第二十二話 もう一度、浦和へ①
浦和へ向かう中山道を歩きながら、勇吉が考えていたのは県庁のことではなかった。
「なあ、清兵衛」
「何だ」
「昼は山崎屋だよな?」
少し前を歩いていた清兵衛は、振り向きもせずに答えた。
「まだ蕨を出たばっかりだろ。浦和まで半分も来てねえぞ」
「だから聞いてんだよ。着いてから違う店に行くなんて言われても困るだろ」
「何が困るんだ」
「鰻食えねえだろ」
隣を歩いていた宗助が笑った。
「今さっき朝飯食ったばかりだろ」
「昼飯の鰻くらい楽しみにしたっていいだろ」
「お前、何しに浦和へ行くのか分かってるか?」
清兵衛に聞かれ、勇吉は少し考えた。
「県庁だろ?」
「何で疑問なんだよ」
「でも合ってるだろ」
「だったら鰻よりそっちを気にしろ」
「気にしてるよ。鰻食った後でな」
「お前なあ……」
清兵衛は呆れたように首を振ったが、勇吉は構わず歩き続けた。
県庁と言われても、やはりよく分からない。岩槻に置くことになっているのに浦和では役所が動いていて、蕨では加兵衛たちが何とかこちらへ持ってこられないかと考えている。昨日、岡田家で説明を聞いて少しは理解したつもりだが、誰かに同じことを説明しろと言われたら、きっと途中で分からなくなる。
ただ、清兵衛たちがもう一度浦和を見たいと言っているのだから、付き合ってやればいい。自分も前とは違うものが見えるかもしれないし、せっかく来たなら旨い鰻も食べたい。
勇吉には、そのくらいで十分だった。
浦和宿へ入る頃には、道を行く人の数も増えていた。
朝の中山道には荷を積んだ馬や旅人が行き交い、道沿いの店からは客を呼ぶ声が飛んでいる。旅籠の前では宿の者が忙しそうに出入りし、荷車の車輪が道の窪みに落ちるたび、積まれた木箱ががたがたと音を立てた。
馬方が声を張り上げると、驚いた馬が首を振り、その脇を書付を抱えた男が迷惑そうに通り抜けていく。
清兵衛は宿場へ入ってから、何度も足を止めていた。
「なあ、何見てんの?」
「黙って見てろ」
「だから何を見りゃいいんだよ」
「道だよ。店も、荷車も、人の流れもな」
「全部じゃねえか」
「だから全部見るんだよ」
そう言われても、勇吉には何をどう見ればいいのか分からない。
ふと目に留まったのは、大きな荷を右肩に担いで歩いている男だった。荷の重さに引かれるように身体を傾け、荷を下ろしてからも片方の肩だけが上がっている。
あれは肩だけじゃないな。腰も張ってそうだ。
「勇吉」
「ん?」
「聞いてるか?」
「聞いてるよ」
「今、何の話してた?」
「……道?」
「最後しか聞いてねえじゃねえか」
清兵衛が呆れる横で、宗助は道沿いの旅籠を眺めていた。
「泊まりも増えてるのかもしれんな」
「分かるのか?」
「何となくだがな。馬の出入りも多い」
宗助は宿の前に置かれた荷物を見てから、馬を引いて歩く男へ目を移した。
「ただ、馬が多けりゃいいってもんでもないな」
「何で?」
「馬をつないでおく場所があっても、餌を食わせなきゃならんし、水もいる。荷を降ろす場所も必要だろ」
「そりゃそうだな」
「十頭置ける場所があったとしても、十頭来たらそれでいっぱいだ。次の馬が来たらどうする?」
勇吉は少し考えた。
「帰ってもらう?」
「お前なあ」
「だって入らねえんだろ。しょうがねえじゃねえか」
「そういうわけにいかねえから考えてるんだよ」
宗助は苦笑しながら、もう一度旅籠の方を見た。
「蕨にも昔、馬を置いてた場所があるはずなんだがな。そういう場所を使えりゃ、少しは何とかなると思ってたんだが」
宗助は馬小屋の方へ目を向けた。
「どうやら、馬を置く場所だけじゃ足りねえらしい」
その言葉に清兵衛も頷いた。
「土地があれば済む話じゃねえってことだな」
「お前がそれ言うのかよ」
「何がだ?」
「土地さえあれば何とかなるって、いつも言ってるじゃねえか」
「そんなこと言ってねえよ。土地がなきゃ始まらねえって言ってるんだ」
「似たようなもんだろ」
「全然違う!」
宗助が笑い出したので、清兵衛はそれ以上言い返さず、役所の方へ歩き始めた。
近づくにつれて人の動きが慌ただしくなった。役所へ入る者と出てくる者がすれ違い、その近くでは人足が荷を運んでいる。馬を引いた男の声が上がり、道の端へ寄った荷車から木箱が次々と降ろされていた。
「なんか人、多いよな。それに、みんな忙しそうだ」
「そこなんだよ」
「何が?」
「役所だけ持ってくりゃ終わりじゃねえってことだ」
清兵衛は荷車を指した。
「あれを運ぶ奴がいるだろ。馬もいる。役人もいるし、役人に用がある奴も来る。泊まる場所も飯を食う場所も必要になる」
「そりゃ腹減るからな」
「そこだけ食いつくなよ」
「大事だろ、飯」
「大事だけど、今はそういう話じゃねえんだよ」
宗助は二人のやり取りを聞きながら、荷車から降ろされた木箱を眺めていた。
「荷を降ろすだけでも、あれだけ人がいるんだな」
「ああ。蕨で同じことをするなら、荷車が通れる道も考えなきゃならねえ」
「宿の裏へ何でも積んどくわけにもいかねえしな」
清兵衛は頷いたが、いつものようにすぐには言葉を返さなかった。
土地の値段を聞いている時なら、もう何か言っていそうなものなのに、今日は黙ったまま荷車を追っている。
何をそんなに考えているのか聞こうとした時、向こうから歩いてきた男が三人に気づいて足を止めた。
「……また来たのか」
どこかで見た顔だった。
勇吉は少し考えて、すぐに思い出した。
「あ、鰻の人」
「俺は鰻じゃねえよ。何だよ、鰻の人って」
高梨庄兵衛が露骨に顔をしかめた。
「庄兵衛さんだったな」
宗助が声を掛けると、庄兵衛も軽く手を上げた。
「今度は何だ。まだ土地でも探してんのか?」
「今日はもう一度、役所の周りを見に来たんだ」
清兵衛が答えると、庄兵衛は三人の顔を順番に見た。
「蕨で土地や建物を見て回ってるって話、本当だったのか」
「なんだ、もうそっちまで話が行ってんのか」
「中山道だぞ。人が歩けば話も歩くさ」
清兵衛と宗助が顔を見合わせた。
その横で、勇吉にはもっと気になることがあった。
「今日、山崎屋行く?」
三人が一斉にこちらを見る。
「……何だよ」
最初に吹き出したのは庄兵衛だった。
「お前、本当にそればっかりだな」
「せっかく浦和来たんだから食いてえだろ」
「県庁見に来たんじゃねえのか?」
「ちゃんと見てるだろ」
勇吉は役所を指した。
「ほら」
「指差しただけじゃねえか」
「見たことには変わんねえだろ」
庄兵衛が笑っている横で、清兵衛は役所の方へ顎を向けた。
「実際どうなんだ。人は増えてるのか?」
「増えてるな。役所に用がある奴も来るし、荷を運ぶ奴もいる」
「宿は?」
「足りなくなる時がある」
「馬は?」
「そっちも似たようなもんだ。急に馬小屋を増やせるわけじゃねえし、荷を置く場所が欲しいって話もある」
宗助が身を乗り出した。
「馬の世話はどうしてる?」
「宿や馬を扱う連中が何とかしてるが、それだって手間がかかる。世話する人間が足りねえ時もあるらしい」
「やっぱりそうか……」
宗助は腕を組み、道の向こうにある馬小屋へ目を向けた。
今朝まで考えていた馬十頭の置き場所が、それだけでは済まないことを改めて思い知らされたらしい。
清兵衛も役所の周りを見渡した。
「役所があるだけで、こんなになるのか」
「あるだけじゃねえよ。そこで人が働いてんだ。働く奴がいりゃ、そいつに用がある奴も来る。荷物も来るし、泊まる奴もいる。腹だって減る」
「やっぱ飯は大事だろ」
「今そこじゃねえ」
「庄兵衛さんも言ってんだろ」
「話の一つだよ」
庄兵衛は呆れながらも、どこか楽しそうだった。
その時、近くから低い呻き声が聞こえた。
勇吉が目を向けると、荷を下ろしていた男が腰を押さえ、途中まで身体を起こしたまま止まっていた。先ほどから気になっていた、右肩にばかり荷を担いでいた男だった。
「やっぱりな。ちょっと待ってろ」
「何だ?」
「あいつ、腰痛そうだから見てくる」
清兵衛の返事を待たずに男のところへ行くと、勇吉は声を掛けた。
「おい、大丈夫か?」
「ああ……ちょっと腰をやっちまったみてえで」
「いつからだ?」
「さっき荷を下ろした時だよ。急に痛くなってな」
「脚は動くか? しびれたりはしてねえか?」
「しびれはねえけど、伸ばすと痛え」
「無理に伸ばすな。ちょっと見せてみろ」
勇吉は男を道端へ座らせ、背中から腰へ手を当てた。荷を担いでいた右肩だけでなく、反対側の脚にも妙な力が入っている。痛むところを無理に動かさず、身体の向きや力の入り方を確かめながら手を入れていくと、男の強張った表情が少しずつ緩んでいった。
しばらくして立たせてみると、男は恐る恐る身体を起こし、驚いたように勇吉を見た。
「……あれ、さっきより起きられるぞ」
「まだ痛むだろ。今日は無理すんなよ」
「でも、これなら仕事が出来そうだ」
「重いもんは持つな。今無理して動けなくなったら、もっと仕事にならねえだろ」
男は何度か腰を確かめ、礼を言って仲間のところへ戻っていった。
勇吉が三人のところへ戻ると、庄兵衛が何とも言えない顔でこちらを見ていた。
「何だよ」
「いや……お前、本当にそういう仕事してんだな」
「信じてなかったのかよ」
「鰻食ってるところしか見てなかったからな」
「仕事しなきゃ鰻食えねえよ」
「そりゃそうだ」
庄兵衛は男の背中をもう一度見た。
「で、あれで治ったのか?」
「治ってねえよ。ちょっと動けるようにしてやっただけ」
「そういうもんなのか」
「身体なんかそんな簡単じゃねえよ。うちまで来りゃ、もう少しちゃんと見てやれるけどな」
庄兵衛は少し感心したように頷いた。
「こいつ、こういうのだけは真面目なんだよ」
清兵衛が横から余計なことを言う。
「こういうのだけって何だよ。俺はいつでも本気だよ」
「県庁の話もそのくらい真面目に聞け」
「俺、役人じゃねえし」
「お前……そういうところだよ」
庄兵衛は声を出して笑った。
その後は庄兵衛に案内されながら、役所の周りを歩いた。
清兵衛は荷がどこから来て、どこへ運ばれるのかを聞き、宗助は旅籠の出入りを眺めながら、馬を置く場所や泊まる人間のことを尋ねている。
勇吉も一応、見ていた。
ただ、役所へ急ぐ男が肩を押さえながら歩いていたり、人足が腰を庇って荷を担いでいたりすると、どうしてもそちらが気になってしまう。
県庁が来れば、蕨にもこういう人間が増えるのだろうか。
そんなことを考えていると、庄兵衛がふいに足を止めた。
「ところで、お前ら」
「何だ?」
「蕨に県庁を持ってくるつもりなのか?」
清兵衛はすぐには答えなかった。
「まだ、そんな話が出来るかどうか調べてるところだよ」
「そうか」
庄兵衛は役所の方を見た。
「まあ、蕨で何を考えるのも勝手だけどな」
「何だよ」
「こっちには、役所がなくなったら困る奴もいるんだぞ」
その言葉に、清兵衛と宗助が黙った。
庄兵衛は続けた。
「宿も飯屋も、荷を運ぶ奴らもな。役所があるから仕事が増えたって喜んでる奴もいる。今じゃ、それを当てにして商売してる奴だっているんだ」
「……そうだな」
清兵衛が静かに頷いた。
「お前らが悪いって言ってるわけじゃねえよ。ただ、県庁を持ってくるってのは、こっちから見りゃ持っていかれるってことだからな」
勇吉は庄兵衛の顔を見た。
蕨では、県庁が来たら何が出来るかという話ばかりしていた。馬を置く場所を探し、土地の値段を調べ、飯屋の女は役人に何を食わせようかと考えている。
けれど、浦和にはもう役所があって、それで暮らしている人間がいる。
そんな当たり前のことを、勇吉は今まであまり考えていなかった。
「……そりゃ、そうだよな」
思わず口にすると、庄兵衛がこちらを見た。
「お前も分かるのか?」
「それくらい分かるよ」
「鰻のことしか考えてねえと思ってた」
「失礼だな!」
庄兵衛が笑い、清兵衛も少しだけ表情を緩めた。
「まあ、俺たちもまだ何も決められる立場じゃねえからな」
「ああ。それは分かってるよ」
庄兵衛はそう言ってから、腹をさすった。
「さて、そろそろ昼だな」
勇吉が顔を上げた。
「山崎屋?」
「お前、今の話聞いてたか?」
「聞いてたよ。だから腹減ったんだろ」
「どういう理屈だよ!」
庄兵衛が呆れた声を上げると、宗助がとうとう笑い出した。
県庁の話は、まだ何一つ決まっていない。それでも、蕨と浦和では同じ県庁をまるで違うものとして見ているらしい。
勇吉にも、そのことだけは少し分かった。
もっとも、昼飯の話が出た以上、今は山崎屋の方が気になって仕方がなかった。




