第十話 東京へ②
「そりゃ役所だろ」
清兵衛は前を見たまま答えた。
「だから、どこの役所だよ」
「役所が集まってる辺りだ。そこへ行けば県のことを知ってる奴もいるだろ」
「誰だよ、それ」
「それを探しに来たんじゃねえか」
勇吉は清兵衛の顔を見たあと、少し前を歩いていた宗助へ目を向けた。宗助は何も言わず、困ったように笑っている。
「……まさか、誰に聞くか決めてねえの?」
「だから、そう言ってるだろ」
「三日もあったのに?」
「何も調べてねえわけじゃねえよ」
清兵衛は懐から折り畳んだ紙を取り出した。出発前に加兵衛から渡されたもので、東京で話を聞けそうな役所や、県庁に関して分かっていることが書き留めてあるらしい。
勇吉が横から覗き込むと、清兵衛は紙を少し傾けた。
「ほら、ここだ」
「何が?」
「役所の名前だよ」
「いっぱい書いてあるじゃねえか」
「だから困ってるんだろ」
清兵衛は紙を元の形に折り畳み、懐へ戻した。
浦和では役所そのものを見に行けばよかった。ところが東京となると話が違う。役所はいくつもあり、県のことを扱う役所がどこなのか、そこへ行けば誰に会えるのかまでは分かっていなかった。
そもそも、知りたいのは新しくできた埼玉県のことだ。岩槻に県庁を置くという話もあれば、浦和ではすでに役所が動いている。加兵衛たちも事情を調べてはいたが、蕨にいて分かることには限りがあった。
「だったら浦和で聞けばよかったじゃねえか」
勇吉が何気なく言うと、清兵衛の足が止まった。
少し前へ出てしまった勇吉が振り返ると、清兵衛は紙をしまった懐へ手を当てたまま、ゆっくりこちらを見ている。
「……浦和で聞いて分からなかったから、わざわざ東京まで来たんだろ」
「俺は最初から来たくなかったんだけど」
「知ってるよ!」
思ったより大きな声が返ってきて、通りかかった男が三人をちらりと見た。
宗助が咳払いをする。
「まあまあ。ここで言い合ってても仕方ないだろ。役所のある方へ行って、人に聞いてみよう」
「俺は最初からそうするつもりだったんだよ」
清兵衛はそう言って歩き出したが、勇吉には、今のやり取りで何が解決したのかさっぱり分からなかった。
宗助が隣へ来て、小さな声で言った。
「清兵衛だって、分からないなりに調べてきたんだ。あんまり言ってやるなよ」
「別に責めてねえよ。どこ行くのか聞いただけだろ」
「お前の聞き方だよ」
そう言われても、勇吉にはよく分からない。
三人はしばらく通りを歩いたが、清兵衛は誰にでも声をかけるわけではなかった。荷を運ぶ男や店先で客を呼ぶ商人には目もくれず、紙を抱えて急ぐ者や、身なりの整った男が通るたびに様子をうかがっている。
「何してんだ?」
「役所のことを知ってそうな奴を探してるんだよ」
「そんなの見て分かるのか?」
「少なくとも、お前よりは分かるかもな」
「何だよ、それ」
勇吉が言い返そうとしたところで、宗助が少し先を指した。
「あの人に聞いてみないか」
そこには荷車の脇で縄を結び直している男がいた。荷車には木箱がいくつも積まれ、男は結び目を確かめながら、時折通りの向こうへ目を向けている。
「何であいつなんだよ?」
「さっきからあの辺の建物へ荷を運んでるだろ。中のことを少しは知ってるかもしれないだろ」
宗助は旅籠を営んでいるだけあって、旅人や荷を運ぶ者の動きをよく見ているらしい。
清兵衛も男の様子を確かめ、頷いた。
「とりあえず聞いてみるか」
三人が近づくと、宗助が先に声をかけた。
「仕事中に悪いな。ちょっと道を尋ねたいんだが」
男は縄から手を離し、三人を見た。
「どこへ行くんだい?」
「新しくできた埼玉県のことで、役所へ話を聞きに来たんだ」
清兵衛がそう説明すると、男は少し考え込んだ。
「埼玉県?」
「ああ。岩槻に県庁を置くって話があるだろ。それで、浦和の役所のことも聞きたくてな」
「俺は荷を運んでるだけだから、詳しいことは分からねえが……」
男はそう断ってから、通りの先を指した。
「あっちへ行けば役所がいくつかある。紙を持って出入りしてる連中も多いから、そっちで聞いた方が早いんじゃねえか」
清兵衛が礼を言うと、男は再び縄を結び始めた。
三人は教えられた方へ歩き出したが、勇吉には結局どこの役所へ行けばいいのか分からなかった。
「なあ、今ので分かったのか?」
「だいたいな」
「俺、全然分かんなかったぞ」
前を歩く宗助が振り返った。
「俺も全部は分からなかったけど、役所の多い方は分かっただろ」
「じゃあ、まだ探すのか?」
「そういうことだな」
清兵衛は歩きながら懐の紙を取り出し、男が教えてくれた方角と書かれた内容を見比べていた。
勇吉はその横顔を眺め、少しだけ感心した。
清兵衛は分からないことがあっても、こうして一つずつ確かめていく。商売をしている時も似たようなものなのだろう。勇吉なら、知らない相手に何度も話を聞くくらいなら、さっさと帰って酒でも飲んでいたい。
もっとも、今日は帰るわけにもいかないのだが。
東京は広かった。
蕨宿なら誰かに用があれば、歩いているうちに知っている人間へ会うし、少なくとも誰へ聞けばいいのかくらいは分かる。岡田家のことなら、宿場の者に尋ねれば大抵は話が通じた。
ところが東京では、人がこれだけいるのに知っている顔が一つもない。道を尋ねても、役所の名前や通りの名前が次々に出てくるばかりで、聞けば聞くほど行き先が増えていくようだった。
清兵衛は何度か立ち止まって紙を確かめ、宗助も通りの様子を見ながら歩いている。
勇吉だけは、二人についていく以外にすることがなかった。
「なあ、東京って変な町だな」
しばらく歩いたところで、勇吉は宗助へ顔を向けた。
「何が?」
「分かんねえ」
「分からないのかよ」
「でも変だろ。人はこんなにいるのに、誰に聞けばいいのかも分からねえんだから」
宗助は周囲を見回した。
「蕨とは違うからな」
「蕨だったら、知らねえ奴でも誰かの知り合いだったりするだろ。ここじゃ誰も知らねえ」
「そりゃそうだ。東京は広いからな」
「広すぎるんだよ」
勇吉がぼやくと、宗助は少し笑った。
清兵衛だけは二人とは別の方向を見ていた。通りに面した店や、その奥へ続く建物を眺めながら、何か考えている。
「この辺の土地、高えんだろうな」
「また土地かよ」
「商売人なんだから当たり前だろ」
「東京来てまで土地見てんの?」
清兵衛が勇吉へ横目を向けた。
「お前は女の尻見てただろ」
「見てねえよ!」
まだ言うのかよ。
宗助が横で笑い始めたので、勇吉はもう相手にしなかった。
昼を少し過ぎた頃、三人は紙を抱えた男や身なりの整った者が多く行き交う一角まで来ていた。
どの建物が何の役所なのか勇吉には分からない。それでも、先ほどまでの通りとは人の動きが違う。建物へ真っ直ぐ入っていく者、出てきた途端に足を速める者、馬を降りて紙を抱え直す者が次々と行き交っていた。
道端で立ち話をしている男たちも、商売の話をしているようには見えない。時折聞こえてくるのは、勇吉には馴染みのない役所の名前ばかりだった。
「この辺か」
清兵衛が足を止めた。
宗助も周囲を見回し、少し離れた建物の出入り口へ目を向けている。
「勇吉、あの男がいないか見てくれ」
清兵衛に言われ、勇吉は人の流れへ目を向けた。
「いねえな」
「早えよ。ちゃんと見ろ」
「見てるよ」
あの男と同じくらいの背丈の者が建物から出てくるたび、勇吉は顔より先に腰を見た。右腰の動き、歩幅、肩の揺れ、馬から降りる者ならどちらの足から地面へ着くのかまで目で追っていく。
先日揉んだ身体の癖は、まだはっきり覚えていた。
男は右腰を庇うように歩いていたが、施術の後には動きが随分よくなっていた。だから今も同じ歩き方をしているとは限らない。それでも、身体の使い方には簡単に変わらない癖がある。
見かければ、何か引っかかるはずだった。
しかし、最初に出てきた男は違った。続いて出てきた男も、その次の男も、勇吉が覚えている身体の動きとはどこか違っている。
「どうだ?」
「いねえよ」
「顔も見ろよ」
「見てるって」
清兵衛は自分でも通りを眺めていたが、勇吉ほど細かな身体の動きは分からないらしい。宗助も行き交う人の顔を確かめていたものの、そもそもあの男を間近で見たことがない。
結局、三人はしばらくその場で人の出入りを眺めていたが、いくら待っても目当ての男は現れなかった。
これだけ人がいるのだから、今日ここを通るとも限らない。そもそも東京のどこにいるのかも分からない男を、たまたま役所の近くで見つけようという方が無理なのかもしれなかった。
そんなことを考えているうちに、勇吉の腹が鳴った。
清兵衛が人の流れから勇吉へ目を移す。
「お前、またか」
「またって何だよ。もう昼だろ」
「朝飯食ったんだろ」
「食ったら昼飯いらねえのかよ」
「もう少し探してからにしろ」
「腹減ってたら腰なんか見つけられねえよ」
清兵衛の眉間に皺が寄った。
「どういう理屈だ」
「腹が減ってんだからしょうがねえだろ」
清兵衛は呆れたように息を吐いたが、宗助まで腹が減ったと言い出すと、それ以上は何も言わなかった。
「それなら、この辺で飯にしよう。ちょうどいい店があるかもしれない」
宗助は通りを見回し、少し先にある飯屋へ目を留めた。店先には何人かの客が出入りしており、紙を抱えた男も一人、中へ入っていくところだった。
「あそこにしないか。役所の近くなら、勤めてる連中も飯を食いに来るだろ」
「なるほどな」
清兵衛も頷いた。
勇吉には、飯を食うのにそこまで考える必要があるのか分からなかったが、店に入れるなら何でもよかった。
三人が暖簾をくぐると、店の中にはすでに何組かの客が座っていた。
仕事の途中らしい男たちが小声で話している席もあれば、黙々と飯を食べている者もいる。店の奥からは飯の炊ける匂いが漂い、勇吉の腹がまた鳴りそうになった。
清兵衛は客の顔ぶれを確かめ、宗助も近くの席から聞こえる話に耳を傾けている。どうやら二人とも、ここで何か話を聞けないかと考えているらしい。
勇吉としては、まず飯を食わせてほしかった。
やがて温かい飯が運ばれてくると、それだけで機嫌が戻った。
清兵衛は食べながらも時々戸口へ目を向けていた。役所の多い辺りまで来たせいか、客にも紙を抱えた男や、役所勤めに見える身なりの者が混じっている。勇吉には誰が何をしている人間なのかさっぱり分からなかった。
そんなことより、飯が温かいうちに食いたい。
勇吉が二口、三口と続けて食べた時だった。
二つほど席を挟んだところから、低い声が聞こえた。
「……岩槻では……」
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