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第十五話 蕨に戻れば②

「何だよ」


 こっそり帰ろうとしたところを呼び止められ、勇吉は浮かせかけた腰を中途半端なところで止めた。


「どこ行く」


「厠」


 権蔵は勇吉の顔を見たあと、その身体が向いている方へ目をやった。開ければそのまま外へ出られる戸口が、すぐそこにある。


「そっちは出口だ」


「……ちょっと外の空気吸おうかなって」


「座れ。お前に頼みがある」


「何だよ。俺、もう帰りたいんだけど」


「榊原って男のことだ」


 その名前が出た途端、勇吉は顔をしかめた。


 東京まで探しに行き、ようやく会えたと思ったら、帰ってきてからも榊原の話ばかりだ。名前は聞いてきたし、県庁についても尋ねた。それ以上のことを聞かれても、勇吉には答えようがない。


 それでも権蔵がこちらを見ているので、仕方なく元の場所へ座り直した。


「また榊原かよ。もう話しただろ」


「また蕨へ来た時の話だ」


 広げられた紙へ何か書いていた加兵衛が筆を止めた。


「榊原殿がまた訪ねてきたら、俺たちにも知らせてほしい」


「また来るか分かんねえよ」


「来ることがあれば、でいい」


 そう言われて、勇吉は東京で別れ際に交わした言葉を思い出した。


 ――今度、蕨へ行く時には先に名乗りますよ。


 確かに、そんなことを言っていた。


 ただ、また来ると約束したわけではない。あの男が本当に何をしているのかも分からないし、蕨へ来た理由だって、腰が痛かったからなのか、それとも別に何かあったのか、今となっては気になってくる。


「来たら腰は診るよ。まだ少し癖が残ってたしな」


「腰だけじゃなくて、少し話も聞いてくれ」


「何の話だよ?」


「仕事のことだ。県庁の話をどこまで知っているのか、それとなく聞ければいい」


「それ、東京でも聞いただろ。言わねえって」


「だから、無理に聞き出せとは言っておらん」


 加兵衛はそう言って、勇吉の方へ身体を向けた。


「お前が普段どおり話してくれればいい。向こうから何か話すかもしれんし、何も話さなければそれまでだ」


「何だ、それでいいのか」


「いいとも。妙な探りを入れて、警戒されても困るからな」


 勇吉は少し考えた。


 榊原がまた腰を痛めて訪ねてくるなら、もちろん診るつもりだった。仕事なのだから、それは何も問題ない。ただ、県庁の話まで聞いてこいと言われると、何をどう尋ねればいいのか分からない。


 そもそも、あの男は人当たりこそ悪くないが、話したくないことはきちんと隠す。東京でのやり取りを思い返しても、こちらが聞きたいことには答えず、いつの間にか別の話をしていた。


「俺、そういうの向いてねえよ。分かんだろ」


 清兵衛は否定するどころか、待ってましたとばかりに笑った。


「知ってる」


「じゃあ頼むなよ」


「でも、向こうから来るとしたら、お前のところだろ」


 言い返そうとしたが、そこだけは清兵衛の言うとおりだった。


 蕨で榊原が最初に訪ねてきたのは勇吉の店である。あの腰の具合なら、また診てもらおうと思っても不思議ではない。


「普通に話してりゃいいんだな?」


 勇吉が確かめると、権蔵は杯を口へ運びながら何でもないことのように言った。


「お前はそれしか出来ねえだろ」


「何だよ、その言い方」


「褒めてんだ」


「絶対褒めてねえだろ」


 権蔵は楽しそうに笑い、そのまま酒を飲んだ。


 加兵衛は紙の端に書かれた榊原敬之助の名前の横へ、何か小さく書き足している。勇吉には何と書いたのか見えなかったが、わざわざ覗き込もうとも思わなかった。


 それより、そろそろ杯が空になる。


 もう一杯飲もうと徳利を傾けてみたが、何も出てこない。持ち上げて軽く振ってみても、中身が残っている気配はなかった。


「酒ないぞ」


 清兵衛は土地の話を始めていて、こちらを見ようともしない。


「なあ、酒」


 宗助も加兵衛と何やら相談している。


 勇吉は空になった徳利を畳へ置き、もう一度声をかけた。


「おい、県庁より先に酒なくなってるぞ」


 それまで土地の話をしていた権蔵が、とうとう堪えきれなくなったように大きな声で笑った。


「お前は本当に変わらねえな」


「何が?」


「何でもねえよ。誰か、酒を持ってきてやれ」


「おっ、さすが権蔵!」


「調子のいい奴だ」


 新しい徳利が運ばれてくると、勇吉は満足して杯へ注いだ。


 清兵衛たちは相変わらず、広げた紙を囲んで話を続けている。土地の持ち主を確かめる者がいれば、道の広さを気にする者もいて、宿場の外れに馬を置ける場所があるかと宗助が尋ねると、権蔵が近くに座っていた男を呼んだ。


 数日前までは酒の席で笑っていた話が、いつの間にか随分大きくなっている。


 清兵衛は土地、宗助は宿や馬、権蔵は人のつながり、加兵衛はその全部をまとめようとしていた。


 まったく、みんな好きだよな。


 勇吉は杯を傾けながら、そんなことを考えた。


 正直、自分まであちこち走り回るのは勘弁してほしい。けれど、誰かが何かを言えば別の誰かが考えを出し、さっきまでなかった話が少しずつ形になっていく。


 そういう賑やかさは、昔から嫌いではなかった。


 県庁が本当に蕨へ来るのかは分からない。


 ただ、もし来たらどうなるんだろう。


 宿場には今より大勢の人が来るのだろうか。見慣れた道に新しい店が増え、旅籠も賑やかになるかもしれない。


 それはそれで、悪くない。


 勇吉は少し笑いながら酒を飲んだ。


 ただ、東京で榊原が県庁について聞かれた時、急に口を閉ざしたことだけは妙に頭に残っていた。


 あの男は、何を知っているんだろうな。


 勇吉はもう一度、広げられた紙を見た。


 蕨宿の道を中心に、家や店の位置が描かれている。東京へ出かける前にはなかった名前や数字も増えていて、加兵衛が何か聞くたびに、新しい書き込みが加わっていく。


 最初は酒を飲みながらの話だったはずなのに、いつの間にか、こんなものまで出来上がっていた。


「なあ」


 加兵衛が筆を止め、顔を上げた。


「何だ」


「これ、本当にやるの?」


 勇吉は広げられた紙を指した。


「この前までは酒飲みながら話してただけだろ。それが浦和へ行って、東京まで行って、今度は土地まで調べてる」


 言いながら、勇吉は少し笑った。


「お前ら、本気なんだな」


 清兵衛が当然だという顔をした。


「今さら何言ってんだ」


「いや、面白えなと思ってさ。県庁、本当に蕨へ持ってくるつもりなんだな」


 今度は誰もすぐには答えなかった。


 清兵衛は何か言いかけたが、その前に加兵衛が筆を置いた。広げられた紙へ目を落とし、書き込まれた土地や人の名前をしばらく眺めてから、静かに口を開く。


「持ってこられるかどうかは分からん」


 加兵衛は広げられた紙へ目を落とした。


「だが、何もしなければ来ない」


 勇吉は加兵衛の顔を見た。


 いつものように淡々とした言い方だったが、冗談を言っている顔ではなかった。


「岩槻に県庁を置くと決まっている。浦和ではすでに役所が仕事をしている。そこへ蕨も考えてくれと言ったところで、簡単に話が通るものではないだろう」


 加兵衛はそう言いながら、紙の上に引かれた中山道を指でなぞった。


「だが、役所を動かすには何が必要なのか、蕨には何があって、何が足りないのか。それくらいは調べられる。調べたうえで無理だと分かるなら、それも一つの答えだ」


「なるほどな」


 勇吉は思わず頷いた。


 清兵衛が土地のことを考え、宗助が宿や馬のことを気にしていた理由も、ようやく一つにつながった気がした。


 県庁を蕨へ持ってくると決めたわけではない。持ってこられる場所なのか、まず確かめようとしているのだ。


 それなら、少し分かる。


 勇吉はもう一度紙を見た。


 身体を診る時も、痛い場所だけ見ていては分からないことがある。腰が痛いと言われて腰を揉んでも、思ったほど良くならないことがあるし、足の動きや背中の硬さを確かめて、ようやく原因が見えてくることもある。


 榊原の腰だってそうだった。


 右側を痛がっていたが、実際には左側の動きにも問題があった。そこを整えると歩き方まで変わったのだから、身体というものは一か所だけ見ていても分からない。


 そう考えているうちに、ふと東京で榊原が言っていた言葉を思い出した。


 役所は建物を一つ用意すれば済む話ではない。


 人が通い、書類や荷が届き、各地との行き来ができなければ仕事にならない。


 あれも、同じような話なのかもしれない。


「難しい顔してどうした」


 清兵衛に聞かれ、勇吉は考えていたことをそのまま口にした。


「県庁って、腰と同じなのかなと思って」


 一瞬、部屋が静かになった。


 権蔵の杯が口へ届く手前で止まる。


「何言ってんだ、お前」


「いや、腰が痛いからって、腰だけ揉んでも駄目な時があるだろ」


「そりゃ、お前の仕事の話だろ」


「そうなんだけどさ。ほかのところが悪くて、腰に痛みが出てることもあるんだよ。だから痛いところだけじゃなくて、身体全体を見ないと分かんねえことがある」


 勇吉は紙へ目を落とした。


「県庁も建物だけあればいいってわけじゃねえんだろ。道があって、人が来られて、荷物も運べて……そういうのが揃ってないと駄目なんじゃねえかなって」


 そこまで話してから、勇吉は顔を上げた。


「……まあ、腰とは違うか」


 権蔵が何か言いかけたが、その前に加兵衛が頷いた。


「いや、似ているところはあるかもしれんな」


「そうか?」


「ああ。建物を建てる場所だけ見ていても、役所がうまく動くとは限らん。榊原殿も、そういうことを言いたかったのかもしれん」


 清兵衛も紙を見直した。


「確かにな。土地があれば済むって話じゃねえもんな」


 宗助が横から口を挟む。


「だから宿も馬も必要なんだろ。俺は最初からそう言ってるぞ」


「分かってるよ」


 清兵衛が答えると、権蔵がようやく杯を口へ運んだ。


「まったく、腰から県庁の話になるとはな」


「俺だって、そうなるとは思わなかったよ」


「お前、たまにはまともなこと言うじゃねえか」


「たまには余計だろ!」


 権蔵が笑い、宗助までつられて笑った。


 勇吉も笑いながら杯を持ち上げたが、加兵衛だけは広げた紙を見つめたままだった。


 何か思いついたのか、筆を取り、道の脇へ小さく書き足している。


 勇吉にはそれが何なのか分からなかった。


 ただ、もう帰っていいかと聞くのは、少し言い出しにくくなってしまった。


     ◇


 岡田家を出た頃には、宿場の灯りもだいぶ少なくなっていた。


 昼間は旅人や荷を運ぶ者で賑わう中山道も、今は時折遅い旅人が通る程度で、店の戸を閉める音が遠くから聞こえてくる。夜風は少し冷たかったが、酒の入った身体にはかえって心地よかった。


 結局、桜屋には寄れなかった。


 源次郎の焼いた魚を思い出すと少し残念だったが、さすがに今から飲み直す気にはなれない。朝から東京まで行き、帰ってきてからも岡田家で話し込んだのだから、今日はもう十分だった。


 家へ着くと、妻はまだ起きていた。


 戸を開けた勇吉を見て、まず顔を確かめ、それから少し眉を上げる。


「ずいぶん遅かったわね」


「いやあ、いろいろあってさ」


「東京まで行って、そのあとも飲んできたんでしょう」


「何で分かるんだよ」


「分かるわよ」


 妻は呆れたように笑ったが、それ以上は何も言わなかった。


 勇吉は懐へ手を入れ、東京で買ってきた包みを取り出した。


「ほら」


 妻の目が包みへ移った。


「あら、覚えてたの?」


「当たり前だろ」


 妻は包みを受け取ると、勇吉の顔を一度見てから、口元を緩めた。


「清兵衛さんが覚えててくれたのね」


「……何で分かった?」


 妻は答えず、包みを開き始めた。


「俺だって覚えてたぞ」


「何を頼んだか知ってた?」


 勇吉は口を開きかけ、そのまま閉じた。


 妻が笑った。


「ほらね」


「いや、でも買ってきたのは俺だぞ」


「はいはい。ありがとう」


 そう言いながら包みの中を確かめる妻の顔は、どこか嬉しそうだった。


 勇吉はそれを見て、まあいいかと思った。


 実際、東京へ出かける前に土産を頼まれたことは覚えていた。ただ、何を頼まれたのかとなると、途中で少し怪しくなっていたのも事実だ。


 清兵衛がいなかったら、適当なものを買って帰っていたかもしれない。


 それでも、妻が喜んでいるなら結果は同じだろう。


 そう思ったところで、ふと榊原のことが頭に浮かんだ。


 名前を忘れかけた時も、宗助が横から教えてくれた。


 今日は随分、人に助けられてるな。


 そんなことを考えながら着替えを済ませ、勇吉はいつもの帳面を開いた。


 施術した客のことや、その日に気づいたことを書き留めるための帳面だったが、最近は県庁の話まで書くようになっている。


 最初は何となく書いただけなのに、浦和へ行き、東京まで出かけることになると、さすがに忘れないようにしておいた方がよい気がしてきた。


 今日は色々ありすぎた。


 何から書こうか少し考え、まず、


『東京へ行く』


 と書いたところで筆を止めた。


 違うな。


 今日はそれだけじゃない。


 勇吉は少し考えてから、その下へ書き足した。


『東京にて榊原敬之助なる男に会う』


 名前まで書き終えると、勇吉は文字を眺めて少し満足した。


 今度はちゃんと覚えてたぞ。


 続けて、これまでの出来事を思い返す。


『四日前、蕨にて榊原を診る』


『三日前、浦和の役所を見る』


『本日、東京にて再会』


 並べてみると、何だか妙なことになっている。


 数日前までは、いつもどおり客の身体を診ていただけだった。それが、たまたま訪ねてきた男の話から県庁のことが気になり始め、浦和へ行き、とうとう東京まで探しに行ってしまった。


 改めて書くと、本当に何してんだ、俺。


 勇吉は苦笑しながら筆を動かした。


『仕事は言わず』


『蕨のことを知っている様子』


 少し考えて、


『何で知ってるか分からず』


 と書き足した。


 榊原のことは、まだほとんど分からない。


 ただ、あの男が県庁の話を聞かれた時に見せた表情と、建物だけあっても役所は動かないという言葉は、妙に頭に残っている。


 勇吉は筆を止め、昼間の東京を思い出した。


 行き交う人々の足音、役所の周りを忙しそうに歩く男たち、道を行く荷車。


 そして、榊原の歩き方。


 蕨で診た時よりずっと良くなっていたが、まだわずかに残っていた癖を思い出すと、次に会うことがあれば、もう少し調整してやりたいと思った。


 県庁の話はともかく、あの腰はまだ良くなる。


 そこまで考えて、勇吉は小さく笑った。


 結局、俺はそっちの方が気になるんだな。


 最後にもう一つ、帳面へ書き足す。


『帰って酒飲む』


 これでいい。


 勇吉は帳面を閉じた。


 明日は普通に仕事をして、客の身体を診て、終わったら酒を飲む。


 県庁の話は加兵衛や清兵衛たちが進めてくれるだろう。自分に出来ることがあれば手伝ってもいいが、だからといって毎日東京まで歩かされるのは勘弁してほしい。


 榊原だって、また来るかどうか分からない。


 それでも、みんながあれだけ楽しそうに話しているのだから、蕨に何か面白いことが起きるかもしれない。


 そう思うと、少しだけ先が楽しみでもあった。


 数日前の浦和行きに続いて、今日は東京まで歩き回った。さすがに身体も疲れている。


 布団へ入ると、昼間の人混みや岡田家での話し声が、頭の中でぼんやりと浮かんでは消えていった。


 加兵衛の「何もしなければ来ない」という言葉も、まだ少し気になっている。


 だが、それを考えるのは明日でもいいだろう。


 勇吉は寝返りを打ち、目を閉じた。


 明日は普通の日でいい。


 というか、普通の日にしてくれ。


***

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