第十九話 勝手に動く町① 馬十頭の置き場所
翌朝、勇吉が店の戸を開けると、中山道はいつもと変わらない賑わいを見せていた。
荷を積んだ馬が通り、旅人が宿を出ていく。向かいの家では朝飯の支度をしているらしく、炊きたての飯の匂いが風に乗って流れてきた。
ただ、道の向こうで何やら話し込んでいる男たちがいる。
昨日も見かけた顔だった。
桜屋で県庁の話をしていた連中の一人が、別の男を連れて道幅を確かめるように歩いている。少し先では、空き地の前に立った二人が、何かを指さしながら話していた。
朝っぱらから何やってんだ。
勇吉はしばらく眺めていたが、客が来る前に支度を済ませようと店へ戻った。
昨夜は権蔵のおごりで随分と飲ませてもらった。
魚もうまかったし、酒も十分だった。権蔵には何度か「もう終わりだ」と言われたが、結局もう一本頼んでくれたのだから、あの男もなかなか気前がいい。
もっとも、帰ってから妻に何か言われた気もする。
そこはあまり思い出さないことにした。
朝一番に来たのは、近所に住む荷運びの男だった。
「おう勇吉、腰頼むわ」
「またかよ。今度は何運んだんだ?」
「米俵だよ」
「いつもじゃねえか」
「いつもより重かったんだよ」
男はそう言いながら腰を押さえ、敷いた布団へうつ伏せになった。勇吉が背中から腰へ手を当てると、片側だけ妙に張っている。
「そこ、もう少し右だ」
「ここか?」
「もうちょい下……ああ、そこだ。そこが痛え」
「痛えところ押してんだから痛えだろ」
「もうちょっと優しく出来ねえのか」
「出来るよ」
「じゃあやれよ」
「最初に強い方がいいって言ったのお前だろ」
男が黙ったので少し力を抜き、腰だけでなく背中から脚まで動きを確かめていく。右の腰が痛いと言っているが、左側の動きもあまりよくない。荷を担ぐ時、いつも同じ側へ重さをかけているのだろう。
「お前、俵担ぐ時いつも右肩か?」
「そうだけど、何で?」
「たまには反対も使えよ。身体が片っぽに寄ってるぞ」
「左じゃ担ぎにくいんだよ」
「じゃあ少しずつ慣らせ。今のままだと、また同じところ痛くするぞ」
男は返事をしなかったが、勇吉が身体の向きを変えるように言うと素直に従った。
その時、開けた戸の向こうから声が聞こえてきた。
「馬なら裏へ入れられるだろ」
「いや、あそこじゃ狭い」
勇吉は手を動かしながら、ちらりと外へ目を向けた。
また馬の話だ。
昨日まで誰も気にしていなかった場所を、朝からあちこちで調べているらしい。
「なあ勇吉」
「何だよ」
「本当に県庁来るのか?」
「知らねえよ」
「岡田さんとこで話してるんだろ?」
「話してるけど、まだ何も決まってねえぞ」
「でもお前、最近よく岡田さんとこ行ってるじゃねえか」
「酒が出る時にな」
そう言ってから、ここ数日のことを思い返した。
岡田家で飲み、浦和へ行き、東京へ行った。帰ってきたらまた岡田家へ寄り、昨日は地主のところまで連れていかれた。
その夜は桜屋で権蔵と飲んだ。
酒が出るところへ行っているのか、行った先で酒を飲んでいるのか、最近は自分でもよく分からない。
「何だよ、黙って」
「ちょっと考えてた」
「何を?」
「最近、飲みすぎかなって」
「今さらかよ」
男が吹き出して身体を揺らしたので、勇吉は腰へ当てていた手を離した。
「おい、動くなって」
「勇吉が変なこと言うからだろ」
「俺は真面目に考えてんだよ」
「酒のことをか?」
「そうだよ」
「仕事中に考えることじゃねえだろ」
それもそうだった。
勇吉は男の腰へ手を戻し、残っている張りを確かめながら施術を続けた。
ひと通り終えて立たせると、男は何度か腰を曲げ伸ばししてから満足そうに頷いた。
「おお、楽になった。ありがとな」
「今日は重いもの持つなよ」
「無理だな」
「じゃあ、せめて無茶すんな。また痛くなったら来いよ」
「おう、頼むわ」
男を見送って表へ出ると、さっき道幅を調べていた二人はもういなかった。
代わりに、少し離れた空き地の前で別の男たちが腕を組んでいる。
あいつらには、一体何が見えているんだろう。
勇吉には、ただの空き地にしか見えない。
「おーい、勇吉」
声のした方を見ると、宗助が道の向こうから歩いてきた。
後ろには男が二人ついている。一人は旅籠を営む顔見知りで、もう一人は馬を扱う仕事をしている男だった。
「何だよ、朝から」
「ちょっと聞きたいことがあるんだ」
「腰か?」
「違う」
「じゃあ何?」
「この辺で、馬を十頭くらい置ける場所を知らないか?」
「馬?」
勇吉は思わず宗助の顔を見た。
「何で俺に聞くんだよ。宗助たちの方が詳しいだろ」
「この辺はお前もよく歩いてるだろ。何か知らないかと思ってな」
「歩いてるけど、馬を置く場所なんか探して歩いてねえよ」
後ろの二人が顔を見合わせた。
宗助の話では、もし役所が蕨に置かれるようなことになれば、役人だけでなく荷物を運ぶ人間も増える。宿へ泊まる者が増えれば、馬をつなぐ場所や荷を置く場所も必要になるという。
「県庁って大変だな」
「今さら何言ってんだ」
「だってよ、役人が何人か来るだけかと思ってたから」
「役人だけが歩いて来るわけじゃないからな」
「歩いてくればいいじゃん」
宗助は何か言い返そうとして口を開いたが、途中でやめた。
「こいつに聞いた俺が悪かった」
「何だよ、その言い方。感じ悪いぞ」
「じゃあ馬十頭置ける場所を考えてくれ」
「知らねえよ」
「だから俺が悪かったって言ってんだよ」
宗助の後ろで二人が笑った。
何となく腹が立ったので、そのまま行かせてやろうと思ったが、三人の背中を眺めているうちに、ふと宿場の北側にある空き地のことを思い出した。
「そういや、昔、馬つないでたところがあっただろ」
宗助が足を止めた。
「どこだ?」
「北の方だよ。昨日行った地主の家より、もう少し向こう」
「……ああ」
「子供の頃、あそこに馬が何頭もいたの覚えてるぞ。今は使ってねえんじゃないか?」
宗助はしばらく考えてから、後ろの二人へ振り返った。
「そういや、あそこがあったな」
「どの辺りです?」
「ちょっと見に行ってみよう」
三人はその場で話し始め、やがて揃って北へ向かって歩き出した。
「おい」
勇吉が呼んでも、宗助は振り返らない。
「聞くだけ聞いて、礼もなしかよ」
ようやく宗助が振り向いた。
「ああ、助かった。ありがとな!」
「遅えよ!」
宗助は笑いながら片手を上げ、そのまま行ってしまった。
勇吉はしばらく三人の後ろ姿を眺めていた。
昔、馬がつながれていた場所も、今では誰も使っていない空き地だ。勇吉にはそれ以上のものに見えなかったが、宗助たちは使えるかどうかを確かめるために、わざわざ三人で見に行くという。
そう考えると、少し面白かった。
昨日の桜屋でも、権蔵たちは土地や道の話をしていた。あの時は酒を飲みながら聞いていただけだが、こうして朝から歩き回っているところを見ると、本当に何かを始めるつもりなのだろう。
もっとも、県庁が来ると決まったわけではない。
来なかったらどうするんだろう。
そこまで考えたところで、勇吉は首を振った。
まあ、それは宗助たちが考えることだ。
自分には自分の仕事がある。
店へ戻ろうとすると、向かいの家の主人が声をかけてきた。
「勇吉、今の宗助たちか?」
「そうだよ」
「何しに来たんだ?」
「馬置く場所探してた」
「馬?」
「十頭くらいだって」
主人は少し考えてから、家の裏へ目を向けた。
「それなら、うちの裏も昔は馬を入れてたぞ」
「そうなの?」
「ああ。今は物を置いてるがな」
「へえ」
「宗助に言っといてくれ」
「自分で言えよ」
「お前、さっき話してたじゃねえか」
「もう行っちゃったよ」
主人は笑いながら家へ戻っていったが、勇吉はその背中を見送りながら、もう一度家の裏へ目を向けた。
確かに、子供の頃はあそこにも馬がいたような気がする。今は物が積まれていて狭そうだが、片づければ何頭か入るかもしれない。
もっとも、それを決めるのは家の主人だ。
宗助に会ったら話しておこう。
勇吉はそう思いながら店へ戻った。
◇
昼前になると、今度は清兵衛がやってきた。
最近、客でもないのに店へ来る奴が増えた気がする。
「何だよ、清兵衛かよ」
「何だよじゃねえよ。俺の顔見て嫌そうにすんな」
「腰か?」
「違う」
「じゃあ帰れよ」
「お前の店は腰悪くなきゃ入っちゃいけねえのか」
「別にいいけど、清兵衛が来ると大体面倒なことになる」
「今日は大丈夫だ」
怪しい。
最近、清兵衛の「大丈夫」は一度も大丈夫だったことがない。
勇吉が黙って見ていると、清兵衛は勝手に店へ入り、空いている場所へ腰を下ろした。
「土地の値段が動き始めた」
「ふうん」
「昨日まで売る気がなかった奴が、いくらになるか聞き始めてる」
「へえ」
「宿場の北側もだ」
「そうなの?」
勇吉が少しだけ興味を示すと、清兵衛は意外そうに顔を上げた。
「何だ、今日は話を聞くんだな」
「今朝、宗助が馬置く場所探してたからさ」
「ああ、聞いてる」
「もう聞いたのかよ」
「宗助からな。お前が昔の馬置き場を教えたんだって?」
「思い出しただけだよ。それより、向かいの家の裏も昔は馬を入れてたらしいぞ」
「何だ、まだあるのか?」
「さっき聞いたんだよ。今は物置きにしてるらしいけど」
「そいつは宗助に知らせといた方がいいな」
「じゃあ頼むわ」
「お前、自分で知らせる気はねえのか」
「今ここに清兵衛がいるじゃねえか」
「……まあ、そうだけどよ」
清兵衛は呆れたように笑ったが、すぐに家の場所や裏の広さを尋ね始めた。勇吉が分かる範囲で答えると、清兵衛は何やら考え込み、あとで宗助に伝えておくと言った。
「で、土地の値段がどうしたんだ?」
「だから、動き始めたんだよ」
「県庁が来るかも分からねえのに?」
「分からねえから動く奴もいるんだよ」
「変な話だな」
「商売ってのは、そういうもんだ。決まってからじゃ遅いこともある」
清兵衛は楽しそうだった。
昨夜、桜屋で酒を飲んでいた時と同じ顔だ。ただ、今は杯の代わりに土地の話をしている。
「お前も買っとけばいいじゃねえか」
「いらねえよ」
「何でだ?」
「酒飲む金が減るだろ」
「またそれかよ」
「大事だろ」
清兵衛は呆れたように笑ったが、すぐに表情を戻した。
「まあ、今は土地を買うより、誰がどこを持ってるか調べる方が先だけどな」
「権蔵も忙しそうだな」
「ああ。昨日の地主も、話を聞くくらいならいいって言ってくれたしな」
「膝の人だろ」
「土地の持ち主だよ」
「膝悪かったじゃん」
「お前と話すと、全部身体の話になるな」
「俺の仕事だからな」
清兵衛は笑いながら立ち上がった。
「まあいい。これからまた権蔵のところへ行ってくる」
「みんな忙しいな」
「お前もそのうち忙しくなるぞ」
「何で?」
「人が増えりゃ、身体を診てもらいたい奴も増えるだろ」
勇吉は少し考えた。
確かに、そうかもしれない。役人だろうが人足だろうが、腰が痛くなる時は痛くなる。旅人が増えれば、肩を痛めたり脚を悪くしたりする者も増えるだろう。
それなら悪くない。
「今、ちょっと嬉しそうな顔したな」
「してねえよ」
「客が増えると思っただろ」
「そりゃ増えたら嬉しいよ」
「ほらな」
「何だよ。清兵衛だって商売のこと考えてるじゃねえか」
「俺は町のことも考えてるんだよ」
「俺だって考えてるぞ」
「何を?」
「……馬十頭」
清兵衛は一瞬黙り、それから声を出して笑った。
「お前、今日はそればっかりだな」
「お前らが聞いてくるからだろ」
清兵衛はまだ笑いながら表へ出た。
「じゃあな。また何か思い出したら教えてくれ」
「今度は先に何が知りたいか言えよ」
「分かった分かった」
そう言って去っていく清兵衛の背中を、勇吉はしばらく見送った。
宗助は馬の置き場所を探し、清兵衛は土地の値段を調べ、権蔵は地主たちのところを回っている。それぞれが勝手に動いているようで、どうやら同じものを見ているらしい。
県庁が本当に蕨へ来るかどうかは、まだ分からない。それでも、みんなが何を見つけてくるのか、少し楽しみになってきた。
勇吉は店の中へ戻り、次の客を迎える支度を始めた。
自分は今日も、腰を診る。それでいい。
ただ、また何か聞かれたら、知っていることくらいは教えてやろう。
そんなことを考えていたところで、表から女の声がした。
「勇吉さん、いる?」
「いるよ。どうした?」
顔を出したのは、近所で飯を出している女だった。
勇吉は反射的に女の歩き方を見たが、別にどこかを庇っている様子もない。
「どっか痛いの?」
「いいえ、今日は違うの」
「じゃあ何?」
女は少し身を乗り出して、真面目な顔で尋ねた。
「ねえ勇吉さん。役人って、何を食べるの?」
勇吉は女の顔を見つめた。
馬の次は飯かよ。
どうやら今日も、普通の日にはならないらしい。




