第十八話 桜屋の夜
地主の家から戻ったあと、勇吉はようやく店での仕事に戻ることができた。
午後には腰を痛めた男が一人、夕方には肩の張りを訴える女が訪ねてきたが、どちらも県庁の話を持ち出さなかった。
勇吉はそれだけで、少し嬉しくなった。
ようやく普通の客だ。
もっとも、身体を診ている最中にそんなことを考えるのもどうかと思ったが、ここ数日は誰に会っても県庁の話ばかりだったのだから仕方がない。
最後の客を見送り、表の看板を片づける頃には、宿場の空もすっかり夕暮れの色に変わっていた。
中山道を行く旅人の数も少なくなり、店先では夕飯の支度を始める家が増えている。どこからか魚を焼く匂いが漂ってきて、勇吉は急に腹が減ってきた。
そういえば、昨日は桜屋へ寄れなかった。
お咲が魚を用意しておくと言っていたのに、東京から戻ったあとは岡田家へ連れていかれ、そのまま遅くまで飲んでしまった。
悪いことしたな。
そこまで考えたところで、勇吉は別のことを思い出した。
そうだ。
権蔵だ。
東京へ行く前、あの男は確かに言った。
――帰ってきたら桜屋で一杯飲ませてやるよ。
勇吉は思わず笑った。
東京まで行って、知らない男の腰を探し、県庁の話まで聞いてきたのだから、約束を果たしてもらっても罰は当たらないだろう。
それに、あの時の権蔵の言い方なら、一杯だけで終わるとも思えなかった。
よし。
今日は桜屋だ。
勇吉は家へ戻り、妻へ声をかけた。
「ちょっと桜屋行ってくる」
妻は夕飯の支度をしながら振り返った。
「また飲みに行くの?」
「今日は権蔵のおごりなんだよ」
「あら、珍しい」
「東京行ったら飲ませてくれるって約束したんだ」
「それで東京まで行ったの?」
「違うよ!」
妻は笑いながら、手元の支度へ戻った。
「飲みすぎないでね」
「分かってるよ」
「昨日もそう言ってたわよ」
「昨日は昨日だろ」
「今日は?」
「今日は権蔵のおごり」
「答えになってないわよ」
勇吉は返事に困り、聞こえなかったことにして家を出た。
◇
桜屋の前まで来ると、暖簾の向こうから賑やかな声が聞こえてきた。
戸を開けると、酒の匂いと焼き魚の香りが一緒に流れてくる。奥では源次郎が忙しそうに料理をしており、座敷では何人かの常連がすでに杯を傾けていた。
「あら、勇吉さん。いらっしゃい」
お咲が顔を上げた。
「昨日は来られなかったのね」
「悪いな。東京から帰ったら捕まっちまってさ」
「聞いたわよ。岡田さんのところで遅くまで話してたんでしょう?」
「何でみんな知ってんだよ」
「蕨は狭いもの」
お咲は楽しそうに笑いながら、空いている席を示した。
「今日はゆっくりできるの?」
「そのつもり。あと、権蔵来てる?」
「権蔵さん? まだ見てないわね」
「そうか」
権蔵も桜屋にはよく顔を出す。今日もそのうち来るだろうと、勇吉は勝手に決めていた。
空いている席へ腰を下ろし、お咲を呼ぶ。
「じゃあ、先に酒もらおうかな」
「はいはい。いつものね」
お咲が酒を用意し始めたところで、勇吉は大切なことを思い出した。
「あ、そうだ」
「どうしたの?」
「今日は権蔵のおごりだから」
お咲の手が止まった。
「……権蔵さんの?」
「そう」
「権蔵さん、まだ来てないわよ」
「そのうち来るだろ」
「本当におごるって言ったの?」
「言ったよ。東京から帰ってきたら桜屋で飲ませてやるって」
お咲は少し考えたあと、口元を緩めた。
「じゃあ、来たら確かめましょうね」
「信用してねえな」
「勇吉さんの話は信用してるわよ」
「じゃあいいだろ」
「権蔵さんのお財布の方が心配なの」
近くに座っていた常連が吹き出した。
勇吉は何か言い返そうとしたが、ちょうど酒が運ばれてきたので、そちらへ気持ちが移った。
まずは一杯。
口へ含むと、ようやく一日が終わった気がした。
朝から客に県庁の話を聞かれ、昼飯の途中で清兵衛たちに連れ出され、地主の膝まで診ることになった。
普通の日にするつもりだったのに、結局いつもとは少し違う一日だった。
それでも、こうして酒を飲めるなら悪くない。
「勇吉さん、魚も食べる?」
お咲に聞かれ、勇吉はすぐに頷いた。
「食う。昨日のやつ、まだある?」
「昨日の魚をそのまま出すわけないでしょう」
「いや、そういう意味じゃなくて」
「分かってるわよ。今日は源次郎が別の魚を仕入れてきたから、そっちを焼いてもらうわね」
「頼むよ」
奥へ声をかけるお咲を見送りながら、勇吉はもう一口酒を飲んだ。
これだよ。
これが普通の日の終わり方だ。
そう思ったところで、入口の戸が開いた。
「おう、勇吉」
権蔵だった。
勇吉は杯を持ったまま顔を上げた。
「遅えぞ」
「何がだ」
「待ってたんだよ」
「誰が?」
「俺が」
権蔵は勇吉の前に置かれた徳利を見て、少し眉を上げた。
「もう飲んでるじゃねえか」
「待ってる間に飲んでたんだよ」
「それを待ってるって言うのか?」
「言うだろ」
権蔵は呆れたように笑い、勇吉の向かいへ腰を下ろした。
「で、何だ。俺に用か」
勇吉はにやりと笑った。
「お前、俺に何か忘れてねえか?」
「何を」
「桜屋」
「今いるだろ」
「そうじゃねえよ。東京へ行く前に言っただろ」
権蔵は少し考えるふりをしたあと、ああ、と声を上げた。
「一杯飲ませてやるって話か」
「そう、それ!」
「もう飲んでるじゃねえか」
「お前のおごりでな」
「誰が決めた」
「お前だよ!」
近くにいた常連が笑い始めた。
お咲も二人のやり取りを聞いていたらしく、酒を運びながら口を挟んだ。
「権蔵さん、本当におごる約束だったの?」
「ああ、そうだ」
「ほら!」
勇吉が得意そうに言うと、権蔵は笑いながら続けた。
「一杯だけな」
「またそれかよ!」
「お前の一杯は、一杯で済まねえからな」
「分かってんなら最初からそう言えよ」
権蔵はとうとう声を出して笑った。
「仕方ねえな。今日は俺が持ってやるよ」
「おっ、さすが権蔵!」
「ただし、飲みすぎるなよ」
「分かってるって」
「その返事が一番信用できねえんだよ」
お咲は笑いながら権蔵の前にも杯を置いた。
「じゃあ今日は権蔵さんにお願いするわね」
「ああ。こいつが変なもの頼まねえように見張っといてくれ」
「それは難しいわねえ」
「何でだよ」
「勇吉さん、もう魚も頼んでるもの」
権蔵が勇吉を見た。
勇吉は何も悪いことをしていない顔で酒を飲んだ。
◇
しばらくすると、源次郎が焼き魚を運んできた。
皮には程よく焼き色がつき、箸を入れると湯気と一緒に香ばしい匂いが立ち上った。
「おっ、うまそうだな」
「今日はいいのが入ったからな」
源次郎はそう言って皿を置いた。
「昨日も来るって聞いてたぞ」
「悪いな源さん。帰ってきたら岡田家に捕まっちまって」
「聞いてるよ。県庁の話だろ」
「源さんまで知ってんのか」
「店にいりゃ、嫌でも耳に入る」
源次郎は笑いながら奥へ戻っていった。
勇吉は魚を一口食べ、思わず頷いた。
「うまいな」
「そうか」
権蔵が酒を飲みながら答えた。
「お前も食う?」
「俺が払うんだろ」
「そうだったな」
「少しは遠慮しろ」
「東京まで行ったんだからいいだろ」
「まだ言うか」
勇吉は笑いながら魚を食べた。
そのうち、近くの席にいた男が話しかけてきた。
「そういや勇吉、今日も清兵衛たちと出かけたんだって?」
「何で知ってんだよ」
「見かけたんだよ。宿の北の方へ歩いてただろ」
「ああ、地主のところな」
そこまで言って、勇吉は少し考えた。
また余計なことを話すと、明日には宿場中へ広がっているかもしれない。
今朝の客の話を思い出すと、少し用心した方がよさそうだった。
「まあ、ちょっと話しに行っただけだよ」
「土地の話か?」
「そうだけど、まだ何も決まってねえぞ」
男は頷いた。
「そりゃそうだろうな。県庁なんて、本当に蕨へ来るかどうかも分からねえんだから」
勇吉は少し意外に思った。
朝から聞かされた噂は、どれも県庁が来ることを前提にしたような話ばかりだった。
「お前は来ないと思うのか?」
「さあな。ただ、来たら来たで困る奴もいるだろ」
「何で?」
「人が増えりゃ、商売は賑わうかもしれねえ。けど、土地が高くなったら困る奴だっている。畑をやってる奴は、簡単に手放したくねえだろうしな」
勇吉は箸を止めた。
そういう考えもあるのか。
清兵衛は土地の値が上がるかもしれないと楽しそうに話していたが、土地を持っている者が全員喜ぶとは限らない。
今日会った地主だって、話を聞くとは言ったものの、売るとは一言も言わなかった。
権蔵が杯を置いた。
「だから、今は話を聞いて回ってるんだよ」
「権蔵も動いてるのか?」
男が尋ねると、権蔵は頷いた。
「昔からの知り合いが何人かいるからな。誰がどの辺りに土地を持ってるか、話くらいは聞ける」
「本気なんだな」
「まあ、面白そうだろ」
権蔵はそう言って笑った。
勇吉もつられて笑った。
清兵衛も宗助も加兵衛も、みんな同じような顔をしている。
自分たちの町がどうなるか分からないのに、ああでもないこうでもないと話しながら、少しずつ動き始めている。
勇吉はそういう賑やかさが嫌いではなかった。
ただ、土地を買うつもりは相変わらずない。
「まあ、俺は土地いらねえけどな」
勇吉が言うと、権蔵は笑った。
「清兵衛がまた勧めてきたのか」
「昨日も言われたよ」
「買っときゃいいじゃねえか」
「お前まで言うなよ。土地なんか買ったら金がなくなって飲めねえだろ」
権蔵はしばらく勇吉を見つめ、それから大きな声で笑った。
「お前は本当に変わらねえな」
「今日何回目だよ、それ」
お咲が酒を注ぎ足しながら笑った。
「勇吉さんは、そのままでいいんじゃない?」
「ほら、お咲もそう言ってるぞ」
「でも、飲みすぎるのは駄目よ」
「そこは余計だろ」
また笑いが起きた。
勇吉は杯を持ち上げ、権蔵と軽く合わせた。
酒はうまいし、魚もうまい。
権蔵のおごりだから、懐も痛まない。
県庁の話は相変わらずよく分からないが、清兵衛たちが楽しそうにしているのを見るのは悪くないし、今日会った地主のように、少しずつ話を聞いてくれる人間も増えている。
そう考えると、蕨がこれからどうなるのか、少し楽しみでもあった。
もっとも、それは明日考えればいい。
今日は酒だ。
「権蔵、もう一杯いいか?」
「お前、さっきから何杯飲んでると思ってんだ」
「数えてねえよ」
「俺は数えてるぞ」
「細けえなあ」
権蔵は呆れた顔をしたが、結局お咲へ声をかけた。
「もう一本持ってきてくれ」
「はいはい」
お咲が笑いながら答える。
勇吉は満足して杯を置いた。
東京まで腰を探しに行った甲斐があった。
少なくとも、今日の酒に関しては。
桜屋の外では、夜の中山道を遅い旅人が通り過ぎていく。
いつもと変わらない蕨宿の夜だった。
けれど、店の中では県庁の話をする者が増え、土地のことを尋ねる者もいて、少し前なら誰も口にしなかった町の未来が、酒の肴になっていた。
勇吉はそんな声を聞きながら、権蔵のおごりの酒をゆっくりと飲んだ。
普通の日ではなかった。
それでも、悪くない一日だった。
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