒を飲んでいた男の姿を思い出した。
「鰻食ってたぞ」
権蔵の目だけがゆっくり勇吉へ向いた。
「お前もだろ」
それはそうだ。
勇吉は余計なことを言うのをやめ、素直に酒を飲むことにした。
◇
話が浦和の役所へ戻ると、清兵衛は土地や建物について、宗助は旅籠や人の流れについて、改めて見てきたことを説明した。
加兵衛は二人の話を聞きながら紙に書き留めている。横から覗いてみると、土地や建物だけでなく、人馬や旅籠といった文字まで並んでおり、昨日の書付より随分と賑やかになっていた。
「浦和が選ばれるとしたら、何が一番大きいと思う?」
筆を置いた加兵衛に尋ねられ、清兵衛はほとんど間を置かずに答えた。
「もう使える役所があることだろうな。新しく建てる手間もいらねえし、すでに人が動いてる」
それくらいなら勇吉にも分かる。新しく何かを建てるより、今あるものを使った方が早いし、金もかからない。
「じゃあ浦和で決まりじゃねえか。今から蕨に役所を作ったって間に合わねえだろ」
「だから、建物一つ作れば済む話じゃないって言ってるんだよ」
「だったらどうすんだ?」
清兵衛はすぐには答えず、加兵衛の前に置かれた紙へ目を落とした。土地、建物、人馬、旅籠と書き並べられた文字を何度か読み返しているうちに、それまで勇吉をからかっていた顔から笑いが消え、やがて何かに気づいたように紙の端を指先で叩いた。
「浦和には、もう使えるものがある。だったら蕨も、先に使えるものを揃えておけば話が変わるんじゃないか」
「何を揃えるんだよ」
「まず土地だな。役所を置く場所がなけりゃ始まらん」
結局そこへ戻るのかと、勇吉は思わず清兵衛の顔を見た。浦和へ向かう道でも、帰る道でも、こいつは土地ばかり気にしていたが、どうやら無駄に眺めていたわけではなかったらしい。
「土地だけあっても駄目だろ」
宗助が口を挟んだ。
「浦和じゃ役所に用のある連中が、飯を食ったり泊まったりしてただろ。ああいう人間が蕨へ来るなら、今の旅籠でどこまで受けられるか考えなきゃならねえ。荷を置く場所もいるし、馬だって増えるぞ」
「それなら、今あるものを調べればいいんじゃないか」
加兵衛は筆を取り直し、宗助が話したことを書き足していく。
「本陣も使えるかもしれない。建物も含めて、一度見直した方がよさそうだな」
昨日までは酒を飲みながら、蕨でもいいんじゃないかと話していただけだった。
ところが今は、清兵衛が土地を調べようと言い、宗助が旅籠や人馬のことを考え始め、加兵衛まで書付を広げている。誰か一人が始めようと言った覚えもないのに、話だけが勝手に先へ進んでいくのが、勇吉には何とも不思議だった。
「ちょっと待ってくれ。そんなこと、本当に出来るのか?」
宗助が尋ねると、清兵衛は少し考え込んだ末、首を傾けた。
「分からん。だから調べる」
県庁を蕨へ持ってくるなんて大きな話をしているくせに、誰もやり方を知らないらしい。
勇吉は思わず笑ってしまった。
「お前ら、随分でかい話してるけど、結局どうすりゃいいのか分かってねえんじゃねえか」
「分かってたら、とっくにやってるさ」
清兵衛はそう言って酒を飲んだが、別に困った様子もない。むしろ、これから調べることが増えたのを楽しんでいるようにさえ見える。
すると、それまで話にはあまり加わらず、黙って酒を飲んでいた権蔵が口を開いた。
「土地なら、持ってる奴を何人か知ってるぞ」
加兵衛の筆が止まった。
「話せそうか?」
「話すだけならな。売るか貸すかなんてのは、聞いてみなきゃ分からんが」
「それでも十分だ。まずは誰に話せるか分からなきゃ始まらん」
加兵衛はそう言って権蔵から地主の名前を聞き始めた。
清兵衛は土地が必要だと言い、権蔵は地主を知っていると言う。だが、実際に土地を使わせてもらえるかどうかは、まだ誰にも分からない。
勇吉は二人の顔を見比べ、さっきまで自分ばかり知らないことを責められていたのを思い出した。
「何だよ。結局みんな分かんねえんじゃん」
「当たり前だろ。こんなこと、誰がやったことあるんだ」
権蔵は呆れたように言い返したが、その顔はどこか楽しそうでもあった。
勇吉はそれ以上何も言わず、猪口に残っていた酒を飲み干した。どうやら自分が何を言っても、こいつらは県庁を蕨へ持ってくる話をやめるつもりがないらしい。
それにしても、妙なことになったものだ。
昨日までは、浦和に役所があるなら蕨でもいいんじゃないかと、酒を飲みながら話していただけだった。それが一日経っただけで、土地を調べるだの、旅籠を見直すだの、地主に話を聞くだのと、まるで本当に県庁が来ることを前提にしたような話になっている。
加兵衛の前にある紙には、いつの間にか文字がびっしりと書き込まれていた。
清兵衛も宗助も、権蔵までが真面目な顔でその紙を覗き込んでいる。さっきまで鰻の話で笑っていた連中と同じ顔ぶれなのに、今は誰も冗談を言わない。
みんな、本当にやるつもりなんだな。
勇吉はしばらくその様子を眺めていたが、ふと、自分については誰も何も言っていないことに気づいた。
「で、俺は?」




