第八話 県庁を買う町②
清兵衛は何を聞かれたのか分からないような顔で勇吉を見た。
「だから、俺は何すんの?」
改めて尋ねてみたものの、清兵衛は答えずに加兵衛へ目を向けた。宗助まで考え込んでいるし、最後には加兵衛も筆を止めてしまった。
誰も何も言わないところを見ると、どうやら本当に自分の仕事はないらしい。
「……別にねえな」
ようやく清兵衛がそう言ったので、勇吉は膝を一つ叩いて立ち上がった。
「なるほどな。じゃあ俺、帰ってもいいな」
「待て」
背中へ飛んできた加兵衛の声に、勇吉は嫌々振り返った。
「何だよ。何もねえんだろ?」
「昨日の男がいる」
その一言で、勇吉の足が止まった。
加兵衛はもう書付には目を向けず、こちらを見ている。何かを思いついた時の顔だったが、勇吉にとってはあまり歓迎できるものではない。
嫌な感じだな。
勇吉は仕方なく、立ったばかりの場所へ腰を下ろした。
「浦和で見たんだろ、昨日の男を」
「だから、たぶんだって。顔を見たわけじゃねえんだから」
「それでも、蕨にいた男が浦和の役所へ向かったんだろう。町を見て回っているなら、県庁の話について何か知っているかもしれない」
加兵衛はそう言って、先ほどまで書き込んでいた紙を見直した。
「東京から来たと言っていたんだな?」
「ああ、そう言ってたよ」
「なら、東京へ戻る可能性もある。それに、あちらへ行けば県のことを知っている人間に話を聞けるかもしれん」
東京という言葉が出た途端、勇吉は猪口へ目を落とした。
浦和まで歩くのも面倒だったのに、今度は東京である。加兵衛はまだ何も頼んできていないが、どうも話の向かう先が気に入らない。
清兵衛も、さっきまで土地について考えていた時と同じ顔になっていた。
「浦和だけ見てても、誰に聞けばいいのか分からねえからな。東京で話を聞ける相手を探すのも悪くない」
「そうだな。浦和で会った男のことも、何か分かるかもしれないし」
宗助まで頷いている。
おいおい、ちょっと待てよ。
勇吉は三人と目を合わせないように酒を飲んだ。黙っていれば、そのうち誰か別の人間が行くことになるかもしれない。
ところが、そんな期待は清兵衛の一言であっさり消えた。
「東京へ行ってみるか」
勇吉は聞こえなかったふりをして、もう一口飲もうと猪口を持ち上げた。
その向こうで加兵衛と目が合った。
何も言われていないのに、なぜかもう自分の役目が決まっているような気がする。さっき座り直させられた時と同じ顔で見られては、知らんぷりを続けるのも難しかった。
「勇吉」
「おい、嘘だろ」
「まだ何も言ってないぞ」
「分かってんだよ。俺も東京へ行けって言うんだろ」
「そうだ」
加兵衛があまりにもあっさり答えたので、勇吉は思わず顔をしかめた。
「嫌だよ。遠いし、面倒くせえ」
清兵衛がとうとう笑い出した。
「浦和の時も同じこと言ってただろ」
「東京の方が遠いじゃねえか」
「当たり前だ」
「じゃあもっと嫌だよ」
清兵衛は笑いながらも、勇吉を置いていくつもりはないらしい。
「でも、あの男を見つけられるのはお前だろ。俺たちは顔も知らねえんだから」
「俺だって顔はよく覚えてねえぞ」
「じゃあ浦和でどうやって見つけたんだ?」
それを聞かれると困る。
勇吉は黙って猪口を置いたが、清兵衛も加兵衛も答えを待っている。宗助はすでに笑いを堪えているし、権蔵に至っては、何を言い出すのか分かっているような顔をしていた。
「……腰だよ」
案の定、権蔵が額へ手を当てて笑い出した。
「そうかそうか。じゃあ勇吉、東京までその腰を探してこい」
「嫌だよ! 何で俺が知らねえ男の腰を探しに東京まで行かなきゃならねえんだよ」
そもそも相手が東京のどこにいるのかも分からない。浦和で見かけたのだって偶然だったのに、今度はその偶然を当てにして遠くまで出かけろと言われているのだから、たまったものではなかった。
勇吉が文句を言い続けていると、清兵衛は笑いながら猪口を置いた。
「お前一人で行かせるわけじゃねえよ。俺も宗助も行くつもりだ」
「そういうことじゃねえんだよ。東京まで行くのに金もかかるし、俺には仕事だってあるんだぞ」
すると加兵衛が、そこは心配するなと言うように頷いた。
「道中の費用はこっちで持つ。俺たちで出し合えばいい。飯代も、泊まることになった時の宿代もだ。お前の仕事もあるだろうから、出る日は相談して決めればいい」
そこまで言われると、勇吉もすぐには言い返せなかった。
わざわざ自分の金を使って東京まで行きたいわけではないし、仕事の都合をつけられるなら、断る理由も少しは減る。とはいえ、行く気になったわけではない。
「……酒は?」
清兵衛が呆れたように勇吉を見た。
「お前、そこかよ」
「大事だろ。東京まで行くんだぞ」
すると、それまで笑いながら聞いていた権蔵が口を挟んだ。
「帰ってきたら桜屋で一杯飲ませてやるよ」
「一杯だけかよ」
「お前の一杯は、一杯で済まねえだろ」
「分かってんなら最初からそう言えよ」
勇吉がそう返すと、権蔵はますます面白そうに笑った。
どうやら道中の金は出してもらえるらしいし、帰ってきたら酒まで飲ませてもらえる。東京まで出かけるのは相変わらず面倒だが、自分の懐が痛まないなら、まだ我慢できなくもない。
それに桜屋なら、権蔵もそう簡単には一杯で帰らせないだろう。
「……まあ、考えとくよ」
「決まりだな」
「決まってねえよ!」
清兵衛はそんな勇吉の返事を聞き流し、もう宗助と東京で誰に話を聞けばいいか相談を始めている。加兵衛も書付に何かを書き加え、権蔵は笑いながら酒を飲んでいた。
結局、誰も勇吉が本当に行くのかどうかを確かめようとはしなかった。
もう行くことになってんじゃねえか。
勇吉は不満を酒で流し込もうと徳利を引き寄せたが、そこへ清兵衛がまた声をかけてきた。
「そうだ勇吉。お前、土地も少し買い足しとけ」
「また土地かよ」
さっきまで東京の話をしていたくせに、清兵衛の頭の中ではまだ土地のことが続いていたらしい。
「今ならまだ安い。もし本当に役所が来ることになったら、今の値じゃ買えなくなるかもしれんぞ」
「来なかったらどうすんだよ」
「そりゃ分からん」
「だったらいらねえよ」
清兵衛は呆れたように勇吉を見たが、すぐに言い返すことはしなかった。
「お前なあ、別に大きな土地を買えって言ってるんじゃねえんだ。少しくらい持ってても困らんだろ。後で欲しくなっても買えなくなるかもしれねえぞ」
勇吉には、どうにもその考えが分からなかった。
家がないわけでもなければ、仕事をする場所に困っているわけでもない。今すぐ使うあてのない土地を買い、いつか値が上がるかもしれないと楽しみに待つくらいなら、その金で好きな酒を飲んでいた方がよほどいい。
そもそも、土地なんか買ったところで飲めやしない。
「その金あったら酒買えるだろ」
清兵衛は何か言い返そうと口を開いたが、勇吉の顔をしばらく眺めた後、結局何も言わずに長い息を吐いた。
「……好きにしろ」
「最初からそう言ってんだろ」
ようやく話が終わったとばかりに勇吉が酒を飲むと、宗助が横で苦笑した。
「清兵衛も、こいつに土地を勧めるだけ無駄だって、そろそろ覚えた方がいいんじゃねえか」
「分かってるよ。ただ、後で文句言われても困るからな」
「俺がいつ文句言ったよ」
「そのうち言うんだよ、お前は」
清兵衛はそう言って自分の猪口へ酒を注いだが、もう土地の話を続けるつもりはないようだった。
勇吉としても、これ以上勧められたところで買う気にはならない。東京へ行く話だけでも面倒なのに、まだ来るかどうかも分からない県庁のために土地まで買わされてはかなわなかった。
それにしても、清兵衛は随分と楽しそうである。
浦和から戻ってきたばかりだというのに、土地を調べるだの、東京へ行くだのと、次から次へとやることを増やしている。加兵衛も宗助もそれに付き合っているし、権蔵まで地主に話を聞くと言い出した。
昨日までは酒を飲みながら話していただけだったはずなのに、どうしてこうなったのか。
勇吉は考えるのをやめ、残っていた酒を飲み干した。
◇
その夜、家へ戻った勇吉は、店で使っている帳面を開いた。
客のことや、その日に気になったことを書き留めているもので、普段なら誰の腰がどうだったとか、肩が上がらなかったとか、そういう話がほとんどである。
ところが、ここ二日は身体のことより、県庁だの浦和だのと妙な話ばかり増えていた。
まあ、自分の帳面なのだから何を書こうが構わない。
灯りの下で筆を持ち、今日一日を思い返してみた。
朝から浦和へ行き、役所を見て、人や荷が随分多いことも分かった。清兵衛は土地ばかり気にしていたし、宗助は旅籠や荷車を眺めていたが、勇吉にとっては鰻屋で食べた鰻も忘れがたい。
考えてみれば、今日一番印象に残っているのは鰻かもしれない。
勇吉はまず、
『浦和を見る。役所あり。人多し』
と書き、その下へ少し間を空けて、
『鰻うまし』
と付け足した。
うん、これでいい。
書いた文字を眺めていると、脂の乗った鰻の味がまた思い出されてきた。あれほどのものが蕨でも食えれば、わざわざ浦和まで行かずに済むのだが、今のところはそうもいかない。
そのうち蕨にも、うまい鰻屋が出来ねえかな。
そんなことを考えているうちに、肝心なことを書き忘れているのに気づいた。
鰻屋で会った名前も知らない男に、昨日腰を揉んでやった男。それから岡田家で始まった県庁の話もある。
もっとも、男たちの名前はどちらも分からないし、県庁が本当に蕨へ来るのかどうかも分からない。分からないことばかりでは帳面に書きようがないので、とりあえず今日聞いた話だけを残しておくことにした。
『蕨でも出来ぬことはないとの話』
続けて、清兵衛から土地を買えと言われたことも書いておく。
『清兵衛、土地を買えと言う。買わず』
これは大事だ。
後になって清兵衛がまた何か言い出した時には、ちゃんと断った証拠になる。もっとも、自分の帳面を清兵衛に見せるつもりなどないのだが、書いておけば少しは気が済む。
さて、ほかに何があったか。
勇吉は筆先を浮かせたまましばらく考え、最後にもう一行書き加えた。
『東京へ行くことになる』
そこまで書いたところで、筆が止まった。
まだ行くとは言っていない。
言っていないはずなのに、こうして帳面に書いてしまうくらいには、もう逃げられない気がしている。
黒々と書かれた「東京」の二文字を見ていると、昼間より面倒になってきた。
そもそも東京へ行って、どこを探せばいいのかも分からない。昨日の男が本当に東京へ戻るかどうかも怪しいし、仮に見つけたところで、県庁のことを教えてくれるとは限らない。
それでも加兵衛たちは、きっと行くのだろう。
そして自分も連れていかれる。
勇吉は小さく息を吐くと、先ほど書いた文字の横へ付け足した。
『面倒なり』
これでいい。
筆を置いて身体を伸ばしたところで、浦和で見た男の歩き方がまた頭に浮かんだ。
昨日揉んだ時には、右腰を庇って歩いていた。施術の後には随分楽になったようだったし、今日、浦和で見かけた時にも足の運びは昨日より滑らかになっていた。
あれなら、もう揉む必要はないだろう。
それなのに、今度は自分の方から男を探しに行くことになりそうなのだから、妙な話である。
しかも東京まで。
「……東京まで行って腰探すのかよ」
口に出してみると、ますます馬鹿らしくなってきた。
勇吉はしばらく帳面を眺めていたが、考えたところで東京が近くなるわけでもない。明日の仕事もあることだし、さっさと寝てしまおうと灯りを消して布団へ潜り込んだ。
目を閉じると、今日歩いた浦和の町並みや、鰻屋で会った男たちの姿が浮かんでくる。清兵衛の土地の話まで思い出しかけたところで、勇吉は寝返りを打った。
明日の朝になったら、みんな東京の話なんか忘れてねえかな。
そんな都合のいいことを考えながら、布団を肩まで引き上げる。
……まあ、無理だろうな。
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