第二十三話 もう一度、浦和へ②
昼になり、結局四人で山崎屋へ入った。
戸を開けた途端、炭の熱と蒲焼の香りが鼻をくすぐった。奥では鰻を焼く音がして、先客の男たちが酒を酌み交わしている。勇吉は思わず鼻を鳴らし、清兵衛より先に席へ向かおうとして肩をつかまれた。
「おい、勝手に行くな」
「席くらいどこでもいいだろ」
「庄兵衛さんが案内してくれてんだよ」
振り返ると、庄兵衛はすっかり顔馴染みらしく、店の者に軽く声を掛けていた。
「庄兵衛さんは、よく来るのか?」
宗助が尋ねると、庄兵衛は慣れた様子で腰を下ろし、「まあな。近いし、旨いからな」と答えた。
「いいなあ」
勇吉が羨ましそうに言うと、庄兵衛が笑った。
「お前も蕨から通えばいいだろ」
「毎日?」
「誰が毎日来いって言ったんだよ」
「毎日は無理だな。仕事あるし」
「仕事なくても銭が続かねえだろ」
「それもそうだ」
四人が笑っているうちに、蒲焼が運ばれてきた。
香ばしい匂いが立ち上ると、勇吉の頭からはさっきまでの県庁だ土地だという話が一度きれいに消えた。
「くぅ~、やっぱ旨えな」
「静かになったと思ったら、それか」
「旨いもん食ってる時くらい静かに食わせろよ」
「さっきまでお前が一番うるさかったんだろ」
清兵衛の声を聞き流して鰻を口へ運ぶと、柔らかな身と香ばしく焼けた皮に、たれの味がよく合う。
何度食っても旨い。
しばらく黙って箸を動かしていた勇吉は、半分ほど食べたところでふと蕨の町を思い浮かべた。
「蕨にもこういう鰻屋があればいいのにな」
「茶屋ならあるだろ」
清兵衛が答える。
「茶屋じゃなくてよ。鰻だよ、鰻」
「お前、県庁見に来たんじゃなかったのか」
「もう見たろ」
「まだ見てる途中だよ」
「でも蕨にあったら、浦和まで来なくていいだろ」
庄兵衛が笑った。
「じゃあ蕨で誰かにやらせりゃいい」
「俺が?」
「誰がお前にやれって言ったんだよ」
「俺、鰻焼けねえぞ」
「だからお前じゃねえよ」
宗助まで笑い出した。
「勇吉がやったら、客に食わせる前に自分で全部食いそうだな」
「そんな食わねえよ」
「酒も置いたら終わりだな」
「それはちょっといいな。酒と鰻か」
「店、すぐなくなりそうだな」
勇吉は笑いながら残っていた鰻を口へ運んだ。
蕨にもこんな店があれば、本当にいい。県庁が来るとか来ないとかより、そっちの方がずっと分かりやすかった。
そんな勇吉を横目に、清兵衛は庄兵衛へ向き直った。
「しかし、役所の近くは随分と人が動いてるな」
「ああ。あの辺りじゃ商売の仕方も少し変わったよ」
「土地の値段も上がったんじゃねえか?」
「さあな。売りたい奴ばかりじゃねえから、値段だけ聞いても分からんぞ」
「それはそうだな」
清兵衛は少し考えてから頷いた。
「でも、役所の近くに土地を持ってたら、今頃いい値がついただろうな」
「ほら、また土地の話だ」
勇吉が口を挟む。
「何がだよ」
「お前、土地のことばっかり考えてるだろ」
「土地の値段も知らずに町の話なんか出来るか」
「鰻の値段なら分かるぞ」
「聞いてねえよ!」
庄兵衛は笑いながら、清兵衛へ顔を向けた。
「まあ、土地は大事だがな。役所が来たからって、誰もが喜んで売るわけじゃねえよ」
「それは蕨でも同じだ」
「だろうな。長く住んでる家もあるし、商売を続けたい奴もいる。土地ってのは、銭だけで動くもんじゃねえからな」
清兵衛は黙って頷いた。
先日、勇吉と一緒に訪ねた地主のことを思い出しているのかもしれない。
あの地主も、土地を売るとは言わなかった。ただ、話を聞くくらいならいいと答えただけだった。
「庄兵衛さんは、役所が岩槻へ行ったら困るのか?」
宗助が尋ねると、庄兵衛は箸を置いた。
「そりゃ困る奴はいるだろうな。俺だって商売の相手が減るのは嬉しくねえよ」
「でも、宿場の仕事がなくなるわけじゃないだろ」
「もちろんだ。浦和は役所が出来る前から宿場だったんだからな。ただ、一度増えた客を当てにして商売を広げた奴は、急にいなくなったら困るだろうよ」
宗助は少し考えた。
「蕨でも同じことになるかもしれんな」
「何が?」
「県庁が来ると思って宿を増やして、結局来なかったらどうするって話だ」
清兵衛も頷いた。
「飯屋の女も同じこと言ってたな」
「ああ。店を広げるかどうか迷ってた」
勇吉が思い出したように言うと、庄兵衛が顔を上げた。
「もうそんな話してるのか?」
「してるよ。役人が何食うのかって俺に聞いてきた」
「何でお前に聞くんだよ」
「東京行ったからだって」
「で、何て答えた?」
「飯」
庄兵衛は一瞬黙り、それから声を出して笑った。
「そりゃ飯だろ!」
「俺だってそう思ったよ」
「何食ったか覚えてねえのか?」
「魚はあったぞ」
「お前、本当に飯のことしか覚えてねえんだな」
「鰻は覚えてるぞ」
「それは今食ってるからだろ!」
清兵衛と宗助まで笑い出した。
しばらくして笑いが収まると、庄兵衛は改めて清兵衛へ向き直った。
「まあ、蕨で何を考えるにしても、急ぎすぎねえことだな」
「ああ」
「こっちだって、役所がどうなるか分からねえんだ。蕨へ行くなんて話は、まだ誰も決めちゃいねえんだろ?」
「そうだよ。俺たちが勝手に考えてるだけだ」
「だったら、今のうちによく見とけ。役所があると便利なことも増えるが、面倒なことも増える」
清兵衛は真面目な顔で頷いた。
勇吉は残った飯を食べながら、二人の話を聞いていた。
県庁が来れば、蕨の人々は喜ぶかもしれないが、浦和では困る人間もいる。それに、県庁が来ると思って店を広げたのに、結局来なかったら蕨でも困る人間が出るだろう。
どちらにしても、簡単な話ではないらしい。
そんなことを考えているうちに、鰻を食べ終わってしまった。
もう少し食いたいが、さすがにもう一人前頼んだら清兵衛に何を言われるか分からない。
勇吉は名残惜しそうに器を見つめた。
◇
山崎屋を出ようとしたところで、勇吉はふと思い出した。
「……あ」
「今度は何だ」
「鰻」
清兵衛の眉間に皺が寄った。
「今食っただろ」
「違えよ。家の分。持って帰れるか聞いてくる」
清兵衛が珍しいものでも見るように勇吉を見た。
「何だよ」
「いや。今日は覚えてたんだなと思って」
「俺を何だと思ってんだよ」
宗助が小さく笑った。
「今度は自分で思い出したんだな」
「当たり前だろ!」
勇吉は店へ戻り、家へ持ち帰る分を頼んだ。
店の者は慣れた様子で話を聞き、帰る時までに包んでおくと言ってくれた。
「忘れて帰るなよ」
清兵衛が言う。
「忘れねえよ!」
「鰻食ったら満足して、そのまま帰りそうだからな」
「俺を何だと思ってんだ」
「鰻のことしか考えてねえ奴」
「違えよ。酒のことも考えてるぞ」
「もっと悪いだろ!」
庄兵衛が笑いながら先に店を出た。
その後を追って表へ出ると、昼の中山道には朝とはまた違った賑わいがあった。旅籠の前では客が荷をまとめ、馬を引いた男が道の端で誰かを待っている。役所へ向かう者もいれば、そこから出てくる者もいて、人の流れは途切れる様子がなかった。
清兵衛はしばらくその光景を眺めてから、口を開いた。
「思ってたより大きな話だな」
「役所?」
勇吉が尋ねる。
「役所だけじゃねえよ。その周り全部だ。蕨じゃ馬を集めりゃいい、宿を増やしゃいい、飯を食わせりゃいいって、それぞれ考えてたけど……ここじゃもう全部つながってる」
宗助も道の向こうに並ぶ旅籠へ目を向けた。
「馬十頭置ける場所を探してたけど、それだけじゃ足りねえな」
「まだ馬のこと考えてんのか?」
「俺の仕事だからな」
宗助は笑いながら答えた。
「蕨へ帰ったら、あの馬置き場の近くに井戸があったか確かめてみるよ。餌を置く場所も考えなきゃならんし、荷車が通れるかどうかも見ておきたい」
「そこまでやるのか?」
「県庁が来るなら必要になるだろ」
清兵衛も頷いた。
「俺は道をもう少し調べる。荷車が通れねえようじゃ、土地があっても使い道が限られるからな」
「お前ら、随分忙しくなりそうだな」
「お前も他人事じゃねえぞ」
「俺?」
「県庁が来たら、役人も人足も増えるだろ。お前のところへ来る客だって増えるかもしれねえ」
勇吉は少し考えた。
客が増えるのはありがたいが、今のままで全部診られるだろうか。朝から晩まで働くことになったら、桜屋へ飲みに行く時間が減ってしまう。
それは困る。
「……あんまり忙しくなるのも考えもんだな」
「何でだよ」
「酒飲みに行けねえだろ」
清兵衛はしばらく勇吉を見つめ、それから大きなため息をついた。
「お前、結局そこかよ」
「大事だろ」
「まあ、お前らしいけどな」
宗助が笑いながら言った。
「客が増えたら、もう一人雇えばいいんじゃねえか?」
「誰を?」
「知らねえよ。お前が考えろ」
「俺の代わりに身体診られる奴なんか、そう簡単に見つからねえよ」
勇吉はそう答えてから、少し考えた。
今まで、自分の店を大きくしようなどと思ったことはなかった。客が来れば診るし、暇なら休む。仕事が終われば酒を飲みに行く。それで十分だった。
けれど、蕨が本当に変わるのなら、自分も今のままではいられないのかもしれない。
清兵衛はそんな勇吉の様子に気づいたのか、少し笑った。
「まあ、まだ県庁が来るって決まったわけじゃねえけどな」
「そうだよな」
「だから今のうちに、出来ることを考えとくんだよ」
清兵衛は役所の方へ目を向けた。
「何が足りねえか、少しは分かったからな」
その後も三人はしばらく浦和の町を歩き、庄兵衛から聞ける範囲で宿場の様子を確かめた。
帰る頃になると、清兵衛は道幅や土地の使い方について、宗助は馬や荷物の扱いについて、それぞれ考えることが増えていた。
庄兵衛は三人を見送りながら言った。
「まあ、蕨で何か始めるなら、よく考えてやることだな」
「ああ。今日見たことは持ち帰って、加兵衛たちと話してみるよ」
「そうか。なら、また来ることもあるだろうな」
「その時はよろしく頼む」
「役所のことなら、分かる範囲で教えてやるよ」
庄兵衛はそう言ってから、勇吉へ目を向けた。
「お前は?」
「俺?」
「また来るのか?」
「鰻食えるなら」
「やっぱりそれか!」
庄兵衛は呆れたように笑った。
別れ際、山崎屋へ寄って包んでもらった鰻を受け取ると、勇吉は大事そうに抱えた。
「そんなに大事か?」
清兵衛が聞く。
「当たり前だろ。家の分だぞ」
「落とすなよ」
「落とさねえよ」
「途中で食うなよ」
「食わねえよ!」
宗助が横で笑った。
「帰るまでに腹減ったら危ねえな」
「お前ら、俺を何だと思ってんだよ」
そう言いながらも、勇吉は包みを持ち直した。
今度こそ、ちゃんと家へ持って帰るつもりだった。
◇
帰り道では、清兵衛と宗助が今日見てきたことを話し続けていた。
清兵衛は役所の周りの土地や道の広さについて、宗助は旅籠や馬の出入りについて、互いに気づいたことを確かめ合っている。
勇吉も最初は聞いていたが、途中からは道を行く人々の姿へ目が向いていた。
荷を担ぐ男の肩や、疲れた足取りで歩く旅人を見ると、ついどこに無理が掛かっているのか考えてしまう。
同じ道を歩いていても、清兵衛や宗助とは見ているものが違う。
「帰ったら加兵衛たちに話すぞ」
清兵衛が振り返った。
「俺も?」
「お前も見ただろ」
「見たけど」
「じゃあ来い」
「何話せばいいんだよ」
「見たこと話せばいい」
それが一番困る。
清兵衛が何を見ていたのかは知らないが、勇吉が今日よく覚えているのは、腰を痛めた人足と、肩の下がった役人、それに片脚を引きずっていた馬方だった。
「俺、人の身体のことしか分かんねえぞ」
「それでいいんだよ」
「何がいいんだよ」
「俺たちには分からねえことだろ」
清兵衛はそう言ってから、少し笑った。
「土地は俺が見る。宿や馬は宗助が見る。お前は人の身体を見てる。それでいいじゃねえか」
勇吉は清兵衛の顔を見た。
珍しく、まともなことを言っている。
「……何だよ」
「いや、たまにはいいこと言うなと思って」
「たまには余計だ!」
宗助が笑い出した。
勇吉もつられて笑いながら、腕に抱えた包みを持ち直した。
県庁が蕨へ来るかどうかは、まだ分からない。それでも、清兵衛たちは少しずつ何かを確かめている。宗助も今朝までとは違うことを考え始めたし、自分も今まで気にしていなかったことが気になるようになっていた。
町が変わるというのは、こういうことなのかもしれない。
もっとも、そんな大きな話を考え続けていると、腹が減る。
勇吉は包みを見た。
中には山崎屋の鰻が入っている。
妻に食わせてやろうと思って買ったものだが、さっきから香ばしい匂いが鼻をくすぐって仕方がない。
「……なあ、宗助」
「何だ?」
「鰻って、冷めても旨いかな」
宗助は勇吉の抱えた包みを見た。
「食うなよ」
「まだ何も言ってねえだろ!」
「顔に書いてあるぞ」
清兵衛まで振り返った。
「おい勇吉。それは家の分だろ」
「分かってるよ!」
「じゃあ我慢しろ」
「だから食わねえって!」
二人が笑う中、勇吉は包みをしっかり抱え直した。
浦和で見てきたことは、帰ったら加兵衛たちに話そう。清兵衛や宗助とは違う話になるだろうが、それも今日、自分が見てきた浦和だった。
ただ、その前に一つだけ、どうしても確かめたいことがある。
蕨へ着くまで、この鰻を食わずにいられるだろうか。
勇吉は包みから目をそらし、少しだけ歩く足を速めた。
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