第十七話 地主と膝
清兵衛と宗助に連れていかれたのは、蕨宿の北側に土地を持つ男の家だった。
六十を少し越えたくらいで、昔からこの辺りに田畑を持っている男だから、勇吉も顔くらいは知っている。
出てきた男は年の割には身体もしっかりしていて、背中もそれほど丸くない。ただ歩いてくるのを見た瞬間、勇吉には別のところが気になった。
右膝だな。
右足へ体重を乗せる時間が左より短い。本人は普通に歩いているつもりでも、勇吉にはそれだけで十分だった。
清兵衛が挨拶をしている間も、勇吉は話より男の足を見ていた。
「……おい」
肘の辺りを軽く突かれて、ようやく清兵衛を見る。
「ん? 何?」
「ちゃんと話聞いてるか」
「おう、聞いてるよ」
「どこ見てんだ」
「膝」
清兵衛は男の顔から勇吉の視線の先へ目を移し、また勇吉へ戻した。
「今日は腰じゃねえのか」
「膝」
「もういい」
二人のやり取りを聞いていた男が、不思議そうに眉を寄せた。
「何の話だ?」
「いや、こっちの話です」
清兵衛はすぐに話を戻した。
県庁が蕨へ来ると決まったわけではない。それでも、役所を置く話が出た時にこちらから使える土地や建物を示せるようにしておきたい。今すぐ売れという話ではなく、まず話を聞いてほしい。
清兵衛は一つずつ順を追って説明していく。
勇吉はその横で聞きながら、少し感心していた。
清兵衛、ちゃんと話せるんだな。
酒を飲んでいる時とは全然違う。
男は途中で口を挟まず最後まで聞いたが、清兵衛が話し終えてもすぐには答えなかった。
「県庁が蕨に来るなんて、本当にあるのか?」
「まだ分かりません」
清兵衛は迷わず答えた。
勇吉は横からその顔を見た。もっと「来る」と言うのかと思っていた。
「分からんのに土地を出せと言うのか」
「出せとは言ってません。使える土地があるか、今はそれを調べているだけです」
男は清兵衛をじっと見たまま、さらに聞く。
「もし来なかったら?」
「今の話では、何も決まりません」
「じゃあ来たら?」
「町は変わるでしょう。ただ、どう変わるかは、まだ分かりません」
ずいぶん正直だな。
勇吉がそんなことを考えていると、それまで清兵衛へ向いていた男の顔がこちらへ動いた。
「勇吉はどう思う」
「俺?」
急に振るなよ。
清兵衛を見る。
何も言わずこちらを見返している。
助けろよ。
「県庁が来ると思うか?」
分からない。
勇吉は県庁がどうやって決まるのかも知らないし、浦和へ行って東京へ行って、ようやく本当にそういう話が動いているらしいと分かった程度だ。
分からないものを分かったように言うのは嫌だった。
「知らねえ」
清兵衛が小さく息を吐いたのが聞こえた。
ところが男の方は怒るでもなく、少しだけ口元を緩めた。
「知らんか」
「だって誰も決めてねえんだろ?」
「まあ、そうだな」
「でも浦和見たら役所あったし、東京行ったら本当に浦和とか岩槻の話してる奴いたから、話自体は嘘じゃねえと思う」
男の口元から笑いが消えた。
勇吉は別に説得するつもりもなかったので、そのまま思っていることを続けた。
「蕨に来るかは知らねえよ。でも加兵衛たちは本気みたいだぞ。清兵衛なんか最近土地の話しかしねえし」
「余計なこと言うな」
「本当だろ」
男は清兵衛を見て、それから勇吉へ戻ると、今度は声を出して笑った。
「勇吉、本当にお前は変わらんな」
「何が?」
「昔からだ。お前は人の話は半分しか聞いてねえくせに、身体のことになると急に真面目になる」
「ちゃんと聞いてるよ」
「今も俺の話より膝見てただろ」
ばれてた。
「だって痛そうじゃねえか」
男が身体の向きを変えた時にも、やっぱり右膝を庇っている。
もう気になってしょうがない。
「膝痛いだろ」
男の動きが止まり、自分の右膝を見てから勇吉へ顔を戻した。
「何で分かった。仕事だけはさすがだな」
「見りゃ分かるよ。あと仕事だけって失礼だぞ」
清兵衛は持っていた紙を一度膝の上へ置き、額へ手をやった。
「また始まった」
「何だよ」
「土地の話しに来たんだぞ」
「でも膝痛そうじゃねえか」
男はそんな二人を面白そうに見比べてから、右膝へ手を置いた。
「昨日から少しな」
「ちょっと座ってみ」
「ここでか?」
「別にいいだろ」
「勇吉」
「何だよ」
「お前、何しに来たんだ」
「俺も分かんねえよ」
それは本当だった。
男が笑いながら腰を下ろしたので、勇吉もその前へしゃがみ込んだ。
結局、土地の話はそこで一度止まった。
勇吉は膝へ触れ、曲げ伸ばしをしてもらいながら、どの動きで痛むのかを確かめた。右膝だけでなく、足首や股関節の動きも見ていくと、男は途中で何度か不思議そうな顔をした。
「膝が痛いんだが」
「分かってるよ。だから脚も見てんだ」
「さっきの県庁みたいな話だな」
「何が?」
「土地だけあればいいってもんじゃないんだろ」
男がそう言うと、清兵衛が顔を上げた。
勇吉は少し考えてから笑った。
「そうかもしれねえな」
身体のことなら分かる。
痛みのある場所だけを見ていても、原因が別のところにあることは珍しくない。右膝へ負担がかかっているなら、どうしてそこへ負担が集まるのかを確かめる必要がある。
勇吉は男の脚の動きを見ながら、無理のない範囲で少しずつ身体を緩めていった。
清兵衛は紙を膝に置いたまま待ち、宗助は少し離れたところで口元を押さえている。土地の持ち主本人も、今は県庁より自分の膝の方が気になるらしい。
何しに来たんだ俺たち。
ひと通り身体を動かしたところで、勇吉は男を立たせた。
「もう一回歩いてみ」
男は半信半疑のまま右足へ体重を乗せ、一歩、もう一歩と歩いていく。
さっきより右足へ素直に重さが乗っていた。
「さっきよりいいな」
「だろ」
男は何度か膝を曲げ伸ばしし、不思議そうに右脚を見る。
「不思議なもんだ」
「今日は無理すんなよ。また痛むようなら、うちに来いよ」
「分かったよ」
男はもう一度膝を動かしてから、横へ置かれた清兵衛の紙を見た。
「土地の話だったな」
やっと戻った。
清兵衛も同じことを思ったらしく、すぐに紙を持ち直した。
「はい」
男はしばらく紙を眺めていたが、さっきまでとは違って今度はすぐに話し始めた。
「先に言っとくが、膝を楽にしてもらったから土地をどうこうする気はないぞ」
勇吉は思わず男の顔を見た。
「当たり前だろ。膝と土地一緒にすんなよ」
「お前が言うな」
すかさず清兵衛に返され、勇吉はそちらを見た。
「何でだよ」
男がまた口元を緩めたが、今度は膝ではなく清兵衛へ向き直る。
「売るとは言えん」
「分かってます」
「ただ、話を聞くくらいなら構わん。岡田さんにもそう伝えてくれ」
清兵衛の表情がほんの少しだけ変わった。
大喜びするわけでもなく、ただ持っていた紙をきちんと膝の上へ置き直して頭を下げる。
「ありがとうございます」
「まだ何も決めてないぞ」
「それで十分です」
男は頷き、勇吉へ目を向けた。
「お前が一緒に来たから、何か面白い話でもあるのかと思ってな。まさか膝を診てもらうとは思わなかったが」
「俺だって思わなかったよ」
「だろうな」
男は笑ったあと、清兵衛の紙へもう一度目を落とした。
「県庁の話は、もう少し聞いてみたい。蕨がどうなるのか、気にならんわけでもないからな」
勇吉はその言葉を聞きながら、少しだけ嬉しくなった。
清兵衛たちの話を、面白がる人間が一人増えた。
それだけでも、来た甲斐はあったのかもしれない。
◇
帰り道、勇吉は清兵衛の横へ並んだ。
「さっきの話上手くいったの?」
「まあな」
「俺いらなかっただろ」
清兵衛はすぐには答えず、歩きながら何か考えている。
「いや」
「何?」
「お前、いた方がいいかもしれん」
勇吉は横から清兵衛の顔を見た。
嫌な予感がする。
「何で?」
「分からん」
「分かんねえのかよ」
後ろを歩いていた宗助が、二人のやり取りを聞きながら口を挟んだ。
「膝を楽にしたからじゃねえか?」
「治してねえよ。少し楽にしただけ」
「同じだろ」
「全然違うぞ」
清兵衛はまだ何か考えているらしく、前を見たまま言った。
「土地の話だけなら、もっと固い話になってたかもしれん」
「そうなの?」
「分からん」
「またかよ」
「でも、お前が余計なことしてるうちに話しやすくなった」
「余計なことって何だよ」
「膝」
「金貰ってねえけど仕事だろ」
「だから仕事じゃねえだろ」
また同じ話になった。
勇吉は少し考えたが、結局まあいいかと思った。
土地の話は清兵衛がする。旅籠や人のことは宗助が見て、加兵衛が話をまとめ、権蔵が人をつなぐ。
自分は身体を見る。
それなら分かる。
県庁のことは相変わらずよく分からないが、膝なら分かる。
「じゃあ次も膝悪い奴のところにしろよ」
清兵衛が足を止め、何を言い出すんだという顔で勇吉を見た。
「何でだよ」
「俺も役に立つだろ」
「そういう話じゃねえよ」
「腰でもいいぞ」
「地主を身体で選ぶな!」
後ろで宗助が堪えきれずに笑い、勇吉もつられて笑った。
県庁の話をしているはずなのに、結局自分に分かるのは腰だの膝だの、それくらいだった。
それでも今日ばかりは、その腰や膝が少しは役に立ったらしい。
東京まで知らない男の腰を探しに行くより、よほど自分らしい仕事だった。
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