第十三話 腰の男②
清兵衛も慌てて勇吉の視線を追った。
「あの男か?」
「そうだよ」
「今度は、たぶんじゃねえのか」
「間違いない。近くで顔も見えたしな」
清兵衛はもう聞かなかった。
「よし、追うぞ」
三人はすぐに歩き出した。
男との距離はそれほど離れていない。先日、浦和で見かけた時には追いつけなかったが、今度なら間に合う。
男は一緒に歩いていた者たちと何か言葉を交わし、建物の前で別れた。ほかの者たちが通りの向こうへ歩いていく一方で、男の前には一台の人力車が止まった。
どうやら、ここからは一人で行くらしい。
男が車へ乗り込もうとした。
「おい!」
勇吉が声を上げると、通りにいた何人かが振り返った。
男も人力車へ片足を掛けたところで動きを止め、声のした方へ顔を向ける。勇吉を見ても最初は誰なのか分からなかったらしいが、次の瞬間、その目がわずかに細くなった。
「……あれは、蕨の」
「おい、ちょっと待ってくれ!」
男は掛けていた足を戻し、人力車へ乗るのをやめた。
清兵衛と宗助も追いついてくる。勇吉は男の前まで行くと、顔より先に腰を見た。
やっぱり良くなってるな。
先ほど歩いている姿を見た時にも分かっていたが、こうして近くで見ると、蕨へ来た時とは立ち方まで違っていた。右腰を庇うような姿勢はほとんどなくなり、左右の足にも無理なく体重が乗っている。
「どうだ」
男は何を聞かれたのか、すぐに分かったらしい。
「おかげさまで。ずいぶん楽になりました」
「だろ」
よし。
自分が思っていた通りだったことに満足していると、男が少し笑った。
「まさか、それを確かめるために東京まで?」
「そうだよ……って、違えよ!」
清兵衛が横から割って入った。
「ちょっと聞きたいことがあるんだ」
男は清兵衛を見て、次に宗助、それからもう一度勇吉へ視線を戻した。
「こちらは蕨の方々ですか」
「そうだ」
「三人で東京まで?」
「あんたを探しに来たんだよ」
勇吉が答えると、清兵衛がすぐに顔を向けた。
「お前が言うと、本当にそれだけみたいだろ」
「それだけじゃねえよ。東京の飯もうまかったしな」
「そっちが先かよ」
男が小さく笑ったが、清兵衛は構わず続けた。
「あんた、この前は蕨にいたな」
「ええ、お邪魔しました」
「その後、浦和にもいたんじゃねえか」
男の口元に残っていた笑みが少し薄くなった。
「浦和ですか」
「そうだ。こいつが、あんたらしい男を見かけたと言ってたんだ」
清兵衛が勇吉を示すと、男は不思議そうにこちらを見た。
「よく分かりましたね。あの辺りは人も多かったでしょう」
「歩き方で分かるよ」
男の表情が変わった。
勇吉の顔を見たあと、自分の腰へ手を当てる。
「なるほど。そういうものですか」
「そういうもんだよ」
何だよ、そんなに変なことか?
勇吉からすれば、一度触った身体の癖を覚えていることは、別に不思議でも何でもない。もちろん、歩き方だけで誰かを決めつけるわけにはいかないが、顔を見れば確かめられる。
それに、あれだけ痛がっていた腰がどうなったのか、施術した側としては気になるものだ。
「で、何してんだ?」
清兵衛が次の質問をするより先に、勇吉が聞いていた。
「蕨に来て、浦和にも行って、今日は東京だろ。何してんだよ」
男はすぐには答えず、周囲を行き交う人を一度見てから三人へ視線を戻した。
「仕事ですよ」
「何の?」
「それは、まだ言えません」
「またそれかよ」
勇吉は眉を寄せた。
「名前も言わねえ、仕事も言わねえ。何なら言えるんだよ」
男は少し考えた。
「腰が良くなったことなら」
清兵衛が吹き出した。
勇吉は笑わなかった。
「それ、俺に教えてどうすんだよ!」
男も笑ったが、清兵衛はすぐに表情を戻した。
「県庁の場所を調べてるのか」
その一言で、男の笑いが止まった。
清兵衛を見たまま、すぐには答えない。さっきまでなら何かしら返していたのに、今度は何も言わなかった。
否定もしない。
宗助が清兵衛へ目を向けた。清兵衛は男から目を離さず、返事を待っている。
男は少し間を置いてから、静かに口を開いた。
「どうして、そう思われたのですか」
「蕨で県庁の話をしてただろ。浦和でも役所の様子を見てきたし、今日も岩槻や浦和の話を耳にした」
「なるほど」
「岩槻に役所を置くにしても、建物を用意するのに金がかかる。浦和なら使える建物があるらしい。そういう話なんだろ?」
男は清兵衛の言葉を聞いていたが、肯定も否定もしなかった。
「ずいぶん調べられたのですね」
「商売やってりゃ、人が集まる場所は気になるもんだ」
清兵衛がそう答えると、男は少しだけ表情を和らげた。
「それは、そうでしょうね」
「で、どうなんだ」
「私から申し上げられることは、まだありません」
「何もか?」
男は一度、待たせている人力車へ目を向けた。車夫は少し離れたところで梶棒に手を添え、こちらの話が終わるのを待っている。
「ただ、役所というものは、建物を一つ用意すれば済む話でもありません」
清兵衛が黙った。
「人が通い、書類や荷が届き、各地との行き来ができなければ仕事になりません。建物だけ立派でも、それでは困るでしょう」
それだけ言うと、男は口を閉じた。
清兵衛はしばらく考えるような顔をしていたが、やがて小さく頷いた。
「なるほどな。道や人の行き来も大事ってことか」
「別に、県庁に限った話ではありませんよ」
「そういうことにしとくよ」
男は苦笑した。
宗助も何か考えているようだった。
旅籠を営んでいれば、人がどこから来て、どこへ向かうのかは商売に直結する。役所ができれば人が集まり、泊まる者も増えるかもしれない。反対に、人の流れが変われば、これまで賑わっていた場所が寂しくなることだってある。
勇吉には、二人が何を考えているのかまでは分からなかった。
ただ、目の前の男が県庁の話を否定しなかったことだけは分かる。
数日前なら、ここまで気にはならなかっただろう。
腰の悪い妙な客で、県庁について変な話をする男。それだけだった。
ところが、その後は浦和で役所の様子を見て、今日は東京まで来て、知らない男たちが岩槻や浦和の話をしているのを聞いた。
そのうえ目の前の男は、清兵衛の問いにだけ、はっきり答えようとしない。
やっぱり何か知ってるんだな。
そう思ったところで、勇吉は別のことを思い出した。
「あ、名前だよ」
男が清兵衛から勇吉へ目を戻す。
「はい?」
「名前だよ。この前聞いたのに言わなかっただろ」
「それを聞くために東京まで来たんですか」
「だから違えって! いや、名前も聞きたかったけど」
男は声を出して笑った。蕨で会った時よりも、ずっと普通の笑い方だった。
やがて笑いを収めると、勇吉へ向き直った。
「そうですね。蕨で腰を診てもらったと思えば、今度は東京まで追ってこられるとは。ここまで来て名乗らないのも失礼でしょう」
「何か俺がずっと追いかけてるみたいになってんじゃねえか」
「違うんですか?」
「違うよ。いや、追ったけど」
「どちらなんですか」
「いいから名前言えよ」
男は少しだけ姿勢を正した。
「榊原敬之助と申します」
「さかきばら……けいのすけ?」
「ええ」
勇吉は聞いた名前を頭の中で一度繰り返してみた。
知らねえな。
清兵衛も宗助も特に反応しない。どうやら二人にも聞き覚えはないらしい。
榊原はそんな三人を見て、わずかに口元を緩めた。
「蕨の方々も、ずいぶん熱心ですね」
清兵衛の目つきが変わった。
「何が言いたい」
「東京まで来て、私を探していたのでしょう?」
「それだけじゃない」
「でしょうね」
榊原はそれ以上言わず、待たせていた人力車へ向かった。
「おい!」
勇吉が呼び止めると、榊原は車へ乗る前に振り返った。
「今度、蕨へ行く時には、先に名乗りますよ」
「もう名前聞いたよ!」
榊原がまた笑った。
「それでは、皆さん。お気をつけて」
そう言って人力車へ乗り込むと、車夫が梶棒を持ち上げた。
車が動き出し、人の流れへ入って少しずつ遠ざかっていく。
勇吉はその後ろ姿をしばらく見ていた。
今度は歩いていないから、腰を見てもしょうがない。
清兵衛が隣へ来た。
「何者だ、あいつ」
「知らねえよ」
「名前聞いただろ」
「聞いたけど、知らねえ奴だった」
宗助も追いつき、榊原が消えた方を見た。
「でも、県庁の話を否定しなかったな」
「そうだな」
清兵衛は短く答えたが、その場を動こうとはしなかった。
人力車はもうほとんど見えなくなっているのに、まだそちらを見ている。いつもなら次に何をするかさっさと決める清兵衛が動かないので、勇吉も何となくその場に残った。
「建物だけじゃ駄目だって言ってたな」
宗助が呟いた。
「ああ。道や人の行き来も大事だってことだろ」
「そうなると、宿場のことも関係してくるな」
「かもしれねえな」
二人はまた何か考え始めたらしい。
勇吉はその横で、通りを行き交う人々を眺めていた。
数日前まで、県庁なんて自分には何の関係もなかった。それが腰の悪い男を一度揉んだだけで、浦和へ行き、今日は東京まで来ている。
その間に蕨でも何かが始まり、浦和でも東京でも同じような話を耳にした。
何かが動いている。
それくらいは勇吉にも分かったが、それが何なのかまでは分からない。
ただ、役所を置く場所が変われば、そこへ行く人間も増えるという話なら、少しは分かる。
人が増えれば、飯を食う者も、泊まる者も増える。
身体の具合が悪くなって、揉んでくれと言ってくる奴だっているかもしれない。
そう考えたところで、勇吉は自分が何を気にしているのか分からなくなった。
別に、客が増えてほしくて東京まで来たわけじゃねえんだけどな。
「帰るか」
ようやく清兵衛が人混みから目を離した。
勇吉はすぐに頷いた。
「帰ろう。腹減った」
「さっき食っただろ」
「東京来ると腹減るんだよ」
「何でだよ」
「やっぱり人が多いからじゃねえ?」
「関係ねえよ」
三人は再び中山道へ向かって歩き始めた。
これでやっと帰れる。
今日は朝から歩きっぱなしだし、東京は人が多すぎて疲れる。蕨へ戻ったら何か食って、酒でも飲んで――。
しばらく歩いたところで、隣を歩いていた清兵衛の足が急に止まった。
「……あ」
勇吉と宗助も数歩遅れて止まる。
「何だよ」
清兵衛はすぐには答えず、何かを思い出そうとするように来た道を振り返った。
「お前の女房に頼まれたもの」
勇吉も思い出した。
「あ」
「忘れてた」
朝から自分だけ信用されていなかったことを思い出した途端、勇吉の顔が明るくなった。
「ほら!」
「何がだよ」
「お前も忘れてんじゃねえか!」
「お前が余計なことばっかりするからだろ」
「俺のせいかよ!」
「腰探して、役人の話聞いて、お前が女の尻見てるからだろ」
「最後の関係ねえだろ! 見てもねえし!」
宗助は二人を置いて、もう来た道を戻り始めていた。
「言い合ってる暇があったら、店が閉まる前に探せよ」
勇吉もその後を追う。
「そういや、何頼まれたんだっけ」
清兵衛が足を止めかけた。
今度はさっきより明らかに険しい目で勇吉を見る。
「だからお前には頼まなかったんだよ」
「いや、清兵衛が覚えてるならいいじゃねえか」
「そういう問題じゃねえ!」
宗助が振り返った。
「お前ら、まだやってんのか」
三人は来た道を少し戻ることになった。
県庁の行方を調べるために東京まで来たはずなのに、帰り際になって一番慌てているのが勇吉の女房への土産だった。
清兵衛は頼まれていた品物を扱う店を探し、宗助も通りの店先を見ながら歩いている。
勇吉は二人の後ろについていったが、どうにも納得がいかなかった。
忘れたのは清兵衛も同じだろうに、何で俺だけ怒られるんだ。
ようやく頼まれたものを見つけ、今度こそ蕨へ向かうことになった。
その途中、先ほどとは別の女が人混みの中を歩いていった。
勇吉の目がそちらへ動く。
横から視線を感じた。
「違えよ」
清兵衛の眉が上がった。
「まだ何も言ってねえよ」
「歩き方だよ」
「何も聞いてねえって」
勇吉は何も言わず、前を向いた。
東京まで来て分かったことはある。
岩槻や浦和の話は本当に動いているらしく、先日腰を揉んだ男には榊原敬之助という名前があった。
名前まで聞いたのに、何者なのかは結局分からなかった。
県庁がどこへ行くのかも、まだ分からない。
ただ、榊原が話していた、人や荷の行き来が大切だという言葉は少しだけ頭に残っていた。
道が悪ければ歩くのも大変だし、重い荷を運ぶ者なら身体への負担も大きい。そういう人間を毎日のように診ている勇吉には、少し分かる話だった。
もっとも、それが県庁の場所とどう関係するのかまでは、よく分からない。
勇吉は隣を歩く清兵衛へ目を向けた。
清兵衛は何か考えているようだったが、今度は話しかけなかった。
どうせ蕨へ戻れば、また酒を飲みながら今日の話をすることになる。
その時に聞けばいい。
県庁がどこへ行くのかも、榊原が何者なのかも、まだ分からない。
それでも、これであの男との話が終わったような気はしなかった。
***
【史実と創作】
明治4年、埼玉県の県庁は岩槻に置くこととされましたが、実際の県政は旧浦和県庁舎で行われました。
本話に登場する榊原敬之助は架空の人物です。
今後も実在の人物や出来事の中に架空の人物を交えながら物語は進んでいきます。
どこまで本当なのか、気になったら調べてみてください(笑)




