第十六話 普通の日
翌朝、勇吉はいつもより少し遅く目を覚ました。
障子の向こうはもうすっかり明るくなっている。しばらく布団の中から眺めていたが、頭は痛くないし、気持ちも悪くない。
よし、酒は残ってない。
身体を起こして首を回し、ついでに腰をひねって脚も伸ばしてみる。昨日は東京まで歩き回ったせいで少し重さが残っているものの、このくらいなら仕事には何の支障もなさそうだった。
「今日は普通に仕事するからな」
誰に言うでもなく口にすると、隣の部屋からすぐに妻の声が返ってきた。
「毎日そうして」
「してるだろ」
「この前は夜まで岡田さんのところ」
「話があったからな」
「昨日は東京」
「連れていかれたんだよ」
「帰ってきたら、また岡田さんのところ」
着物へ腕を通しかけたまま、勇吉はここ数日のことを思い返した。
確かに、まともに仕事をしていない気がする。
「……今日はするよ」
「そうして」
何か負けた気がした。
店へ出て表の戸を開け、『揉み 骨つぎ 灸』と書かれた看板をいつもの場所へ出すと、それだけで少し落ち着いた。
土地がどうとか県庁がどうとか、岩槻だ浦和だ東京だと言われても、勇吉にはまだ分からないことが多い。それでも、痛いと言って訪ねてきた人間の身体を見れば、自分が何をすればいいのかはだいたい見当がつく。
やっぱり俺はこっちだな。
朝一番に来たのは、近所に住む五十過ぎの女だった。戸を開けて入ってきた時から左腕をほとんど振っていない。
「勇吉さん、肩が上がらないんだけど」
「どっち?」
「左」
「だろうな」
「見ただけで分かるの?」
「左だけ動いてねえもん」
「じゃあ左揉んでよ」
「まだ決めてねえよ」
「左が痛いって言ってるじゃない」
「痛いところが悪いとは限らねえんだよ」
座らせて肩へ触れると、確かに左の動きは悪い。ただ、いつものように肩だけでなく背中から腰まで動きを確かめていくと、身体をひねった時に片側だけうまくついてこない。
「昨日、何か重いもの運んだ?」
「何で?」
「いいから。運んだ?」
女はしばらく考えていたが、やがて「ああ」と声を上げた。
「あら、米の入ったのを運んだわ」
「それかもしれねえな」
「でも腰は痛くないのよ」
「腰が痛いとは言ってねえだろ」
「肩が痛いのに腰も診るの?」
「身体はつながってるからな。肩だけ動かしてるつもりでも、背中や腰も一緒に動いてるんだよ」
勇吉はそう説明しながら、腰から背中の動きを確かめ、引っかかっているところを少しずつ緩めていった。
女は時々不思議そうな顔をしていたが、勇吉が身体の向きを変えるように言うと、素直に従った。
しばらくして立たせ、もう一度腕を上げてもらう。
女はさっき痛みが出たところを覚えているのか、恐る恐る左腕を上げ、途中で一度止めた。
「あれ?」
「もうちょい」
そこからさらに腕を上げると、今度は頭の上まで伸びた。
「あれ、上がる」
「だろ」
女は何度か腕を動かしてから、不思議そうに自分の肩へ触れた。
「肩、あんまり触ってないじゃない」
「だから肩だけじゃねえって言ったろ」
「不思議ねえ」
「まあ、俺も全部分かってるわけじゃねえよ」
「勇吉さんでも分からないの?」
「身体なんか全部分かったら苦労しねえよ」
腕の動きは来た時よりずっと自然になっている。まだ少し硬さは残っているが、ひとまず動かしやすくはなったようだった。
「今日は重いもの持つなよ」
「今日も運ばなきゃいけないのよ」
「じゃあ無理すんな。誰かに手伝ってもらえよ」
「そう簡単にいかないのよ」
「そりゃそうだろうけど、また痛くなったら困るだろ」
女は困ったように勇吉を見たが、最後には口元を緩めて帰っていった。
勇吉はその後ろ姿を見送り、軽く肩を回した。
やっぱりこれだ。こういうことだよ。
身体のことだって分からないことは山ほどある。それでも、今の自分に出来ることがある。
少なくとも、県庁の行方を考えるよりは、ずっと慣れた仕事だった。
ところが次に来た男は、腰を診てもらいながら県庁の話を始めた。
「おう勇吉、役所が蕨へ来るって本当か?」
「知らねえよ。なんで俺に聞くんだよ」
男をうつ伏せにして腰の具合を確かめながら答えたが、そんな勇吉の気持ちなど関係ないらしい。
「でも岡田さんとこで話してるんだろ?」
「何で知ってんの?」
「そこで聞いた」
「誰にだよ?」
「誰だったかな。みんなが言ってるよ」
まだ昨日の夜に話していたことなのに、もう宿場の中では噂になっているらしい。
東京どころか、蕨の中でも全然止まってねえじゃねえか。
「まだ何も決まってねえよ」
「もしかしたら土地の値も上がるかな」
腰へ当てていた勇吉の手が止まった。
昨日から何度聞いたか分からない。
「なんだよ、お前もかよ」
「何が?」
「最近みんな土地の話しかしねえんだよ」
「上がるなら今のうちに買った方がいいだろ」
「清兵衛みたいなこと言うなよ」
「清兵衛も言ってるのか?」
しまった。
余計なこと言った。
男が興味を持ったのか、寝たまま顔をこちらへ向けようとしたので、勇吉は肩へ手を添えて元の向きへ戻した。
「動くなって」
「清兵衛、土地買ってんのか?」
「俺は知らねえよ」
「どの辺?」
「知らねえって」
「勇吉は買わないのか?」
「買わねえよ」
「何で?」
「土地買ったら酒飲む金が減るだろ。土地じゃ酒は飲めねえよ」
男はぴたりと動かなくなった。
「……酒と比べてんのか?」
「そうだよ。悪いかよ」
「いや、勇吉ならそうだろうなと思って」
何だよ、その納得の仕方。
そのまま腰を診ながら聞いていると、どうやら宿場の中ではすでに色々な噂が出始めているらしい。
県庁が蕨へ来るだの、岡田家が土地を集めているだの、東京から役人が見に来ただの、しまいには浦和から役所そのものを持ってくるだの、勇吉が初めて聞く話まで混ざっている。
「待て待て。東京から役人が見に来たって誰だよ」
「なんだ、知らないのか?」
「知らねえよ」
「勇吉が診たんだろ?」
また手が止まった。
「えっ……腰の奴?」
「ほら、やっぱり知ってるじゃねえか」
「いや、あいつ役人かどうか知らねえよ」
「でも東京から来たんだろ」
「そんなことは言ってたな」
「東京でも会ったんだろ」
「ああ、会ったよ」
「じゃあ役人じゃないのか?」
「だから知らねえって」
つい昨日まで何者か分からなかった榊原敬之助が、もう蕨では東京から来た役人になっている。
違うとも言い切れないのが余計に厄介だった。
「いいか、決まった話みたいに言うなよ」
男は顔だけ少し横へ向けた。
「無理だな。もうみんな知ってるぞ」
「嘘だろ! 何でだよ!」
男が堪えきれずに身体を揺らし始めたせいで、勇吉の手までずれた。
「だから動くなって!」
普通の日にするはずだった。
まだ昼にもなっていない。
◇
昼になる頃には何人か診た。
肩に腰、膝と来る客はいつもと変わらないのに、今日は誰かしら県庁の話を持ってくる。
「岩槻じゃなくて蕨になるんだって?」
「知らねえ」
「岡田さんが役人呼ぶって」
「だから知らねえって」
「勇吉が東京行ったって聞いたぞ」
「それは本当」
「県庁の話をしにか?」
「違う。俺がそんな話するわけねえだろ」
「そんじゃあ何しに東京行ったんだよ?」
「腰探しに」
「何だそれ」
俺もそう思う。
昼飯を食べる頃には、県庁という言葉を聞くのも嫌になっていた。
ようやく仕事の手を止めて座り、妻が出してくれた飯へ目を落としたところで、勇吉の動きも止まった。
焼いた魚に汁物、煮たもの。
そして小皿に胡瓜。
「……何でいるんだよ」
「何が?」
妻は勇吉の視線を追い、その先にある小皿を見た。
「胡瓜?」
「昨日東京まで行って疲れて帰ってきた人間に出すものじゃねえだろ」
「じゃあ何ならいいの?」
「魚とか」
「目の前にあるでしょ」
「そういうことじゃねえんだよ」
妻はもう相手にする気もないらしく、自分の飯を食べ始めた。
勇吉は胡瓜の小皿をなるべく自分から離れた場所へ押しやり、魚を口へ運んだ。
やっと静かになった。
朝から客に県庁の話ばかりされていたせいで、飯くらいは何も考えずに食いたい。
そう思ったところで、表から大きな声がした。
「勇吉いるか!」
聞き覚えがある。
というか、聞き間違えるはずがない。
清兵衛だ。
勇吉は魚を口へ入れたまま動きを止め、何も聞こえなかったことにしようとしたが、向かいに座っている妻がこちらを見る。
「呼んでるわよ」
「言われなくても聞こえてる」
「行かないの?」
「飯食ってるから行かねえ」
「急ぎじゃない?」
「清兵衛が来る時は大体ろくなことじゃねえんだよ」
すると、狙ったようにまた表から声が飛んできた。
「勇吉!」
「うるせえな!」
仕方なく立ち上がり、口の中の魚を飲み込んで表へ出る。
そこにいたのは清兵衛だけではなかった。
宗助までいる。
嫌な組み合わせだ。
「何だよ」
「聞いたか?」
「だから何をだよ!」
「土地の話」
勇吉は何も言わず、そのまま戸を閉めようとした。
「待て待て!」
清兵衛が慌てて手を差し入れる。
「何で閉めるんだよ」
「俺、飯食ってんの」
「大事な話だ」
「俺の飯も大事なんだよ」
「すぐ終わるから聞け」
その言葉は信用しない。
ここ数日、こいつらの「ちょっと」だの「すぐ」だのは、全然ちょっとでもすぐでもなかった。
「ここで言えよ」
「権蔵が話した地主の一人が、話を聞いてもいいって言ってる」
「良かったじゃん」
「だろ! じゃあ行くぞ」
「何で俺が?」
「お前も来い」
「だから何でだよ?」
勇吉が聞き返すと、清兵衛と宗助が一瞬だけ顔を見合わせた。
ほら。
理由ねえじゃねえか。
「じゃあ俺いらないだろ」
「いや……」
清兵衛はそこで初めて考え始めたらしく、しばらく勇吉を見てから言った。
「お前がいると話が柔らかくなる」
「お前それ絶対今考えただろ」
隣で宗助が顔を背けた。肩が少し揺れている。
「笑ってんじゃねえよ」
「いや、でも間違ってないかもしれんぞ」
「何が?」
「お前、県庁のこと何も分かってないからな」
「お前ら馬鹿にしてんのか?」
「相手も警戒しないだろ」
「もっと馬鹿にしてんじゃねえか!」
とうとう二人とも笑い出した。
勇吉だけ笑えない。
「俺、仕事あるから行かねえよ」
「午後は?」
「客来るかもしれねえだろ」
「今いるのか?」
「今はいないけどな」
「じゃあ行けるな」
「何でそうなるんだよ」
もう勇吉が来るものと決めたらしく、清兵衛は勝手に話を進める。
「すぐ近くだから」
「すぐってどこだよ?」
「宿の北側」
「どのくらい?」
「話するだけだ」
「時間聞いてんだよ」
「大丈夫だ。そんなにかからん」
怪しい。
勇吉は家の中を振り返った。
まだ魚が残っているし、飯も途中だ。その向こうには手をつけていない胡瓜もある。
いや、胡瓜はどうでもいい。
「飯食ってからでいい?」
「分かったから。早く食ってこい」
「お前に言われたくねえよ」
家へ戻ると、妻は何も聞かずに勇吉の顔を見た。
「また出掛けるの?」
「ちょっとだけな」
「今日は普通に仕事するって言ってなかった?」
朝、自分で言った言葉を思い出した。
まだ半日も経っていない。
「……仕事みたいなもんだよ」
「何の?」
答えようとして、勇吉は口を閉じた。
何の仕事なんだろう。
妻はそれ以上聞かず、まだ残っている魚を指した。
「冷めるよ」
勇吉は座り直し、急いで飯を食べ始めた。
この前は飯を食おうとしたら榊原が来て、昨日は東京で飯を食ったと思ったら榊原を探し、今日は昼飯の途中で清兵衛が来た。
何か最近、ちゃんと飯食えてねえな。
ふと小皿を見る。
胡瓜だけが、最初とまったく同じ姿で残っていた。
それだけは今日も変わらなかった。
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