第十一話 東京へ③
それまで飯を口へ運んでいた清兵衛の箸が止まった。
勇吉は気づかず食べ続けていたが、向かいに座る清兵衛が急に静かになったので顔を上げた。清兵衛は何も言わず、二つほど席を挟んだ向こうへ耳を傾けている。
そこでは身なりの整った男が二人、こちらへ背を向けるようにして話していた。
「……岩槻では、庁舎の用意が……」
男の声は低く、店の物音に紛れて後半が聞き取れなかった。
宗助も顔を上げ、男たちの方へ目を向けた。二人とも急に静かになったので、勇吉は何事かと思いながら飯を口へ運んだ。
何だよ。さっきまであんなに喋ってたくせに。
「……浦和なら、今ある建物を……」
浦和という言葉が耳へ入ったところで、勇吉もようやく箸を止めた。
男たちは周りへ聞かせるつもりで話しているわけではないらしく、声を落としたまま時折顔を寄せている。店の奥では客が飯を注文し、給仕が膳を運んでいた。その声や食器の触れ合う音に邪魔され、三人が聞き取れるのは話の一部分だけだった。
「……新しく建てるとなると、費用が……」
清兵衛は膳へ目を落としたまま、男たちの話に耳を澄ませていた。
勇吉も二人にならって聞こうとした。普段なら役所の話など飯の邪魔でしかないが、浦和で実際に役所を見てきたばかりとなると、さすがに気にならないわけではない。
あそこには役人らしい者が出入りし、周りでは荷が運ばれ、飯を食わせる店にも客が集まっていた。役所が一つあるだけで、あれだけ人の動きが変わるのかと驚いたのを覚えている。
それが今、東京の飯屋でも岩槻や浦和の話になっていた。
本当にあちこちで話してんだな。
勇吉がもう少し聞こうと身を乗り出した時、店先を若い女が通り過ぎた。
人混みの中でも歩き方にはそれぞれ癖がある。勇吉は仕事柄、知らない相手でもつい足の運びや腰の動きに目が向いてしまう。
その女も少し片方の足を庇うように歩いていたので、何となく目で追ってしまった。
「勇吉」
清兵衛の声は小さかった。
「何だよ」
「聞いてるか」
「聞いてるよ」
「今、何て言った?」
「岩槻」
「その後」
「浦和」
「その間だよ」
勇吉は少し考えた。
「……庁舎?」
「それはもっと前だ」
「金って言っただろ」
「費用な」
「同じようなもんだろ」
清兵衛の目が細くなった。
「お前、ちゃんと聞いてねえだろ」
「聞いてたって」
「じゃあ、何の費用だ?」
「そんなの俺に聞くなよ」
宗助が二人の間へ少し身を寄せた。
「お前ら、静かにしろ。向こうの話が聞こえなくなるだろ」
勇吉は口を閉じた。
何だよ。ちゃんと聞いてたって。
だいたい、聞き取れないものはしょうがないだろ。
清兵衛もそれ以上は何も言わず、三人は再び男たちの話へ耳を傾けた。
しかし、肝心なところになると声が小さくなり、どうにも話がつながらない。岩槻では庁舎をどうするかという話になっていて、浦和には今ある建物が使えるらしい。そこまでは勇吉にも分かったが、清兵衛が何度も頷いている理由までは分からなかった。
新しく建てるには金がかかるという話も聞こえたが、勇吉にはそれがどれほど大きな問題なのか見当もつかない。
清兵衛は何度か男たちの方へ顔を向け、話が途切れたところで声をかけようとした。しかし、その時には片方の男が立ち上がり、もう一人へ何か短く告げていた。
どうやら急ぎの用事でもあるらしい。
清兵衛が腰を浮かせかけたところで、男はさっさと店を出ていった。残された男も慌ただしく飯を済ませると、後を追うように席を立った。
宗助が清兵衛へ目を向けたが、清兵衛は小さく首を振った。
結局、二人とも誰なのか分からないまま店を出ていってしまった。
清兵衛は閉じた戸口をしばらく見つめていたが、やがて箸を膳へ置いた。
「聞いたか?」
「全部は聞こえなかったな」
宗助も戸口へ目を向けたまま答えた。
「でも、岩槻と浦和の話をしてたのは間違いない。庁舎を用意するだの、今ある建物を使うだの、そんなことを言ってたな」
「ああ。費用の話もしてた」
清兵衛は懐から加兵衛の紙を取り出し、折り目を広げた。勇吉には何が書かれているのかよく見えなかったが、清兵衛は先ほど聞いた言葉と紙の内容を確かめるように、何度か目を動かしている。
「浦和で聞いた話とも、つながりそうだな」
「そうだな。ただ、あの二人が何を知ってる人間なのかまでは分からない」
宗助がそう言うと、清兵衛も頷いた。
男たちは役所勤めのように見えたが、本当にそうなのかは確かめていない。たとえ役人だったとしても、話していたことがすべて決まった話とは限らなかった。
それでも、わざわざ東京まで来て、岩槻と浦和の名前を聞いたことには意味があるらしい。
清兵衛は紙を畳みながら、何やら考え込んでいた。
「加兵衛に話さねえとな」
その言葉を聞いて、勇吉はようやく飯へ目を戻した。
「じゃあ、もう帰る?」
清兵衛の眉がわずかに動いた。
「まだ男を見つけてねえだろ」
「……やっぱり?」
清兵衛は勇吉をしばらく見ていたが、どうやら本気で帰れると思っていたらしいと分かったのか、呆れたように息を吐いた。
「何しに東京まで来たんだ」
「またそれかよ。岩槻と浦和の話は聞けたんだから、もういいだろ」
「誰がいいって言ったんだよ」
「俺はもう十分だと思うけどな」
「お前の考えは聞いてねえよ」
宗助が笑いながら二人を見た。
「まあ、せっかくここまで来たんだ。もう少し探してみよう。今度は役所の近くで、あの男のことを聞いてみてもいいだろ」
「名前も知らねえのに?」
「背格好や顔つきくらいは分かるだろ」
「そんな男、東京に何人いると思ってんだよ」
宗助は返事に困ったように笑い、清兵衛は黙って加兵衛の紙を懐へ戻した。
どうやら二人とも、まだ帰るつもりはないらしい。
勇吉は諦めて残りの飯を口へ運んだ。
最初は、ただ腰を痛めた変わった客だった。
ところが、その男が口にした県庁の話を確かめに浦和へ行くと、実際に役所が動いていた。周りには人が集まり、荷が運ばれ、商売まで生まれている。
さらに東京まで来て、今度は見知らぬ男たちが岩槻や浦和のことを話していた。
何を決めようとしているのかまでは分からない。それでも、あの男が話していたことは、ただの思いつきではなかったらしい。
少なくとも、桜屋で酒を飲みながら聞くような、根も葉もない噂話とは違っていた。
政治のことは相変わらず分からない。県庁が岩槻にできようが浦和に置かれようが、勇吉には今のところ大した違いはなかった。
ただ、あの男のことだけは、最初に腰を揉んだ時とは少し違って見えてきていた。
腰の悪いところなら、触れば大体分かる。けれど、あの男が何者なのかまでは、いくら揉んだところで分かりゃしない。
勇吉は椀に残った飯をかき込みながら、もう一度あの男の顔を思い浮かべた。
あいつ、何者なんだ?
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