第二十話 勝手に動く町② 役人は何を食う
「……何だって?」
「だから、役人って何を食べるの?」
近所で飯屋を営む女は、勇吉が聞き返したのを不思議そうに見ていた。
「何で俺に聞くんだよ」
「東京へ行ったんでしょう?」
「行ったけど」
「役人もいたんでしょう?」
「いたような気はするけど」
「じゃあ、何を食べてたの?」
勇吉は少し考えた。
東京で飯を食ったのは覚えているし、岩槻や浦和の話をしている男たちが近くにいて、清兵衛がその話を気にしていたことも覚えている。
ただ、そいつらが何を食っていたかなんて、まったく見ていなかった。
「人の食ってるもんなんて見てねえよ」
「何にも見てないのね」
「見てたよ」
「何を?」
「人の歩き方とか」
「何でそんなもの見てるのよ」
「それが俺の仕事だからな」
女は呆れたように笑った。
「じゃあ、勇吉さんは何を食べたの?」
「飯」
「それは分かってるわよ。どんな料理だったの?」
「魚があったかな」
「ほかには?」
「汁物とか」
「お肉は?」
「覚えてねえ」
「もう、何しに東京へ行ったのよ」
「俺も知りてえよ」
思わず本音が出た。
そもそも、東京へ行くことになったのは榊原敬之助という男のことが気になったからだった。蕨で腰を診た男を東京で見つけ、話を聞いたはいいものの、結局何の仕事をしているのかは分からないままだった。
そのうえ、帰ってきたら岡田家で県庁の話になり、昨日は地主の膝まで診ることになった。振り返ってみれば、随分と忙しい数日だった。
「で、何で役人の飯なんか気になるんだ?」
勇吉が尋ねると、女は少し驚いたような顔をした。
「だって、県庁が来たら役人さんも来るんでしょう?」
「そりゃあ来るだろうな」
「そしたら、お昼を食べるところもいるじゃない」
「ああ、そういうことか」
「今の店でいいのか、少し広げた方がいいのか、考えてるのよ」
女はそう言いながら、指先で前掛けの端を折り曲げた。
「うちは今でも昼時になると手が足りないのよ。これ以上お客が増えたら、嬉しいけど困っちゃうわ」
「じゃあ、広げりゃいいじゃねえか」
「簡単に言わないでよ。広げるにはお金がいるし、人を雇うにしたって毎日お客が来るとは限らないでしょう?」
「そりゃそうか」
「県庁が来るなら考えたいけど、来なかったらどうするのよ」
勇吉は女の顔を見た。
今朝は宗助が馬を置く場所を探していた。清兵衛は土地の値段を調べている。そして、この女は役人に出す飯のことを考えている。
県庁が来ると決まったわけでもないのに、みんな随分と先のことを考えるものだ。
「でもよ、来てから考えればいいじゃん」
「来てからじゃ遅いかもしれないでしょう?」
「そういうもんか」
「そういうものよ」
女は腰に手を当て、勇吉の店をぐるりと見回した。
「勇吉さんだって、お客さんが急に増えたら困るでしょう?」
「そりゃ、待ってもらうしかねえな」
「待ってくれなかったら?」
「また来てもらう」
「ほかの店へ行っちゃったら?」
「……困るな」
「でしょう?」
勇吉は少し考えた。
言われてみれば、その通りかもしれない。客が増えるのは嬉しいが、増えた分だけ自分の手が増えるわけではない。身体を診るのに必要な時間は相手によって違うし、無理に人数を増やして一人ひとりをろくに診られなくなるのも嫌だった。
「じゃあ、俺も店広げた方がいいのかな」
「勇吉さんのところは、まず飲みに行く回数を減らした方がいいんじゃない?」
「何でだよ!」
女は声を出して笑った。
そこへ、ちょうど表を通りかかった清兵衛が顔を出した。
「何だ、随分賑やかだな」
「清兵衛さん、ちょうどよかった」
女が振り返る。
「県庁が来るなら、うちの店を広げた方がいいと思う?」
清兵衛は一瞬だけ勇吉を見た。
「……何で俺に聞くんだ?」
「土地のことなら清兵衛さんでしょう?」
「お前ら、俺を何だと思ってんだ」
「土地が大好きな人」
勇吉が答えると、女も頷いた。
「そうねえ」
「二人して何言ってんだよ」
清兵衛は呆れたように笑ったが、すぐに女へ向き直った。
「今の店、何人くらい入れる?」
「詰めれば十人くらいかしら」
「裏は?」
「少し空いてるわ」
「隣は誰の土地だ?」
女が答えると、清兵衛は腕を組んで考え始めた。
さっきまで笑っていたのに、土地の話になった途端に顔つきが変わる。勇吉はその様子を眺めながら、少し感心していた。
清兵衛、こういう時は本当に真面目だな。
「役人だけじゃねえ。人足も商人も増えるかもしれん。そうなりゃ、飯を食う場所も必要になる」
「そんなに人が来るの?」
「来ればの話だ」
「来なかったら?」
「今まで通りだろうな」
「でも、店を広げちゃったら?」
「その分の金はかかる」
「じゃあ、どうしたらいいのよ」
清兵衛は少し考えてから答えた。
「今すぐ広げなくてもいいんじゃねえか。まずは、どこまで使えるか考えとけばいい」
「裏を片づけておくとか?」
「ああ。それなら大して金もかからねえだろ。隣の土地だって、使わせてもらえるか聞くだけなら銭はかからん」
「なるほどねえ」
「ただ、借りるにしても買うにしても、話はそれからだ。県庁が来ると決まったわけじゃねえんだからな」
勇吉は思わず口を挟んだ。
「清兵衛でも止めるんだな」
「何がだよ」
「絶対『広げろ、土地買え』って言うと思った」
「俺を何だと思ってんだ」
「土地買う奴か、買わせようとする奴」
「違えよ」
「最近それしか言ってねえじゃん」
女が口元を押さえて笑い、清兵衛は勇吉を睨んだ。
「俺だって、何でも買えばいいと思ってるわけじゃねえよ」
「そうなの?」
「当たり前だろ。県庁が来なかったらどうするんだ」
「清兵衛がそれ言うのかよ」
「俺は来るかもしれねえと思って動いてるんだ。絶対来るなんて言ってねえぞ」
勇吉は清兵衛の顔を見た。
昨日、桜屋でも似たような話を聞いた。
県庁が来れば喜ぶ者もいるが、困る者もいる。土地を持っているからといって、誰もが売りたいわけではない。今日の女も同じなのだろう。
客が増えれば嬉しいが、増えなかったら困る。その両方を考えなければならないのが商売らしい。
「商売って面倒くせえな」
勇吉が言うと、清兵衛が振り向いた。
「お前だって商売してるだろ」
「俺は身体診てるだけだよ」
「それで銭もらってんだろ」
「そりゃそうだけど」
「同じだよ」
勇吉は何か言い返そうとしたが、うまい言葉が出てこなかった。
女はそんな二人を見て笑い、清兵衛へ頭を下げた。
「ありがとう。もう少し考えてみるわ」
「ああ。今のうちに、裏がどれだけ使えるか見とくといいかもしれねえな」
「そうする」
女は帰りかけてから、ふと思い出したように勇吉を見た。
「そうそう。勇吉さん」
「何?」
「今度東京へ行ったら、ちゃんと料理も見てきてね」
「また行くのかよ!」
「行くことがあったら、よ」
女は楽しそうに笑いながら店を出ていった。
清兵衛もその背中を見送り、勇吉へ向き直った。
「お前、東京で何食ったかも覚えてねえのか」
「食ったものくらい覚えてるよ」
「何だ?」
「……飯」
「お前なあ」
清兵衛は額へ手を当てた。
◇
清兵衛が帰ったあとも、勇吉はしばらく飯屋の女の話を考えていた。
県庁が来れば、人が増える。人が増えれば、飯を食う者も泊まる者も増えるし、馬をつなぐ場所や荷を運ぶ人間も必要になる。
それなら、身体を痛める者だって増えるかもしれない。
勇吉は店の中を見回した。
いつも使っている布団に道具、壁際の棚。今のところ、特に困っていることはない。
それでも客が今の倍になったら、どうなるだろう。
少し考えてみたが、すぐに答えは出なかった。
まあ、来てもいねえ客のこと考えても仕方ねえか。
そう思っていると、午後の客がやってきた。
近くの旅籠で働いている男で、店へ入ってきた時から左足を少し引きずっている。
「おう、勇吉。腰頼むわ」
「どうした、今度は何やったんだ?」
「客の荷物運んでたら、腰がおかしくなっちまってよ」
「どんな荷物だ?」
「行李だよ。二階まで何度も運んだんだ」
「そりゃ大変だったな」
「笑い事じゃねえぞ。今朝なんか階段下りるのもつらかったんだから」
男をうつ伏せにして腰の具合を確かめると、痛いと言っている場所だけでなく、脚の動きにも少し引っかかりがあった。
「左脚、いつから変なんだ?」
「昨日からかな」
「腰より先?」
「そういや、そうかもしれねえ」
「じゃあ、そっちも見てみるか」
勇吉は腰から脚へ手を移し、無理のない範囲で動きを確かめていった。
男はしばらく黙っていたが、やがて思い出したように口を開いた。
「なあ、勇吉」
「何だよ」
「県庁って岩槻に決まってるんだろ?」
「そう聞いてるけど」
「じゃあ何で蕨で騒いでるんだ?」
勇吉の手が止まりかけた。
そういえば、浦和へ行った時は役所があった。東京では岩槻と浦和の話を聞いた。そして蕨では、清兵衛たちが県庁を持ってこられないかと動いている。
それぞれの話は聞いているが、全部を並べると、どうもすっきりしない。
「……何でだろうな」
「勇吉が知らねえのか?」
「全部は知らねえよ」
「岡田さんとこで話してるんだろ?」
「話してるけど、俺が決めてるわけじゃねえからな」
「じゃあ、誰が決めるんだ?」
「そりゃ役人だろ」
「その役人が岩槻って決めたんじゃねえのか?」
勇吉は男の背中を見つめた。
言われてみれば、そうだ。
「……お前、ややこしいこと言うなよ」
「俺がややこしくしたんじゃねえよ」
「そうだけどさ」
「で、蕨に来るのか?」
「知らねえって」
男は笑った。
「勇吉でも知らねえことあるんだな」
「俺を何だと思ってんだ」
「岡田さんとこの仲間」
「仲間ではあるけどよ」
そこまで言って、勇吉は少し考えた。
清兵衛も宗助も権蔵も、みんな本気で動いている。自分もそれを面白いと思っているが、肝心の県庁がどういう話になっているのか、まだよく分かっていない。
それでは、誰かに聞かれても答えようがない。
「今度、加兵衛に聞いてみるか」
「何を?」
「県庁のこと」
「今さらかよ」
「うるせえな。腰、もう少し右向け」
男が笑いながら身体を動かしたので、勇吉は施術を続けた。
仕事を終える頃には、男の歩き方も少し自然になっていた。
「楽になったよ」
「まだ無理すんなよ。痛みが残るならまた来い」
「おう、ありがとな」
男を送り出したあと、勇吉は表へ出た。
中山道には、朝と同じように旅人や荷を積んだ馬が行き交っている。少し離れたところでは、宿の主人らしい男が建物の裏を眺め、その向こうでは別の男が空き地を指さしていた。
みんな、まだ来るかどうかも分からない県庁のことを考えている。
勇吉はその様子を眺めながら、少し笑った。
まったく、好きだよなあ。
けれど、今日の飯屋の女の話は、勇吉にも少し引っかかっていた。
客が増えるのは嬉しい。だが、増えれば増えたで困ることもある。町が大きくなるというのは、ただ人が増えて賑やかになるだけではないらしい。
それでも、今までと違う蕨を見てみたいという気持ちはあった。
岩槻に決まっている県庁を、どうやって蕨へ持ってくるつもりなのか。
今度こそ、ちゃんと聞いてみよう。
勇吉はそう思いながら、店へ戻った。




