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第二十一話 勝手に動く町③ 県庁はどこにある

 夕方近くになって、勇吉は店の前を通りかかった清兵衛を呼び止めた。


「おい、清兵衛!」


「何だよ。今度は誰か腰でも悪くしたのか?」


「違うよ。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」


 清兵衛は足を止め、勇吉の顔を見た。


「珍しいな。お前から県庁の話か?」


「まだ何も言ってねえだろ」


「違うのか?」


「……県庁の話だけど」


「ほらな」


 清兵衛が得意そうに笑ったので、勇吉は少し腹が立った。


「で、何が聞きたいんだ?」


「あのさ、県庁って岩槻に決まってるんだろ?」


「ああ、そうだぞ」


「じゃあ浦和は何なんだよ」


「今まで使ってた役所があるだろ」


「それは分かるよ。俺も見てきたんだから」


「じゃあ何が分からねえんだ?」


「岩槻に決まってるのに、何で蕨へ持ってくる話してんだよ」


「今さらそこかよ」


「今さらでも分かんねえもんは分かんねえだろ」


 清兵衛は少し考えてから、店の前に立ったまま説明を始めた。


「勇吉、お前、店を借りる時は何を考える?」


「何だよ、急に」


「いいから答えろ」


「そりゃ、客が来やすいかとか、借り賃がいくらかとか」


「ほら、分かってんじゃねえか」


「何が?」


「役所だって似たようなもんだ。建物がありゃいいってわけじゃねえ。人が通いやすくて、仕事がしやすい場所じゃなきゃ困るだろ」


「……それなら分かる」


「岩槻に置くと決まっていても、実際に仕事をするには人も道もいる。浦和には今まで使ってた役所があるから、そっちで仕事が続いてるわけだ」


「じゃあ、浦和でいいじゃん」


「だから、そこが面倒なんだよ」


「何で?」


「岩槻に決まってるからだろ!」


「分かってるよ!」


 勇吉が言い返すと、清兵衛は一度口を閉じ、困ったように頭を掻いた。


「俺が言いたいのはな、蕨にも使える場所があるって話をしたいんだよ」


「誰に?」


「そりゃ、決める立場の役人たちにだろ」


「もう話したのか?」


「まだだよ」


「じゃあ、何でそんなに土地調べてんだ?」


「何も知らねえまま話しに行ったって、相手にされねえだろ」


 清兵衛はそう言ってから、ふと勇吉の顔を見た。


「お前、腰を診る時、痛えところだけ揉めばいいと思ってるか?」


「思ってねえよ」


「何で?」


「ほかに悪いところがあるかもしれねえだろ。腰が痛くても、原因が腰とは限らねえんだから」


「ほら、同じじゃねえか」


「……何が?」


「県庁を置く場所だって、土地だけ見て決められるもんじゃねえってことだよ」


 勇吉は少し考えた。


 確かに、そう言われれば分からなくもない。建物が立派でも、そこへ人が来られなければ仕事にならないだろうし、荷物が運べなければ困るはずだ。


「なるほどな。じゃあ、蕨に何があるか調べてんのか」


「そういうことだ」


「だったら最初からそう言えよ」


「今まで何度も言ってんだろ!」


 清兵衛の声が少し大きくなり、通りを歩いていた男がこちらを振り返った。


 勇吉はその男へ軽く頭を下げてから、清兵衛へ向き直った。


「でもよ、まだ一つ分かんねえんだ」


「今度は何だよ」


「岩槻に決まってて、浦和で仕事してる。そこへ蕨も入ろうってんだろ?」


「そういうことだ」


「……それ、役人の方が困らねえか?」


 清兵衛はすぐには答えなかった。


 勇吉は続けた。


「俺だって、店を移せって言われたら面倒だぞ。道具も運ばなきゃならねえし、客にだって知らせなきゃならねえ」


「だから、困らせねえだけの理由を揃えなきゃならんのさ」


「なるほどな。そりゃ土地だけあっても駄目だわ」


「やっと分かったか」


「分かったけど、実際にどうやるかは分かんねえ」


「そこは俺だって全部知ってるわけじゃねえよ。加兵衛の方が詳しい」


「じゃあ、加兵衛のところ行くか」


「今から?」


「聞けって言ったのお前だろ」


 清兵衛はしばらく勇吉を見つめ、それから笑った。


「お前がそこまで気にするとは思わなかったな」


「気になるだろ。みんなあんなに動いてんだから」


 そう答えると、清兵衛は少しだけ真面目な顔になった。


「……そうだな」


 清兵衛は勇吉の店を一度振り返った。


「今日はもう客は来ねえのか?」


「今のところ約束はねえよ」


「じゃあ行くか。加兵衛もそろそろ戻ってるだろ」


「おう」


 二人は並んで中山道を歩き始めた。


 途中、清兵衛は空き地の前で立ち止まったり、店の軒先を眺めたりしていたが、勇吉には何が気になるのかよく分からなかった。


「お前、さっきから何見てんだ?」


「土地だよ」


「歩きながらでも土地のこと考えてんのか」


「お前だって、人の歩き方見てるだろ」


「そりゃ見るよ」


「同じだ」


「……そういうもんかねえ」


 勇吉にはまだよく分からなかったが、清兵衛が楽しそうなので、それ以上は聞かなかった。


     ◇


 岡田家へ着くと、加兵衛はちょうど書付を広げていた。


 机の上には、宿場の土地や建物について書き留めた紙が何枚も置かれ、脇にはまだ何も書かれていない紙が重ねられている。加兵衛はそのうちの一枚を見比べながら、何かを書き足していた。


「何だ、二人揃って」


 加兵衛が顔を上げた。


「勇吉が聞きたいことあるんだと」


「ほう、珍しいな」


「お前ら、俺が質問すると何でみんな珍しがるんだよ」


「普段、県庁の話になると酒のことばかり聞いてるからな」


「そんなことねえだろ」


 清兵衛が横で笑った。


 勇吉は少しむっとしたが、今日は聞きたいことがある。加兵衛の向かいへ腰を下ろすと、机の上の書付を覗き込んだ。


「県庁って岩槻に決まってるんだろ?」


「ああ」


「浦和では役所が動いてるんだろ?」


「そうだ」


「それなのに、蕨へ持ってこようとしてる。そこまでは分かったんだよ」


「ほう」


「でもよ、本当にそんなこと出来るのか?」


 加兵衛はすぐには答えず、手にしていた筆を置いた。


「出来ると決まったわけじゃない。今のところ、蕨へ県庁を置こうという話をしているのは俺たちだけだ」


「やっぱりそうなのか」


「だから、出来るかどうかを調べているんだよ」


 加兵衛は机の上から一枚の書付を取り、勇吉の前へ置いた。


「この前、浦和へ行った時、何を見た?」


「役所」


「ほかには?」


「人が出入りしてたな。書類持ってる奴もいたし、荷物運んでる奴もいた」


「そうだろう。役所は建物だけじゃない。そこへ来る人間もいれば、仕事に必要なものもある」


「それは東京でも聞いたよ」


「誰に?」


「榊原って奴」


 加兵衛は少しだけ顔を上げた。


「何と言っていた?」


「人だの道だの、荷物だの書類だの。建物だけじゃ駄目だって」


「そうだな」


 加兵衛は頷き、書付を指先で押さえた。


「岩槻に県庁を置くと決められている。だが、実際に役所の仕事を動かすとなれば、建物も人も必要になる。今は浦和で仕事が行われているから、なおさら簡単な話じゃない」


「だったら、蕨は余計に難しいんじゃねえの?」


「そうだろうな」


 あっさり認められたので、勇吉は加兵衛の顔を見た。


「……おい」


「何だ?」


「難しいって分かっててやってんのか?」


「分かってるから調べてるんだよ」


 加兵衛は何でもないことのように答えた。


 勇吉はもう一度、机の上を見た。


 書付には土地の名前や持ち主の名前、宿や道について調べたことが細かく書き込まれている。この何日か、清兵衛や宗助たちが歩き回って集めてきた話が、こうして少しずつ形になっているらしい。


「これ、全部お前らが調べたの?」


「まだ一部だ」


「こんなにあるのに?」


「書いてあるだけじゃ駄目なんだよ」


「何で?」


「土地の持ち主が分かっても、使わせてもらえるとは限らん。道があっても、荷車が通れるとは限らん。宿があっても、客を何人泊められるか分からんだろ」


「……面倒くせえな」


「面倒なことを先に調べておかんと、後でもっと面倒になる」


「加兵衛らしいな」


「お前らが大雑把すぎるんだよ」


「お前らって、俺もかよ」


「ほかに誰がいる?」


 清兵衛が横で吹き出した。


「俺も入ってんのか?」


「当たり前だろ。お前は使えそうな土地を見つけると、すぐ値段の話を始める」


「値段は大事だろ」


「大事だが、その前に持ち主の話を聞け」


「聞いてるよ」


「値段ばかり聞いてるんじゃないのか?」


「そんなことねえって!」


 勇吉は二人のやり取りを聞きながら笑った。


 清兵衛は思いつくとすぐに動きたがるが、加兵衛は一つ一つ確かめなければ気が済まないらしい。二人とも同じことを考えているはずなのに、やり方は随分と違う。


 そこへ、表から聞き慣れた声がした。


「おい、加兵衛! いるか!」


 返事を待つ間もなく、権蔵が顔を出した。


「何だ、勇吉も来てたのか」


「おう。昨日はごちそうさん」


「もう飲ませねえぞ」


「まだ何も言ってねえだろ!」


「顔に書いてある」


「書いてねえよ」


「昨日、何本飲んだと思ってんだ」


「権蔵が頼んだんだろ」


「お前が頼めって顔したんだよ」


「顔だけで酒が出てくるなら、毎日そうするわ」


 清兵衛が笑い、加兵衛も口元を緩めた。


 権蔵はそんな二人を見て鼻を鳴らすと、持っていた書付を机へ置いた。


「北の土地の話、聞いてきたぞ」


 その一言で、清兵衛の顔つきが変わった。


「どうだった?」


「話を聞くくらいなら構わねえそうだ。ただ、畑を潰すのは嫌だとよ」


「そうか。あそこは広さもあるし、道にも近いんだがな」


「だからって、簡単に手放せるもんじゃねえよ」


 権蔵は腰を下ろし、机の上に広がった書付を眺めた。


「親の代から耕してきた畑だ。今の暮らしだって、あの土地があるから成り立ってる。県庁が来るかもしれねえから売ってくれなんて言われても、はいそうですかとはいかねえだろ」


「そりゃそうだな」


 勇吉が頷くと、権蔵がこちらを見た。


「お前は簡単に言うな。畑は持ち主の暮らしなんだぞ」


「分かってるよ。だから、そりゃそうだなって言ったんだろ」


「……そうだったか」


「そうだよ」


 権蔵は少し考えてから、面白くなさそうに鼻を鳴らした。


「お前と話すと調子が狂うな」


「こっちの台詞だよ」


 加兵衛が書付を引き寄せた。


「売る気がないなら、それも書いておこう。ほかに使える場所がないか考えればいい」


「そうしてくれ。あいつも話を聞くのが嫌だってわけじゃねえんだ。ただ、今すぐ畑をどうこうする気はない」


 権蔵の声には、いつもの荒っぽさが少し薄れていた。


 勇吉はその横顔を眺めた。


 昨日、桜屋では散々からかわれたし、酒をもう一本頼む時にも随分と文句を言われた。それでも結局おごってくれたし、こうして地主たちの話を一軒ずつ聞いて回っている。


 口は悪いが、人の事情を考えない男ではないらしい。


「何だよ、勇吉。人の顔じろじろ見て」


「いや、権蔵もちゃんと仕事してんだなと思って」


「当たり前だろ!」


「昨日は酒飲んでるところしか見てねえからさ」


「お前だって飲んでただろ!」


 清兵衛がまた笑った。


 加兵衛は二人を放っておき、権蔵の持ってきた書付へ何かを書き足している。


 こうして見ていると、誰か一人が全部を決めているわけではないらしい。


 清兵衛は使える土地を探し、権蔵はその持ち主と話し、加兵衛は集まった情報を確かめている。宗助も今頃、宿や馬の置き場所を調べているのだろう。


 勇吉はふと、朝のことを思い出した。


「そういや、宗助が馬十頭置く場所探してたぞ」


「ああ、聞いてる」


 加兵衛が答えた。


「もう聞いたのかよ」


「さっき宗助が来たからな。昔、馬を置いていた場所が使えるかもしれないって話だろ」


「そうそう。俺が子供の頃に見た場所なんだけどさ」


「今、持ち主を確かめてもらってる」


「早えなあ」


 勇吉は少し驚いた。


 朝、何気なく思い出した場所の話が、もうここまで来ている。自分が知らないところで、話がどんどん進んでいるらしい。


「……本当に勝手に動くな、この町」


 思わず口にすると、清兵衛が笑った。


「勝手に動いてるんじゃねえよ」


「じゃあ何だよ」


「みんな、自分の仕事してるんだ」


 勇吉はその言葉を聞き、机の上に並んだ書付へ目を落とした。


 土地の名前だけでは足りず、持ち主の事情まで確かめなければならない。馬を置けそうな場所があっても、今使えるとは限らない。朝から歩き回っている男たちも、ただ面白がっているわけではないのだろう。


「でもよ、昔の馬置き場なら、前に使ってた奴に聞けば何か分かるんじゃねえか?」


 勇吉が何気なく言うと、加兵衛が顔を上げた。


「誰か心当たりがあるのか?」


「いや、すぐには出てこねえけど。うちに来る爺さんたちなら覚えてるかもしれねえぞ。昔からこの辺に住んでる人ばっかりだし」


 加兵衛は少し考えてから頷いた。


「なるほどな。昔の道や建物のことを知ってる者もいるだろう」


「そりゃいると思うよ。話し始めると長え人もいるしな」


「お前、そういう話は聞いてるのか?」


「身体診ながら聞くことはあるよ。昔はここに何があったとか、どこの家がどうしたとか」


「それだよ」


 清兵衛が口を挟んだ。


「何が?」


「そういう話も役に立つんじゃねえか。俺たちが知らねえことを知ってるかもしれんだろ」


「でも、昔話だぞ?」


「昔話でも、確かめる手掛かりにはなる」


 加兵衛が答えた。


「ただ、聞いたことをそのまま信じるわけにはいかん。覚え違いもあるだろうし、今とは事情が違うこともあるからな」


「また面倒くせえこと言ってる」


「だから確かめるんだよ」


 勇吉は笑った。


「じゃあ今度、客が来たら聞いてみるよ。昔の馬置き場とか、道のこととか」


「頼む。分かったことがあれば教えてくれ」


「それくらいならいいよ」


 勇吉にとっては、いつもの客と少し違う話をするだけのことだった。


 わざわざ土地を調べに歩くつもりはないし、役人に会いに行きたいとも思わない。それでも、自分のところへ来る人間の話が役に立つなら、聞いておいて損はないだろう。


 権蔵がそんな勇吉を見て、にやりと笑った。


「何だ、お前もその気になってきたじゃねえか」


「別にそういうわけじゃねえよ」


「だったら何だ?」


「客と話すだけだろ。いつもやってることだよ」


「それで十分じゃねえか」


 権蔵はそう言って、勇吉の肩を軽く叩いた。


 勇吉は少し意外に思ったが、権蔵はもう清兵衛と土地の話を始めていた。


     ◇


 しばらく書付を見ながら話していると、清兵衛がふと思い出したように言った。


「やっぱり、もう一度浦和へ行った方がいいな」


「また?」


 勇吉が顔を上げる。


「ああ」


「この前行ったばっかりじゃん」


「今度は見るところが違う」


「何が?」


 清兵衛は加兵衛へ目を向けた。


「この前は、役所がどんなところか見に行っただけだろ。今度は、実際にどう使ってるかをもう少し確かめたい」


 加兵衛が頷いた。


「人の出入りや荷物の扱い、建物の使い方だな。蕨に同じようなことが出来るか考えるなら、見ておいて損はない。ただし、役所の中を勝手に調べられるわけじゃないから、見られる範囲でだ」


「そりゃそうだろうな」


 勇吉は頷いた。


 前に浦和へ行った時は、役所の中で何をしているのかもよく分からなかった。今なら、少し違ったところが見えるかもしれない。


 宗助が馬の置き場所を気にしていたように、清兵衛たちも道や建物の使い方を見たいのだろう。


「じゃあ、行ってこいよ」


 勇吉が言うと、清兵衛がこちらを見た。


「お前も来るんだよ」


「何で?」


「一緒に来い」


「だから何でだよ」


 清兵衛は少し考えた。


「お前、俺たちが気づかねえようなところを見つけるからな」


「俺は人の身体しか見てねえぞ」


「それでもいいんだよ」


「何がいいんだよ」


「この前だって、榊原って男を歩き方で見つけたんだろ」


「東京でな」


「そういうの、俺には分からねえからさ」


 勇吉は清兵衛の顔を見た。


 どうやら、からかっているわけではなさそうだった。


「人の出入りを見るなら、お前の目も役に立つかもしれん」


 加兵衛もそう言った。


「ただし、勇吉にも仕事がある。無理に連れていくことはないぞ」


「そうだな」


 清兵衛は頷いたが、その顔には連れていく気がありありと出ていた。


「……まあ、行ってもいいけど」


「よし、決まりだな」


「まだ何も決めてねえよ」


「明日でいいか?」


「早えよ!」


 加兵衛が笑いながら口を挟んだ。


「清兵衛、勇吉にも都合くらい聞いてやれ」


「そうだったな」


「そうだったな、じゃねえよ」


 勇吉は呆れながらも、明日の仕事を思い返した。


 今のところ、朝から来ると約束している客はいなかったはずだ。ただ、だからといって一日中店を空けていいわけでもない。


「朝から行くのか?」


「早めに出たいな」


「帰りは?」


「用が済んだら帰る」


「それ、いつだよ」


「そんなに遅くならねえだろ」


 信用できない。


 ここ数日、清兵衛の「すぐ」も「ちょっと」も、まともに当たったためしがない。


 権蔵が横から口を挟んだ。


「お前ら、行くならちゃんと見てこいよ。遊びに行くんじゃねえんだからな」


「分かってるよ」


 清兵衛が答えると、権蔵は今度は勇吉を見た。


「特にお前だぞ」


「何で俺だけなんだよ」


「どうせ酒か飯のこと考えてるんだろ」


「そんなことねえよ」


「じゃあ何考えてた?」


 勇吉はしばらく考えてから、明日のことで一番大事なことを確認した。


「鰻食える?」


 清兵衛が動きを止めた。


「……何?」


「浦和行くんだろ?」


「ああ」


「じゃあ鰻食える?」


「お前、今までの話聞いてた?」


「聞いてたよ」


「何の話してた?」


「役所を見に行くんだろ」


「分かってんじゃねえか」


「だから鰻は?」


 清兵衛はしばらく勇吉を見つめ、それから加兵衛へ顔を向けた。


「こいつ、本当に連れてった方がいいのか?」


 加兵衛は笑いを堪えながら答えた。


「まあ、いいんじゃないか」


「何がいいんだよ」


「勇吉らしくてな」


「加兵衛まで馬鹿にしてんのか?」


 権蔵が腹を抱えて笑い始めた。


「お前、昨日あれだけ飲んで、今度は鰻かよ!」


「昨日は昨日、明日は明日だろ!」


「そりゃそうだが、少しは県庁のことも考えろ!」


「考えてるよ!」


「本当か?」


「本当だよ。だからここまで聞きに来たんだろ」


 勇吉が言い返すと、権蔵は少しだけ目を丸くした。


 清兵衛も笑うのをやめ、勇吉の顔を見た。


「……まあ、確かにな」


 加兵衛が静かに頷いた。


「そうだな。今日は勇吉の方から来たんだった」


「だろ?」


 勇吉は少し得意になった。


「県庁がどうなるか、俺だって気になるんだよ。みんなあんなに動いてるしさ」


「だったら、明日はしっかり見てこいよ」


 権蔵が言った。


「見るよ。ただ、鰻も食いたい」


「結局そこか!」


 また三人が笑い始めた。


 勇吉は少しむっとしたが、自分でもおかしくなってきた。


 県庁が蕨へ来るかどうかは、まだ分からない。


 岩槻に置くと決まっているものを動かすのだから、簡単な話ではないだろう。それでも、清兵衛たちは本気で調べているし、宿場の人間まで自分の商売のことを考え始めている。


 朝の馬置き場の話も、もう加兵衛の書付に載っていた。


 そんな町の様子を見ているのは、なかなか面白い。


 だから、もう一度浦和へ行くのも悪くないと思っていた。


 ただ、それと鰻は別の話だ。


「両方大事だろ」


 勇吉がそう言うと、清兵衛はとうとう声を出して笑った。


「お前にはかなわねえな」


「何でだよ」


「もういい。時間があったら鰻も食わせてやる」


「本当か?」


「約束はしねえぞ」


「何だよ、けちくせえな」


「お前の食いっぷり見てから決める」


「それじゃ遅えだろ!」


 加兵衛は二人のやり取りを聞きながら、明日の段取りを考え始めた。権蔵も北の土地について、まだ話を聞いていない家があると言っている。


 勇吉は机の上に広がった書付をもう一度眺めた。


 岩槻に県庁を置くと決まっている一方で、浦和では役所の仕事が続いている。その中へ蕨も入っていこうとしているのだから、簡単な話ではない。


 それでも、誰もやめようとは言わなかった。


 土地を探す者がいて、持ち主に話を聞く者がいて、集まった情報を確かめる者がいる。勇吉にも、昔の宿場を知る客の話を聞くくらいなら出来そうだった。


 県庁を持ってくると言い出した時は、随分と大きなことを考えるものだと思ったが、こうして見ると、みんな自分に出来ることから始めているらしい。


 勇吉は少し笑った。


 だったら、自分も知っていることくらいは教えてやろう。


 もちろん、仕事を放り出してまで走り回るつもりはない。


     ◇


 岡田家を出る頃には、宿場の空も夕暮れの色に変わっていた。


 中山道には、今日も旅人が行き交っている。荷を積んだ馬が通り、宿の前では主人が客を迎え、飯屋からは夕飯の匂いが漂っていた。


 少し離れたところでは、まだ何人かの男たちが土地を眺めながら話している。


 昨日までと同じ蕨宿だ。


 ただ、そこに住む人間たちは、少しずつ違う明日を考え始めている。


 勇吉も明日のことを考えた。


 浦和へ行くなら、今度こそ役所の中で何が行われているのか、もう少しよく見てみよう。前に行った時は気づかなかったことも、今なら分かるかもしれない。


 それに、妻への土産も忘れないようにしなければならない。


 東京の時は清兵衛に言われて思い出したが、今度は自分で思いついた。鰻なら、きっと喜ぶだろう。


 もっとも、役所のことを調べるのに夢中になって、鰻を食べる時間がなくなるのは困る。


 そこは清兵衛にも、ちゃんと分かっておいてもらいたかった。


 勇吉は腹をさすりながら家へ向かった。


 県庁の行方は、まだ分からない。


 それでも明日の浦和では、少しくらい面白いものが見られるかもしれない。


 鰻が食えれば、なおいい。


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