閑話 浦和という町
# 閑話 浦和という町
浦和宿の朝は、役所へ向かう人間が動き始めると、いつもより少しだけ騒がしくなる。
荷を積んだ馬が中山道を通り、人足が木箱を抱えてその脇を急いでいく。書類を抱えた男に道を譲れば、今度は旅籠から出てきた客とぶつかりそうになり、飯屋では朝から火が入り、女たちが湯気の向こうで忙しそうに手を動かしていた。
以前なら何事かと思ったかもしれないが、今ではこれが浦和の朝だった。
高梨庄兵衛は店先に立ったまま、役所の方へ向かっていく荷車を眺めていた。
「庄兵衛さん、あれも役所かい?」
近くの商人に声を掛けられ、荷車に積まれた木箱へ目をやる。
「たぶんな」
「最近多いな」
「役所がありゃ、何かしら運ぶもんも増えるだろ」
「なら儲かってしょうがないだろ?」
「儲かってたら朝から荷車なんか眺めてねえよ」
商人は笑いながら行ってしまった。
庄兵衛は浦和で商いをしている。自分の店のことだけでなく、馴染みの宿や荷を扱う者たちから相談を受けることも多く、最近では役所に出入りする人間の世話まで頼まれるようになっていた。
もっとも、頼まれたからといって何でも出来るわけではない。
宿が足りないと言われても、急に部屋を増やせるわけではないし、馬を置く場所がないと言われても、空き地が勝手に出来るわけでもない。それでも長年この町で商売をしていると、何か困ったことがあれば、とりあえず庄兵衛に聞いてみようという者がいる。
ありがたい話なのか、面倒な話なのか。
最近は自分でもよく分からなくなっていた。
庄兵衛は店の者に一声掛けてから、役所の方へ歩き出した。
浦和で役所の仕事が行われるようになってから、知らない顔を見ることが増えた。役人だけではない。荷を運ぶ者、役人に用があるらしい商人、どこへ行けばいいのか分からず道を聞いてくる者までいる。
馴染みの旅籠へ顔を出せば、昨日は部屋が足りなかったとぼやかれ、馬を扱う者に会えば、今度は置く場所が足りないと言われる。
庄兵衛は役人ではないが、浦和で商いをしていれば、役所というものが建物一つで済む話ではないことくらい嫌でも分かる。
だからこそ、最近耳にする話が気になっていた。
新しく出来た埼玉県の県庁は、岩槻に置くことになっているという。
そう聞かされても、目の前では昨日と同じように人が働き、今日も荷が運ばれている。浦和で暮らす庄兵衛には、「これからは岩槻だ」と言われたところで、目の前の景色とどう結びつくのか今ひとつ分からなかった。
もっとも、県庁をどこへ置くかなど、自分が考えたところでどうにもならない。
役所があることで商売になるならありがたいし、なくなれば困る。庄兵衛にとっては、それが一番切実な問題だった。
役所の近くまで来ると、朝から人の出入りが続いていた。
荷を降ろす者に指示を出している顔見知りを見つけたので、頼まれていた話をいくつか済ませる。
「庄兵衛さん、そっちはどうだ」
「そっちって?」
「宿だよ。人、増えてるだろ」
「増えてるな。だからって急に部屋は増えねえよ」
「馬は?」
「それも同じだ。役人が増えたからって馬小屋が勝手に広がるわけじゃねえ」
「何とかならんか」
「何とかしろって言われて何とかなるなら、俺はとっくに大金持ちだよ」
男が苦笑いする。
最近はこんな話ばかりだった。人が足りない、馬を置く場所がない、泊まる場所が足りない。荷を置きたいが場所がないと言われれば、今度は誰の土地が空いているかまで聞かれる。
そのくせ、県庁を置くことになっているのは岩槻だという。
「本当に岩槻へ行くのかね」
庄兵衛が何気なく口にすると、男はすぐには答えず、近くを通った役人が離れてから声を落とした。
「さあな。俺たちに分かる話じゃない」
「こっちは毎日こんななのにな」
「だから面倒なんだろ」
男はそれ以上言わなかったし、庄兵衛も聞かなかった。
役所の方へ目を向けると、何人もの役人が忙しそうに行き交っている。書類を抱えた若い男が奥から出てきたかと思えば、今度は別の男に呼び止められ、何やら困った顔で話し始めた。
ああいうのを見ると、役人も楽じゃないんだろうなと思う。
「しかし、あっちは大変そうだな」
庄兵衛が言うと、隣の男も役所の方を見た。
「そりゃ俺たちよりはな」
「俺は嫌だね」
「何が?」
「一日中あんなところで働くより、鰻食って酒飲んでる方がいい」
「そりゃ誰だってそうだろ」
二人で笑った。
役所の仕事はよく分からないが、鰻と酒なら分かる。
そんな話をしていたせいか、急に腹が減ってきた。
◇
役所を離れる頃には、昼も近くなっていた。
中山道を少し歩いて山崎屋へ向かうと、店が見えるより先に蒲焼の匂いが漂ってくる。
この匂いだけは昔から変わらない。
戸をくぐると顔馴染みに声を掛けられ、庄兵衛はいつものように腰を下ろした。
「庄さん、今日は一人かい」
「悪いな、今日は俺だけだよ」
「この前は三人も一緒だったろ」
「あれはたまたま一緒になっただけだよ」
言われて、少し前に蕨から来た三人を思い出した。
一人は宿や人の流れを気にしていたし、もう一人は金や土地の話になると急に食いついた。
そして、もう一人は――。
「何だっけな……」
「何が?」
「いや、この前の蕨の男だよ。変なのいただろ」
「ああ、鰻食ってた」
「ここは鰻屋だ。みんな食うだろ」
「旨そうに食ってた方だよ」
「そうだったか?」
言われてみれば、確かに旨そうには食っていた。
ただ、庄兵衛が覚えているのは、そこではない。
道を歩けば人の歩き方ばかり見て、県庁のことを聞けば大して分かっていない。浦和まで何をしに来たのかと思えば役所を眺め、土地を買わないかと言われてもまるで興味を示さなかった。
そのくせ、鰻の話だけは妙に食いつく。
「勇吉だったか」
名前が出てきたところで蒲焼が運ばれてきた。
ちょうどいい。
どうでもいいことを思い出すより、こっちの方が大事だ。
箸をつけると、やはり旨い。香ばしく焼けた皮と柔らかな身を噛みしめながら、庄兵衛は思わず頬を緩めた。
県庁が岩槻へ行こうが、浦和に役所が残ろうが、この味まで変わるわけではない。
そう思っていたところへ、近くで話していた商人たちの声が聞こえてきた。
「そういや蕨、何かやってるらしいな」
庄兵衛の箸が止まった。
「蕨?」
「ああ。土地見たり、空いてる建物調べたりしてる奴がいるってよ」
「土地と建物?」
「らしいぜ。役所がどうとかいう話もあるみたいだが、俺も詳しくは知らん」
「蕨で役所?」
「さあな。県庁でも欲しいんじゃねえか?」
男たちは笑った。
「岩槻に決まってるんだろ?」
「そう聞いてるけどな」
「じゃあ何で蕨なんだよ」
「俺に聞くなよ」
どうやら、誰も詳しいことは知らないらしい。
庄兵衛は蒲焼を一口食べてから、今聞いた話を頭の中でもう一度考えてみた。
蕨で土地や建物を調べている者がいて、それが役所の話と関係しているらしい。少し前なら聞き流したかもしれないが、ついこの間、ここで鰻を食っていた三人は、わざわざ浦和まで来て役所を見ていた。
宿の様子を見て、人の流れを気にして、土地の話まで聞いている。
偶然にしては、少し引っかかる。
「庄兵衛さん、どうした?」
「何が?」
「急に黙りこんで」
「鰻食ってんだよ」
「さっきまで食いながら喋ってただろ」
「うるせえな」
もう一切れ口へ入れた。
蕨宿なら庄兵衛も知っている。
浦和から中山道を南へ行けば、そう遠くない。昔から本陣も旅籠もあり、人の行き来もある。何もないところへ突然町を作るのとは違うし、商売をする場所として悪いところでもない。
だが、県庁となれば話は別だ。
岩槻に置くと決まっているものを、蕨へ持ってこようというのか。
まさかな。
そう思ってもう一度蒲焼を噛んだが、今度はさっきほど味が入ってこなかった。
「……一応、気にしとくか」
「何を?」
「何でもねえよ」
庄兵衛は残った鰻を食べながら、三人の顔を順番に思い出した。
清兵衛は、土地の話になると目の色が変わる男だった。
宗助は、宿や荷物のことを随分と細かく聞いていた。
あの二人なら、何か考えていても不思議ではない。
それから、勇吉。
県庁のことなど何も分かっていないような顔をして、最後まで鰻ばかり気にしていた男。
まさか、あいつが何かやっているわけじゃないだろう。
庄兵衛はそう思った。
そこだけは、かなり正しかった。
***
【史実と創作】
今回登場した浦和の鰻屋「山崎屋」は、実在するお店です。
江戸時代の浦和宿では、中山道を行き交う旅人たちに鰻の蒲焼が出され、その味が評判になっていました。
つまり、物語の舞台である明治4年に、勇吉たちが浦和宿で鰻を食べること自体は十分あり得たことになります。
もちろん、勇吉や高梨庄兵衛が鰻を食べながら県庁の話をしていたのは創作です(笑)。
物語を書いていると、創作した話より史実の方が面白いことがあります。
山崎屋も、そんな「これ、本当にあったの?」を楽しんでいただきたくて登場してもらいました。




