第十二話 腰の男①
店を出ても、勇吉の頭にはさっき聞いた話が残っていた。
岩槻、浦和、庁舎、費用。全部聞き取れたわけではないし、あの男たちがどこまで事情を知っているのかも分からない。それでも、蕨で聞いた県庁の話が、東京でも本当に話されていることだけは分かった。
となれば、やはり気になるのは、あの腰の男だった。
先日、蕨へ来たあの男は、どうしてそんなことを知っていたんだ?
「勇吉、行くぞ」
少し先まで歩いていた清兵衛の声で我に返った。
「どこに? あの腰の男がどこにいるか分かったのか?」
「分かるわけねえだろ。これから探すんだよ」
「じゃあ、もう少し町を見ながら探そうぜ。せっかく東京まで来たんだから、見物くらいしたいだろ」
「お前、何しに来たと思ってんだ」
「腰の男探しだろ。分かってるよ。飯も食ったし、東京見物しながらそいつが見つかりゃ最高じゃねえか」
「ついでにするな」
「だって鰻も食えなかったしな」
「お前、まだ鰻のこと言ってんのか」
横で聞いていた宗助が笑った。
「まあ、歩いて探すんだから見物も兼ねていいだろ。ただし、ちゃんと人も見てくれよ」
「ほら、宗助は話が分かる」
「お前が勝手に都合よく聞いてるだけだ」
清兵衛は呆れたように言うと、さっさと歩き出した。勇吉も笑いながらその後を追い、三人はもう一度、役所の集まる一帯へ向かった。
とはいえ、どこを探せばいいのかは相変わらず分からない。
蕨へ来た男は四十くらいで身なりがよく、馬に乗り、東京から来たらしい。勇吉が知っているのはその程度で、名前すら知らなかった。
ただ、県庁の事情を知っているのだから、役所と何かしら関わりがあるのではないか。清兵衛はそう考えたらしく、通りを歩く人間よりも、役所らしい建物へ出入りする者を中心に探し始めた。
宗助もその考えに賛成した。
「さっきの飯屋にいた二人も、役所の人間みたいだったしな。あの男も、こういう所へ出入りしてるかもしれねえ」
「そうだな。馬に乗って蕨まで来るくらいだから、こっちでも馬を使ってるかもしれねえし」
清兵衛は建物の出入り口を見ながら、近くに馬が繋がれている場所にも目を向けた。
宗助は、馬を引く者や荷を運ぶ者がいれば、話を聞けそうな相手を選んで声をかけている。旅籠をやっているせいか、相手が急いでいる時には無理に引き止めず、手が空いていそうな者を見つけるのがうまかった。
勇吉も二人の真似をして、役所らしい建物や、馬が待たされている場所を中心に見て回った。
もっとも、男がどこの役所に関わっているのか分からない以上、見当違いの場所を探している可能性もある。
それでも、何も考えずに東京中を歩き回るよりはましだった。
清兵衛が役所から出てきた男に声をかけた。
「ちょっと聞きてえんだが、四十くらいで身なりのいい男を知らねえか。馬に乗って蕨まで来たことがあるらしいんだ」
「四十くらいの、身なりのいい男?」
「そうだ。役所の事情にも詳しいようなんだが」
男は困ったように首を傾げた。
「それだけじゃ分からんな。この辺りには、そんな男がいくらでもいるぞ。どこの役所の者なんだ?」
「それが分からねえから探してるんだよ」
「名前は?」
「それも分からねえ」
男はますます困った顔になった。
そりゃそうだろうな、と勇吉は思った。
これだけ人の多い東京で、名前も勤め先も分からない男を探しているのだから、相手だって答えようがない。
清兵衛が礼を言って引き下がると、今度は勇吉へ顔を向けた。
「右腰が悪いって言えよ」
「それで分かるわけねえだろ」
「他に特徴ねえんだろ」
勇吉は少し考えた。
「左も悪い」
「増えたじゃねえか」
「右腰が痛いけど、悪いのは左なんだよ」
「知らねえよ」
「だから説明してんだろ」
まだ近くにいた男まで困った顔をしている。
そりゃそうだ。東京で人を探している奴に、右腰が痛いけど左も悪いと言われて分かる奴がいたら、俺が会ってみたい。
結局、その男からも手掛かりは得られなかった。
それでも三人は、役所の出入り口や馬が繋がれている場所を見ながら、しばらく歩き回った。
清兵衛は身なりのいい男を見つけると顔を確かめ、宗助は建物へ出入りする者の様子を見ている。勇吉も同じように人を探していたが、どうしても顔より先に身体の動きへ目が向いてしまった。
長年、人の身体を見てきたせいだろう。歩幅や肩の高さ、足を出す時の腰の動きなど、普段なら気にも留めないようなところが自然と目に入る。
あの男も、蕨で施術を終えた時には随分歩き方が変わっていた。
右腰を痛がっていたが、触れてみると左側の動きにも問題があり、そこを調整してからは身体を起こすのも楽になったようだった。
今頃はもっと良くなっているかもしれない。
そう考えると、腰を庇って歩いている男ばかり探していても見つからない気がした。
勇吉は役所から出てくる男たちの顔を確かめながら、足の運びや腰の動きにも目を向けた。
右腰を庇うように歩く男がいたので一瞬足を止めたが、近づいてみれば背格好からして違っていた。
あれも違う。こいつも違う。
清兵衛たちが顔や身なりを頼りに探している横で、勇吉だけは身体の動きまで見ていた。
ただ、東京は人が多すぎた。
役所の周りだけでも次から次へと人が出入りし、荷を担いで歩く者もいれば、急ぎ足で通りを横切る者もいる。馬を引く男の後ろから別の男が現れたかと思えば、今度は数人連れが建物へ入っていく。
一人ずつ確かめていたら、それこそ日が暮れてしまう。
宗助が目をつけた建物の一つには、さっきから身なりの整った男たちが何人も出入りしていた。近くには馬も繋がれており、清兵衛も何か手掛かりがあるかもしれないと考えたらしい。
三人はしばらくその辺りを探してみたが、目当ての男は見つからなかった。
勇吉は建物の前を通り過ぎる男たちを眺めながら、そろそろ蕨へ戻らなければ帰りも遅くなるだろうと考えていた。
というか、もう帰りてえな。帰って酒も飲みたい。
「今日は駄目だな」
宗助の声が聞こえた瞬間、勇吉は顔を上げた。
やっと言った。
清兵衛はまだ納得していないのか、役所の方から出てくる人をもう一度見回していたが、やがて諦めたように息を吐いた。
「仕方ねえ。さっき聞いた話だけでも来た意味はあった」
「そうだろ。名前も知らねえ男を、これだけ探したんだから十分だって」
「お前は途中から帰ることばっかり考えてただろ」
「ちゃんと探してたよ。腰まで見てたんだからな」
「腰だけ見てどうすんだよ」
「だから顔も見てたって」
清兵衛は何か言い返そうとしたが、宗助が笑いながら間に入った。
「まあまあ、今日はこの辺にしよう。加兵衛に話すこともできたし、また手掛かりが出てくるかもしれねえ」
「じゃあ帰ろうぜ」
返事を待つより先に、勇吉は来た道へ身体を向けた。
やっと帰れる。
東京まで来て、名前も知らない男の腰を探したんだから十分だろ。見つからないものはしょうがない。
清兵衛と宗助も歩き始めたので、勇吉は二人の後を追おうとした。
その時だった。
先ほどまで三人が様子をうかがっていた建物から、数人の男が出てきた。
勇吉は何となくそちらへ目を向けたが、その中に一人だけ、ほかの者と少し歩調の違う男がいることに気づいた。
右足を前へ出したあと、左足がわずかに遅れる。
周りの男たちと話しながら歩いているため、本人は気にしていないようだったが、左足へ体重を移す時だけ腰の動きがほんの少し変わっていた。
勇吉の足が止まった。
どこかで見た歩き方だった。
男はほかの者と並んで歩きながら、時折顔を向けて何か話している。身なりは整っており、背格好も探している男によく似ていた。
勇吉は男の身体へ目を向けたまま、蕨で施術した時のことを思い返した。
あの男も右腰を痛がっていたが、実際に触れてみると左側の動きが悪かった。施術を終えた時には随分楽になったようで、帰る頃には歩き方も変わっていた。
目の前の男も腰を真っすぐにして歩いている。最初に蕨へ来た時のような、いかにも腰が痛そうな様子はない。
それでも、左足へ体重が乗る時だけ、身体がわずかに右へ逃げる。
あの時、手の下で確かめた身体の癖が、まだ少し残っているようだった。
勇吉は男が近づいてくるのを待った。
清兵衛と宗助は気づかず先へ歩いている。
男たちが道の端にある段差へ差しかかると、勇吉が目を止めた男は右足から下り、続いて左足を下ろした。その瞬間、腰がわずかに右へ逃げた。
やっぱり、あの動きだ。
勇吉は思わず身を乗り出した。
男が隣の者へ返事をしながら顔を上げる。
その横顔を見た瞬間、勇吉は確信した。
間違いない。
蕨で腰を揉んだ、あの男だった。
「あいつだ」
少し先を歩いていた清兵衛が振り返った。
「何が?」
勇吉は男から目を離さなかった。
「いたぞ」
「誰が」
「腰だよ」
「腰じゃ分かんねえよ!」
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