第十四話 蕨に戻れば①
蕨へ戻った頃には、すっかり日が暮れていた。
朝から東京まで歩き、慣れない人混みの中で役所を探して回ったせいか、勇吉の足はすっかり重くなっていた。名前も知らなかった男をようやく見つけたものの、分かったのは榊原敬之助という名前だけで、結局何者なのかは分からない。それでも、あれだけ歩き回って手掛かりを持ち帰れたのだから、今日のところは十分だろう。
中山道の先に見慣れた蕨宿の灯りが見えてくると、ようやく肩の力が抜けた。
東京ほど人はいないし、道も狭い。大きな役所があるわけでもなければ、見慣れない格好をした役人らしい男たちが次々歩いているわけでもない。店先では片づけを始める者がいて、旅籠の前には今夜泊まるらしい客の荷が置かれていた。
いつもの蕨宿だった。
それなのに、数日前に浦和を見て、今日は東京まで行ってきたせいなのか、見慣れているはずの道の幅や店の並び、旅籠の場所、馬をつなげそうな場所や空いている土地まで妙に目についた。
東京で見たものと比べれば何もかも小さいのに、浦和へ行く前ならそんなことを気にしたことすらなかった。
少し前を歩いていた清兵衛が突然足を止め、道から少し入った場所を眺め始めた。
「ここ、使えるな」
「急に何の話だ?」
「ここの土地だよ」
「またかよ。お前、最近土地のことしか言ってねえぞ」
勇吉にはただの空き地にしか見えないが、清兵衛は道からどのくらい入るのか、奥までどれほど続いているのか確かめるように眺めている。
「役所が来るなら、この辺も変わるぞ」
「来るって決まってねえだろ」
「だから来る前に考えるんだよ」
「来なかったら?」
「その時はその時だ」
「怖えな、お前……嫌いじゃないけどよ」
清兵衛は何を言われたのか分からないような顔をしただけで、また歩き始めた。
その横では宗助まで宿場を見回している。ただし清兵衛のように土地を見ているわけではない。旅籠の前につながれた馬や、店先で荷を下ろしている男たちを目で追っていた。
「役人が増えれば、泊まる人間も増えるか」
「宗助まで始まったよ」
「何がだ」
「土地だの旅籠だの、さっきからそればっかじゃねえか」
「お前だって東京でずっと人の身体見てただろ」
「俺は仕事だからいいんだよ」
「今は仕事してねえだろ」
「癖だよ」
「じゃあ俺たちも同じだ」
「そりゃそうか……って違うだろ」
何が同じなのか一瞬納得しかけた自分にも腹が立ったが、清兵衛と宗助はもう別の話を始めていた。
数日前に浦和へ行き、今日東京まで行ったことで、二人とも余計にやる気になってしまったらしい。
面倒なことになったな。
三人が宿場の中ほどまで来ると、桜屋の前に見慣れた姿があった。
お咲が店先に出て、帰る客を見送っている。
開いた戸の向こうから、焼いた魚の匂いと酒の香りが漂ってきた。醤油の焦げる香ばしい匂いに、勇吉の腹が小さく鳴る。
東京でも飯は食ったが、あれから随分歩いている。しかも、この匂いを嗅いでしまった以上、素通りするのはもったいない。
「あら、勇吉さん。お帰りなさい。ずいぶん遅かったわね」
お咲がこちらに気づき、笑顔を向けた。
「ただいま。何かうまそうな匂いがするな」
「東京から帰ってきたと思ったら、もう食べ物の話?」
お咲は呆れたように笑った。
「だって、いい匂いするんだもん」
「源次郎が魚を焼いてるところなの。お腹が空いてるなら、食べていく?」
「食う!」
勇吉が即答したところで、後ろから清兵衛の声が飛んできた。
「食わねえよ。これから岡田家だろ」
「何でお前が決めるんだよ」
「決まってただろうが」
お咲が二人の顔を見比べた。
「あら、これから岡田家へ行くの? また県庁のお話かしら」
「何で知ってんだよ」
「宿場の話なんて、本人たちが思ってるより早く広まるものよ」
お咲はそう言って笑ったが、清兵衛は少し驚いたようだった。
「もうそんなに話が広がってるのか」
「何人も集まって話していれば、誰かの耳には入るでしょう? 何がどうなるのかまでは、私も知らないけれど」
勇吉は店の奥へ目を向けた。
源次郎が忙しそうに動いているのが見える。今なら焼きたてが食えるかもしれない。
「なあ、ちょっとだけ――」
「行くぞ」
清兵衛に遮られた。
「まだ何も言ってねえだろ」
「顔に書いてある」
「顔で分かるわけねえだろ」
「お前の顔なら分かるよ」
お咲が声を出して笑った。
「用事が済んだら、また寄ってちょうだい。遅くなるなら先に知らせてね」
「おう、絶対来るからな!」
「勝手に決めるな」
清兵衛に背中を押されるように歩き出した勇吉は、名残惜しく桜屋を振り返った。
源次郎の魚、食いたかったな。
それにしても、東京から帰ってきたばかりだというのに、もう県庁の話が広まっているらしい。
自分たちが浦和や東京を歩き回っている間にも、蕨では蕨で何かが動いていたようだった。
「じゃあ俺、帰るから」
桜屋が見えなくなったところで勇吉が言うと、清兵衛が振り返った。
「どこに?」
「家だよ」
「岡田家行くぞ」
「何で?」
「東京で聞いた話、加兵衛たちに話すんだろ」
言われて思い出した。
そうだった。
「あのよ、明日じゃ駄目か?」
「駄目だろ」
「何でだよ。話なんか明日でも変わらねえだろ」
「今日聞いた話は今日話した方がいい。お前のことだから、明日になったら余計な話ばっかり増える」
「俺は今日疲れたんだけど」
「俺たちもだ。安心しろ」
「安心できるかよ」
勇吉は自分の家がある方へ目をやった。帰れば飯もあるだろうし、酒もあるかもしれない。何より、足を伸ばして座れる。
朝から歩きっぱなしで、ふくらはぎも重い。
このまま帰ってしまおうか本気で考えていると、それまで二人のやり取りを聞いていた宗助が、何でもないように言った。
「岡田家なら酒あるんじゃねえか」
勇吉は家の方へ向いていた顔を二人へ戻した。
「……先に言えよ」
「行くのか?」
「しょうがねえだろ。今日の話は今日しないとな」
清兵衛がしばらく勇吉を見た。
「今、俺が同じこと言っただろ」
「違うぞ! お前は酒のこと言ってねえだろ」
清兵衛の口が開きかけたが、そのまま閉じた。何を言っても無駄だと思ったらしい。
三人はそのまま岡田家へ向かった。
◇
岡田家へ着くと、加兵衛だけではなく権蔵もいた。それだけならいつもの顔ぶれだが、今夜はほかにも見覚えのある町の者が何人か座り、広げられた紙を囲んで話している。
勇吉は部屋へ入ったところで足を止めた。
「みんな何してんの?」
紙へ何か書き込んでいた加兵衛が顔を上げた。
「ずいぶん遅かったな」
「いや、それより何で増えてんの?」
「話を聞いてもらっていた」
「何の?」
権蔵の眉間に深い皺が寄った。
「お前、本当に何も分かってねえんだな」
「帰ってきたばっかなんだから分かるわけねえだろ」
勇吉は言い返しながら部屋へ上がった。
何人かが場所を空けてくれたので、ようやく腰を下ろそうとしたところで、部屋の隅に置かれた徳利が目に入った。
酒はある。
よし。
それを確認してから座ると、清兵衛がさっそく東京での話を始めた。
数日前に浦和で見た役所のこと、今日東京へ行ったこと、そして役所の多い辺りで入った店で、岩槻や浦和について話している役人らしい男たちがいたこと。
加兵衛は途中で何度か話を止め、聞き返しながら手元の紙へ書き込んでいく。
「それで、浦和の役所を使うという話は間違いないのか?」
清兵衛はすぐには答えなかった。今日聞いた話を頭の中でもう一度拾い直しているように、少し間を置く。
「間違いないとまでは言えねえ。全部聞こえたわけじゃないからな」
「でも、そんな話はしてた」
宗助も自分が聞いたところを確かめるように続けた。
「岩槻、浦和、庁舎、それから費用の話もしてたと思う」
権蔵が腕を組んだ。
「つまり、まだ本決まりじゃねえってことか」
「それも分からん」
清兵衛が答えるのを聞きながら、勇吉は徳利を手に取った。
「で、結局どっちになるかは分かんねえんだろ?」
清兵衛が勇吉を見た。
「そうだ。だから調べてるんだろうが」
「いや、分かってるよ。だったら今は、どっちになるか分からねえってことじゃねえか」
勇吉としては、別に変なことを言ったつもりはなかった。
岩槻に決まったという話があり、浦和では役所が動いていて、東京でも費用の話が出ている。それでも、これからどうなるのかは誰にも分からない。
だったら、今のところはそれが答えだろう。
加兵衛は勇吉を一度見たあと、小さく頷いた。
「そうだな。まだ分からんことが多い」
「だろ?」
勇吉が得意げに杯を持ち上げると、清兵衛が呆れたように言った。
「分かったから、酒ばっかり飲んでねえで話も聞けよ」
「聞いてるよ。ちゃんと」
「お前、酒しか見てねえだろ。うまそうに飲みやがって」
「出されたからな。まずそうに飲んだら悪いだろ」
「そういう問題じゃねえよ」
近くに座っていた者から笑いが漏れ、権蔵まで鼻で笑った。
加兵衛はそれが収まるのを待つでもなく、紙へ落としていた視線を清兵衛へ戻した。
「それで、あの男は?」
その一言で、杯を口へ運ぼうとしていた勇吉の手も止まった。
清兵衛がこちらを見てから答える。
「見つけた」
「本当か」
「勇吉がな」
「東京でか?」
権蔵まで身体をこちらへ向けたので、勇吉はここぞとばかりに酒を一口飲んだ。
加兵衛にはその態度の方が気になったらしい。
「どうやって見つけた?」
「歩き方だよ」
「歩き方?」
「ああ。蕨で揉んだ時、右腰を痛がってたろ。あれで左の動きまで悪くなってたんだよ。だいぶ良くなってたけど、まだ癖が残ってたからな」
勇吉が説明すると、加兵衛は筆を止めた。
「それを人の多い東京で見つけたのか?」
「顔も確かめたよ。歩き方だけじゃ、似た奴だっているだろ」
「なるほどな」
加兵衛は感心したように頷いた。
「お前でなければ、見つからなかったかもしれんな」
「そうだろ」
勇吉は少し胸を張った。
実際、清兵衛と宗助が顔を探している間、勇吉は人の身体の動きも見ていた。一度施術した相手なら、歩き方や立ち方に残る癖から気づくことはある。
もちろん、誰でも見分けられるわけではない。
それでも今回ばかりは、自分の仕事が役に立ったらしい。
「で、名前は?」
加兵衛に聞かれ、勇吉はすぐに答えようとした。
「ちゃんと聞いてきたぞ」
「何という?」
「あれ? 何だっけ」
口に出してから、まずいと思った。
案の定、清兵衛がじっとこちらを見ている。
「お前、まさか忘れたんじゃねえだろうな」
「忘れてねえよ」
「じゃあ言えよ」
「今出てくるから待てよ……さ……さか……」
そうだ。確か、さかきばら。
そこまでは覚えている。
「榊原……」
「敬之助」
宗助が横から言った。
勇吉はすぐに指を差した。
「それ」
「それじゃねえよ!」
清兵衛の声が部屋に響いた。
「東京まで追いかけて名前聞いたんだろ!」
「身体のことなら覚えてるんだけどな」
「名前も覚えろよ!」
また笑いが起きる中、加兵衛だけは話を逃さないように紙へ名前を書き込んでいた。
榊原敬之助。
改めてその文字を見ても、勇吉にはやっぱり何も思い当たらない。
権蔵も加兵衛が書いた名前をしばらく眺めてから、部屋にいる者たちへ顔を向けた。
「知ってる奴はいるか?」
誰からも声は上がらなかった。榊原敬之助という名前を知っている者は、ここにはいないらしい。
「何をしてる男なんだ」
「仕事って言ってた」
「何の仕事だ」
「それは言えねえってさ」
「役人なのか?」
「そこまでは分からねえよ」
「どこの人間だ?」
「東京から来たとは言ってたな」
権蔵は腕を組み直した。
「結局、名前しか分からなかったのか」
「いや、腰は良くなってたぞ」
「腰の話はもういい!」
「聞かれたから答えたんだろ」
権蔵が何か言い返そうとしたところで、清兵衛が口を開いた。
「でも一つ、気になることは言ってたぞ」
加兵衛の筆が止まる。
「何だ」
「役所は建物を一つ用意すれば済む話じゃねえってな。人が通えて、書類や荷が届いて、各地と行き来できなきゃ仕事にならねえらしい」
加兵衛はその言葉を聞くと、広げていた紙へ目を落とした。
「道と人の行き来か」
「そうだ。それから俺たちを見て、『蕨の方々も、ずいぶん熱心ですね』って言ってた」
「それだけか?」
「ああ」
清兵衛は少し考えてから続けた。
「東京まで来た俺たちを見て言っただけかもしれねえ。でも、あいつは先日蕨に来て、今日は東京にいた。県庁の話を聞いた途端、急に口が重くなったんだ」
権蔵も今度は笑わなかった。
「県庁のことは聞いたのか」
「聞いた。場所を調べてるのかってな」
「何て?」
「はっきりとは答えなかった」
清兵衛の答えを聞きながら、勇吉もあの時の榊原を思い出した。
それまで笑っていたのに、県庁のことを聞かれた時だけ、急に口が重くなった。
あれは何だったんだろうな。
「俺も聞いてたよ」
勇吉が言うと、権蔵がこちらを見た。
「何で答えないのかは聞かなかったのか」
「その後、名前聞くの思い出したから」
「お前なあ……」
「だって名前も知らなかったんだぞ」
「そっちも大事だけどよ」
加兵衛は何も言わず、自分で書いた榊原敬之助という名前へ視線を戻した。
名前を聞いた時には何とも思わなかった勇吉も、みんなが黙ると少し気になってくる。
榊原は何で蕨へ来たんだろうな。
しばらく考えていた加兵衛が、榊原の名前から目を離さないまま口を開いた。
「俺たちが考えている以上に、あの男は県の話に近いところにいるのかもしれんな」
「役人か?」
清兵衛が聞く。
「分からん。決めつけない方がいい」
権蔵は鼻を鳴らした。
「だったら本人に聞きゃいいだろ」
「だから言わねえんだって」
勇吉が答えると、権蔵がこちらを見る。
「次に来た時にもう一回聞け」
「俺が?」
「お前の客だろ」
「腰のな」
「何でもいい」
何で俺なんだよ。
勇吉が杯へ手を伸ばしたところで、清兵衛が広げられた紙を指した。
「それより、これは何だ?」
勇吉もつられて覗き込む。
さっきから加兵衛たちが見ていた紙には、蕨宿とその周辺が簡単に描かれ、ところどころに名前や数字が書かれていた。
「土地だ」
権蔵の答えを聞いた瞬間、勇吉は嫌な予感がした。
「もうやってんの?」
「何をだ」
「土地調べるやつ」
「当たり前だろ。お前らが東京に行ってる間に、こっちは何人かに話を聞いてたんだ」
「早えな、お前ら」
「早くねえよ。まだ持ち主を確かめてるだけだ」
権蔵がそう言うと、近くに座っていた男も頷いた。
「話を聞くくらいならいいが、土地をどうこうするとなりゃ別だぞ。県庁が来ると決まったわけでもねえしな」
「分かってるよ」
清兵衛が答えた。
「だから今のうちに、誰の土地なのかくらい知っておこうって話だろ」
加兵衛も筆を置いて頷いた。
「そういうことだ。今すぐ何かを始めるわけじゃない」
勇吉は紙を覗き込んだ。
宿場の道が一本引かれ、その両側に家や店の位置が書き込まれている。ところどころに空いた土地も描かれているが、勇吉が普段歩いている場所とは、何だか違うものに見えた。
清兵衛はその一角を指した。
「ここは?」
「そこの持ち主なら話は出来る」
「こっちは?」
「俺はよく知らん」
権蔵が部屋の端に座っていた男へ目を向けると、今度はその男が紙の上を指した。
「そこは別の家だ。こっちとは持ち主が違う」
「じゃあ、まとめてどうこうってのは簡単じゃねえな」
清兵衛は土地の境を追うように紙を見る。
その横から宗助も覗き込んだが、見ている場所は少し違った。
「ここに何か出来るなら、旅籠からは遠くないな。馬を置くなら……こっちの方がいいか」
「何で馬まで出てくるんだよ」
勇吉が言うと、宗助は紙から目を上げた。
「役人だけ歩いて来るわけじゃないだろ。荷を運ぶ者もいるし、馬を連れて来る者もいる。泊まる場所だけあってもしょうがねえからな」
「なるほどな」
勇吉は素直に頷いた。
そう言われれば、確かにそうだ。
蕨宿には今でも旅人が来るし、荷を運ぶ者もいる。役所ができれば、そうした人間がもっと増えるかもしれない。
もっとも、役所が来るかどうかも分からないうちから、そこまで考える必要があるのかとは思う。
清兵衛たちは違うらしい。
権蔵は知っている土地の持ち主の話をし、清兵衛はその土地がいくらなら動くのかを気にしている。宗助は旅籠や馬の置き場所を見ており、加兵衛は出てきた話を紙へ書き留めていた。
同じ紙を囲んでいるのに、みんな見ているものが違う。
勇吉にはそれが少し面白かった。
清兵衛は金になるかもしれない場所を見ているし、宗助は客が泊まる場所を見ている。権蔵は誰の土地なのかを知っていて、加兵衛はその話を一つずつ書き留めている。
俺なら、ここに何があると嬉しいだろうな。
そう考えてみたが、すぐに酒屋と飯屋くらいしか思い浮かばなかった。
それじゃ今と変わらねえか。
勇吉は一人で苦笑した。
数日前、何気なく口にした蕨の話が、こんなところまで広がっている。
あの時は、ただ蕨でもいいんじゃないかと思っただけだった。それが浦和へ行く話になり、東京まで榊原を探しに行くことになり、帰ってきたら土地の持ち主にまで話を聞き始めている。
こいつら、早すぎねえか?
「金のことも考えねえとな」
清兵衛が紙から目を離さず言う。
「何するにしても、ただじゃ出来ねえ」
「宿の方なら俺も少し当たってみるよ」
宗助が言えば、権蔵は別の男と土地の持ち主について話し始める。加兵衛はそれを聞きながら、必要なところだけ紙へ書き足していく。
勇吉は酒を飲んだ。
岡田家にも酒はあるが、さすがにいつまでもここで話を聞いているわけにはいかない。帰れば女房も待っているだろうし、東京で買ってきた土産も渡さなければならない。
それに、さっきお咲が用事が済んだら寄っていけと言っていた。
まだ店は開いてるかな。
勇吉は部屋を見回した。
清兵衛は土地の話に夢中で、宗助も紙を覗き込んでいる。加兵衛は筆を動かし、権蔵は隣の男と何やら話していた。
誰もこちらを見ていない。
今なら帰れるんじゃねえか?
そっと杯を置き、音を立てないように腰を浮かせたところで、権蔵の声が飛んできた。
「勇吉」
***




