第九話 東京へ①
結局、東京へ行くことになった。
もっとも、勇吉が自分から行くと言った覚えはない。岡田家で酒を飲んでいるうちに清兵衛と宗助が東京へ行く話をまとめ、腰を揉んでやった男を見分けられるという理由だけで、気づけば自分まで人数に入っていた。
仕事があるからと断ろうにも、加兵衛からは客の都合に合わせて日を決めればいいと言われ、道中の費用も自分たちで出すという。おまけに帰ってきたら権蔵が桜屋で酒を飲ませてくれるらしい。
そこまで言われてしまうと、いつまでも嫌だとは言いにくかった。別に行きたくなったわけではないが、仕事の都合もついたので、三日後に出かけることになった。
その朝、清兵衛が迎えに来た時には、珍しく勇吉は起きていた。
この前のように布団の中から「いねえよ」と返事をすることもなく、すでに膳の前に座って飯まで食っている。本人としては、これだけでも随分立派なつもりだった。
「おい、まだ食ってんのか」
ところが戸口から顔を出した清兵衛は、勇吉が起きていることなど気にも留めず、早くしろと言わんばかりに顎を動かした。
「見りゃ分かるだろ。もう少しで終わるよ」
「宗助も待ってるぞ」
「今日はちゃんと起きてただろ。この前みたいに寝てねえだけいいじゃねえか」
「当たり前だろ」
少しくらい褒めてもいいと思うのだが、清兵衛にはそんな気はないらしい。
勇吉が残っていた飯を口へ運んでいると、奥から妻が出てきた。
「清兵衛さん、今日、東京まで行くんでしょ?」
「ああ。ちょっと話を聞きにな」
清兵衛が当たり前のように答えると、妻は何やら思い出したように手を合わせた。
「そうだ。帰りに頼みたいものがあるんだけど」
「何だい?」
勇吉の箸が止まった。
「おい、何で清兵衛に頼むんだよ。俺も行くんだけど」
妻は清兵衛から勇吉へ顔を向けると、何でもないことのように答えた。
「あなたに頼むと忘れるから」
「忘れねえよ」
「じゃあ、この前、浦和から何か買ってきた?」
勇吉は箸を持ったまま浦和へ行った日のことを思い返したが、買ったものなど一つもなかった。覚えているのは鰻屋のことくらいである。
「……鰻食った」
「食べてきただけじゃない」
「うまかったぞ」
「私、食べてないけど」
さっきまで清兵衛の方を見ていた妻の目が、じっと勇吉へ向いた。
「……ごめん」
横で清兵衛が顔を背けた。肩が小さく揺れているのを見て、勇吉はすぐにそちらを睨んだ。
「お前、笑ってんだろ」
「笑ってねえよ」
「じゃあこっち向けよ」
「いいから早く食え」
絶対笑ってんじゃねえか。
妻はもう勇吉を相手にせず、清兵衛へ頼みたいものを伝え始めた。東京で見つからなければ無理に探さなくてもいいと言っているが、勇吉には何を頼んでいるのかさえよく聞こえない。
どうせ自分には頼まないのだから、聞いても仕方がない。
話を終えた妻は、勇吉の膳へ目を落とした。
「今日は温かいうちに食べられてよかったね」
「何だよ、急に」
「この前はお客さんが来て、ずっと話してたから冷めちゃったでしょ」
口へ運びかけていた飯が止まった。
勇吉は妻の顔を見たまま、ゆっくり清兵衛へ目を移した。さっきまで笑いを堪えていたくせに、今度は妙に膳の方を見ている。
「……お前か!」
「何がだよ」
「この前、浦和で言っただろ。『昨日も冷めた飯食ってただろ』って。何で知ってんのかと思ったんだよ!」
「ああ、それか」
清兵衛はようやく顔を上げたが、悪びれた様子もない。
「浦和へ行く朝、迎えに来た時に聞いたんだよ」
「やっぱりお前じゃねえか!」
妻は何の話か分からないらしく、二人を交互に見ていた。
「そんなに困ること言った?」
「困らねえけどさ。何で俺の知らねえところで、俺の飯の話してんだよ」
「清兵衛さんが迎えに来たから、まだ食べてるって言っただけでしょ」
「……まあ、そうだけど」
確かに何もおかしなことはない。それでも、清兵衛が自分の知らないところで妻と話していたと思うと、何となく面白くなかった。
そんな勇吉の気持ちなど気にも留めず、妻は空になった椀へ手を伸ばした。
「ほら、もう食べたんでしょ。清兵衛さんたち待たせないの」
「俺、信用なさすぎじゃねえ?」
「うん」
「即答すんなよ」
清兵衛がまた横を向いたので、勇吉はそれ以上何も言わずに立ち上がった。
「……行ってくるよ」
「はいはい。気をつけてね」
妻はいつもと変わらない調子で送り出してくれたが、最後まで何となく納得できないまま外へ出ると、少し先で宗助が待っていた。
「遅かったな」
「飯食ってたんだよ」
「今日は起きてたのか」
「お前まで何だよ」
朝から誰にも褒められない。
勇吉は小さく息を吐き、二人の後について中山道を南へ歩き始めた。
今日は酒も残っていないし、清兵衛が迎えに来る前に起きて飯まで食った。普段と比べれば随分調子がいいはずなのだが、清兵衛は隣を歩きながら、まだ何か気になるらしい。
「酒、残ってねえだろうな」
「残ってねえよ。昨日は早く寝たしな」
「一昨日は桜屋で随分飲んでただろ」
「あれはお前らが帰してくれねえからだろ」
「俺たちは先に帰ったじゃねえか。お前がまだ飲むって言って残ったんだろ」
そう言われると、確かにそんな気もする。
清兵衛たちが帰った後、お咲にもう一本頼んだところまでは覚えている。源次郎が台所を片づけ始めた頃にも、まだ猪口を持っていた気がするが、別に誰かに迷惑をかけたわけではない。
「……まあ、残したら酒に悪いからな」
「何の言い訳だよ、それは」
清兵衛は呆れたように前を向いた。
勇吉としては、酒が残っていないのだから何も問題はない。少なくとも今日はちゃんと起きて、飯まで食ってきたのだ。
少し先を歩く宗助は、二人のやり取りなど気にする様子もない。旅籠を営んでいるだけあって、街道を歩くことには慣れているのか、朝から足取りがほとんど変わらなかった。
その背中を眺めているうちに、勇吉は欠伸をした。
浦和ならまだ近いが、東京となると話が違う。中山道を通って人が行き来しているのだから、勇吉だって東京へ行ったことがないわけではない。それでも仕事でも用事でもなく、名前すら知らない男の腰を探すために歩くとなれば、やはり面倒だった。
「なあ、清兵衛」
「何だ」
「本当に東京まで行くのか?」
清兵衛は歩みを緩め、何を今さら言っているんだという顔で勇吉を見た。
「もう向かってるだろ」
「途中で気が変わるかもしれねえじゃねえか」
「俺は変わらんぞ」
「俺は変わってきた」
「じゃあ帰れ」
思ったよりあっさり言われたので、勇吉は思わず後ろを振り返った。
ここで引き返せば、昼前には蕨へ戻れるかもしれない。仕事をするにも酒を飲むにも、東京まで歩くよりはずっといい。
だが、一人だけ帰ったとなれば、夜には岡田家へ呼ばれるだろう。清兵衛たちが東京で何を見て、誰に会ったのかを最初から聞かされ、どうせ酒まで出てきて帰るのが遅くなる。
それに、桜屋で酒を飲ませてもらう約束はどうなるのか。
東京へ行かなかった奴にも飲ませてくれるほど、権蔵は甘くない気がする。
「……行くよ」
「だったら最初から黙って歩け」
清兵衛はそう言って足を速めたが、勇吉としては別に納得したわけではなかった。
ただ、帰ってから面倒なことになるくらいなら、このままついていった方がまだましだと思っただけである。
三人はそのまま南へ向かった。
戸田の渡しで荒川を越え、板橋宿へ入る頃には、街道を行き交う人の数も増えていた。
荷を背負った男が横を通れば、勇吉の目は顔より先に肩へ向かう。向こうから来る年寄りは左足を少し引きずっているし、その後ろを歩く男は荷を片側へ寄せすぎて身体が傾いていた。
別に見ようとしているわけではない。長く人の身体を触っているうちに、歩き方や姿勢の癖が自然と目に入るようになっただけだ。
「あれ、右肩痛めてんな」
勇吉が荷を背負って通り過ぎた男を目で追うと、清兵衛もちらりと振り返った。
「お前、東京まで来て人の身体ばっか見てるのか」
「見えちゃうんだからしょうがねえだろ」
「仕事じゃねえんだから、放っとけよ」
「別に何かしてやろうってわけじゃねえよ」
そう言いながらも、今度は向こうから来た年寄りの足へ目が落ちる。
「あの爺さんも膝が悪そうだな」
「勇吉」
「何だよ」
「全部言わなくていい」
「見えたもんはしょうがねえだろ」
「心の中で言え」
清兵衛が呆れたように前を向いたので、勇吉もそれ以上は言わなかった。
もっとも、黙ったからといって見えなくなるわけではない。
肩を傾けて歩く男もいれば、足を庇うように進む女もいる。馬から降りる時に腰へ手を当てる男や、重そうな荷を背負いながら平気な顔で歩く女まで、通りを眺めているだけで様々な身体の使い方が目に入ってきた。
腰を揉んでやった男も、こんな人混みのどこかを歩いているのだろうか。
あの歩き方なら、見かければ分かるかもしれない。だが、これだけ人が多いと、そもそも見つけること自体が難しそうだった。
板橋を過ぎ、さらに南へ進むにつれて、町並みも少しずつ変わっていった。
蕨や浦和とは違い、道を歩いていても、どこを見ればいいのか分からないほど人も店も物も多い。江戸と呼ばれていた頃からある建物が軒を連ね、その間には蕨ではあまり見かけない造りの家も混じっていた。
人の格好も様々だった。
髷を結った男のすぐ横を髪の短い男が歩き、着物姿の人混みの中には、時折見慣れない洋服を着た者もいる。荷車を避けたと思えば、今度は人力車が横を抜けていき、勇吉は慌てて道の端へ寄った。
東京へ来たことはあっても、改めて歩いてみると、蕨とは随分違う。
江戸が東京になったと聞いても、勇吉には何が変わったのかよく分からなかったが、目の前の町には古いものと新しいものが入り混じっていた。
何より、人が多い。
「なあ、清兵衛。人、多すぎねえか?」
「そりゃ東京だからな」
「こんなに必要か?」
「何がだよ」
「人」
「俺に聞くな」
清兵衛は呆れたように答えたが、勇吉としては本当に不思議だった。
蕨だって宿場なのだから人の往来は多い方だと思っていた。しかし、東京では道を歩いているだけで、次から次へと人が現れる。これだけ集まって、皆どこへ行くのだろう。
そんなことを考えながら歩いていると、人混みの間を二人の若い女が通り過ぎた。
着物の裾を気にしながらも足取りは軽く、向こうから来る男とぶつかりそうになると、身体をひょいとかわして先へ進んでいく。
勇吉は思わずその後ろ姿を目で追った。
歩くの速えな。
「お前、また女の尻見てるだろ」
横から清兵衛の声がした。
振り向くと、清兵衛は女たちではなく、こちらの顔を見ていた。
「見てねえよ。歩き方見てたんだよ」
「男の時は肩だの膝だの言ってたじゃねえか」
「同じだよ」
「へえ、そうかい」
清兵衛の顔を見る限り、まるで信じていないらしい。
少し前を歩いていた宗助も、二人の声に気づいて振り返った。
「何の話だ?」
「勇吉が女の尻見てるんだよ」
「だから歩き方だって!」
宗助は勇吉の顔を見たあと、二人の女が消えていった角へ目をやった。
「女房に言うぞ」
勇吉は反射的に宗助へ向き直った。
「なっ、何をだよ!」
「東京まで来て女の尻ばっか見てたって」
「ばっかじゃねえよ!」
言ってから、しまったと思った。
清兵衛と宗助が一瞬顔を見合わせ、ほとんど同時に笑い出した。
「違えよ! 今のはそういう意味じゃねえよ!」
「じゃあ少しは見てたんじゃねえか」
「歩き方だって言ってんだろ!」
何を言っても、二人には面白がられるだけだった。
勇吉はもう相手にするのをやめ、二人を置いて先へ歩いた。後ろからまだ笑い声が聞こえてきたが、振り返ればまた何か言われるに決まっている。
「うるせえな……」
小さく文句を言いながら歩いていると、いつの間にか清兵衛と宗助が追いついてきた。
東京へ入ってから、二人は通りの様子を何度も確かめていた。清兵衛は店先に積まれた荷や人の流れを眺め、宗助は旅籠の看板や道を行く旅人に目を向けている。
勇吉には、二人が何を探しているのかよく分からなかった。
県庁のことを知っている人間に話を聞くとは言っていたが、東京のどこへ行けばそんな人間に会えるのだろう。
そもそも、腰を揉んでやった男の名前さえ知らない。
しばらく二人の後を歩いていた勇吉だったが、清兵衛が通りの先を眺めて足を緩めたところで、ようやく口を開いた。
「で、どこ行くんだ?」
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