第二十四話 蕨には何がある① 桜屋の夜
浦和から蕨へ戻ると、勇吉は清兵衛たちと別れ、真っ先に家へ寄った。
「お春、これ」
声を掛けながら山崎屋の包みを差し出すと、妻は受け取るより先に勇吉の顔を見た。
「……どうしたの?」
「何が?」
「あなたがちゃんとお土産買ってきたから」
「俺だって買う時は買うよ」
「東京では忘れてたのに?」
「今日はちゃんと覚えてただろ」
「清兵衛さんに言われたんじゃないの?」
「俺が自分で思い出したんだよ」
そこは大事なので訂正しておいた。
包みを受け取ったお春は中を確かめ、鰻だと分かると口元を緩めた。山崎屋のものだと教えると、勇吉が昼に何を食べたのかもすぐに察したらしい。
「自分も食べてきたんでしょ」
「食ったよ。旨かったぞ」
「やっぱりね」
「何だよ。食ったら駄目なのか?」
「駄目なんて言ってないでしょ。どうせ自分が食べたくて行ったんだろうなと思っただけ。でも、嬉しいよ」
何も間違っていないので言い返せない。
朝から浦和を歩き回り、旨い鰻も食ったうえ、土産まで忘れずに買ってきた。今日やることはもう十分だろう。あとは酒でも飲みながら、ゆっくり過ごせばいい。
そう思って外へ出たところで、清兵衛と宗助が待っていた。
「じゃあ行くぞ」
「どこに?」
「岡田家だよ」
「なあ、今日も俺行かなきゃ駄目か?」
「お前も見ただろ」
「見たけど、俺が見たのはお前らと違うぞ」
「それでもいいから来い」
「明日じゃ駄目?」
「駄目だ」
「じゃあ酒出る?」
「知らねえよ」
それなら断ろうかと思ったが、二人とも勇吉がついてくるものと決めているらしく、もう歩き始めていた。
何なんだよ。
仕方なく後を追いながら、勇吉は家の方を振り返った。せっかく買ってきた鰻を、お春は今頃どうしているだろう。冷めないうちに食べてくれればいいが、そう考えると自分ももう一口くらい食べたくなってくる。
昼にあれだけ食ったのに、我ながら不思議なものだった。
*
岡田家には加兵衛だけでなく、権蔵も来ていた。
庭先では誰かが薪を割っているらしく、乾いた音が時折響いてくる。部屋へ入ると、加兵衛はすでに紙と筆を用意しており、権蔵は腕を組んで座っていた。
「やっと来たか。ずいぶん遅かったな」
「浦和まで行ってたんだからしょうがねえだろ」
「それは知ってる。帰ってから何してたんだ?」
「家に土産届けてたんだよ」
「珍しいこともあるもんだな」
「お前までそれ言うのかよ」
勇吉が腰を下ろすと、加兵衛は清兵衛たちへ顔を向けた。
「それで、どうだった?」
清兵衛は浦和の役所の周りで見た人や荷車の動きを話し、宗助は旅籠や馬の出入りについて説明した。
役所が動けば、そこへ人が集まる。人が集まれば、泊まる場所も飯も必要になる。そんな話は浦和で何度も聞いたが、加兵衛は途中で口を挟まず、時折確かめるように質問していた。
勇吉も一応、話を聞いていた。
もっとも、浦和で腰を痛めていた人足のことは誰も話さない。あれも今日見てきた浦和の一つなのだが、今は関係ないのかもしれない。
「それで清兵衛、お前はどう思った?」
加兵衛に尋ねられ、清兵衛は少し考えた。
「思ってたより面倒だな」
「何がだ」
「全部だよ。役所だけ持ってくりゃ済むと思ってたわけじゃねえけど、浦和じゃ宿も店も人足も、もう役所の周りで動いてる。蕨で同じことをするなら、考えなきゃならねえことが山ほどある」
権蔵が太い腕を組み直した。
「だから蕨じゃ無理だってのか?」
「違う。何が足りねえか分からなきゃ、話の持っていきようもねえだろ」
「で、何が足りねえ?」
「それがまだ、はっきりしねえんだよ」
清兵衛らしくない答えだった。
いつもなら、あそこに土地がある、あの家なら使える、そんな話がすぐに出てくる。ところが今日は、浦和で見たものを思い返すように黙っている。
宗助がその沈黙を引き取った。
「宿は今ある旅籠を使えば、ある程度は何とかなる。ただ、馬はそう簡単じゃねえな。置き場所だけじゃなく、水も餌もいる。世話する人間だって必要だ」
「土地はどうだ?」
「空いてるところはあるさ」
清兵衛が答えた。
「ただ、使わせてもらえるかどうかは別だ。持ち主が分からねえところもある」
権蔵はそれを聞くと、少し鼻を鳴らした。
「だったら最初から俺に聞け」
「だから今聞いてんだろ」
「今じゃ遅えんだよ。先に蕨を見りゃよかったんじゃねえか?」
「浦和を見なきゃ、何がいるのか分からねえだろ」
「そりゃそうか」
あっさり納得した権蔵に、勇吉は思わず笑ってしまった。
「何だよ」
「いや、もう少し言い合うのかと思って」
「喧嘩しに来たんじゃねえぞ」
「そうなの?」
「お前は何しに来たんだ」
「酒が出るかと思って」
「出ねえよ」
勇吉は心の中で舌打ちした。
加兵衛はそんなやり取りを気にする様子もなく、膝の上で組んでいた手をほどいた。
「浦和に何があるかは、少し分かった」
部屋の中が静かになった。
「だったら、今度は蕨だ。俺たちは、蕨に何がある?」
誰もすぐには答えなかった。
蕨に何があると言われても、蕨は蕨だ。本陣があり、旅籠があり、店があって家がある。中山道には毎日人が通り、朝になれば商売が始まり、日が暮れれば桜屋に灯りがともる。
勇吉にとっては、それがいつもの町だった。
宗助が先に口を開いた。
「宿ならある」
「土地もある」
清兵衛が続く。
「人もいるぞ」
権蔵の言葉を聞いて、加兵衛は頷いた。
「だったら、まずそれを確かめよう。どこに何があって、誰が使ってるのか。足りねえものを数えるのは、その後だ」
嫌な予感がした。
「……誰が?」
「お前たちが」
「嘘だろ。またかよ」
「今度は蕨だ。遠くへ行くわけじゃねえ」
「蕨くらいお前らだけで見ろよ」
「だから勇吉も見るんだよ」
「俺は毎日見てるって」
「じゃあ詳しいだろ」
「そういう意味じゃねえよ。何言っても駄目じゃねえか」
結局、翌朝から町を見て回ることになった。
勇吉が最後にもう一度酒のことを尋ねると、加兵衛は紙を片付けながら、今度は顔も上げずに「出ねえ」と答えた。
何のためについてきたんだ。
*
岡田家を出る頃には、空がすっかり夕暮れの色に変わっていた。
清兵衛と宗助は明日の段取りを話しながら歩いていたが、勇吉はその横で、ずっと別のことを考えていた。
「なあ、清兵衛」
「何だよ」
「結局、酒出なかったな」
「まだ言ってんのか」
「だってよ、浦和まで歩いて、帰ってきてからまた話し合いだぞ。少しくらい飲ませてくれたっていいだろ」
「酒飲みに行ったわけじゃねえんだから、当たり前だろ」
「じゃあ、これから飲みに行こうぜ。宗助も来るだろ?」
「俺もか?」
「当たり前だろ。三人で浦和まで行ったんだから、三人で飲まなきゃな」
「何だよ、その理屈は」
清兵衛が呆れたように言うと、宗助は笑いながら頷いた。
「まあ、一杯くらいなら付き合うか」
「そうこなくっちゃ」
「お前、最初からそのつもりだったろ」
「いや、岡田家で出ると思ってた」
「本当に酒のことしか考えてねえな」
「鰻のことも考えてるぞ」
「もっと悪いだろ!」
宗助が声を出して笑った。
三人はそのまま中山道へ出た。
日が落ちかけた蕨宿では、旅籠の前で遅れて着いた客が荷を下ろし、通り沿いの店からは夕飯の支度をする匂いが流れていた。昼間の慌ただしさが少しずつ落ち着き始める中、桜屋の暖簾の向こうからは、早くも賑やかな声が聞こえてくる。
「おう、やってるな」
勇吉が先に暖簾をくぐると、長い台の向こうにいたお咲が顔を上げた。
「あら、勇吉。今日は遅かったじゃない」
「浦和まで行ってたんだよ」
「聞いたよ。県庁を見に行ったんだって?」
「そうそう。ついでに旨い鰻も食ってきた」
「ついで?」
後ろから入ってきた清兵衛が笑った。
「こいつは鰻のついでに県庁を見てきたようなもんだよ」
「何だよ。ちゃんと役所も見ただろ」
「見たのは人の肩と腰ばっかりじゃねえか」
「仕事だからしょうがねえだろ」
お咲は三人を見比べると、呆れたように笑った。
「何だい、結局いつもと変わらないじゃない。ほら、座りなよ」
勇吉がいつもの場所へ腰を下ろすと、奥からお鈴が膳を持って出てきた。
「勇吉さん、清兵衛さん、宗助さん、いらっしゃい」
「おう、お鈴。今日も忙しそうだな」
「母ちゃんがまたお客さんと喋ってばっかりだからね」
「ちょっと、お鈴。ちゃんと働いてるでしょ」
「喋るのも仕事だって言うんでしょ?」
「そうよ。お客さんに楽しんでもらうのも大事なんだから」
お鈴は慣れた様子で笑い、三人の前に器を並べていった。
厨房からは包丁の音が聞こえている。
「源さん、何か食わせてくれよ」
勇吉が声を掛けると、奥から源次郎の返事があった。
「今、煮物が出来る。少し待ってろ」
「おう、頼む」
「お前、昼に鰻食ったんだろ」
「昼は昼だろ。もう夜だぞ」
「よく食うな」
「仕事してきたからな」
清兵衛がすかさず口を挟んだ。
「お前、今日はほとんど歩いてただけだろ」
「人足の腰も見てやったじゃねえか」
「それはそうだけどよ」
「ほら、仕事してんだよ」
宗助が笑っている間に、お鈴が酒を運んできた。
「勇吉さん、今日は飲みすぎないでね。明日も出かけるんでしょ?」
「何で知ってんだ?」
「さっき清兵衛さんが言ってたじゃない」
「そうだったか?」
「もう忘れたの?」
「まだ飲んでねえぞ」
お鈴は笑いながら徳利を置き、別の客に呼ばれるとそちらへ向かった。
勇吉が杯を手にすると、お咲が長い台越しに顔を寄せた。
「それで、浦和はどうだったの?」
「鰻が旨かった」
「それはもう聞いたよ。県庁の話だよ」
「そっちは清兵衛に聞いてくれ」
「何で俺なんだよ」
「お前が一番詳しいだろ」
清兵衛はため息をついたが、結局、浦和で見てきたことを話し始めた。
役所の周りでは人や荷が絶えず動き、旅籠には客が出入りし、馬を置く場所だけでなく餌や水まで必要になる。そんな話を聞いているうちに、近くで飲んでいた常連たちも少しずつ耳を傾け始めた。
「じゃあ、蕨にも役所が来るのか?」
客の一人が尋ねた。
「まだ分からねえよ。今は蕨に何があるか調べようって話になったところだ」
清兵衛が答えると、別の客が杯を置いた。
「役所が来りゃ、客も増えるんだろ?」
「そりゃ増えるだろうな」
「だったら桜屋も儲かるじゃねえか」
お咲は嬉しそうに笑った。
「そうなったらいいけどねえ。でも、あんまり忙しくなるのも困るわ」
「何でだよ。客が増えるんだぞ」
「だって、ゆっくりお酒を飲む暇がなくなるじゃない」
近くの客が吹き出した。
「女将、店のことより酒かよ」
「お客さんと飲むのも大事な付き合いでしょ?」
その時、厨房から源次郎の声が飛んできた。
「客が増えたら料理も増やさなきゃならねえ。俺はそっちの方が心配だな」
「父ちゃんは料理のことばっかりだね」
お鈴が空いた器を下げながら言った。
「母ちゃんはお酒のことばっかりだけど」
「お鈴、余計なこと言わなくていいの」
「だって本当でしょ」
お咲が何か言い返そうとしたところで、勇吉が笑いながら杯を差し出した。
「まあまあ、女将。とりあえず一杯くれよ」
「そうね。難しい話は飲みながらすればいいのよ」
「母ちゃん!」
「分かってるわよ。私はまだ飲まないって」
お鈴は疑わしそうな顔をしたが、何も言わずに奥へ戻っていった。
その様子を見ていた宗助が笑った。
「桜屋は役所が来ても来なくても、あんまり変わらなそうだな」
「そうかねえ」
お咲が首を傾げた。
「知らないお客さんが増えたら、私だって忙しくなるわよ」
「今だって知らない客は来るだろ」
「そりゃ来るけど、勇吉みたいなのばっかりなら楽なのにねえ」
「何だよ、それ」
「何を言っても怒らないし、勝手に飲んで食べてくれるじゃない」
「そんなの普通だろ。酒癖の悪い男と酒代をケチる男には、罰が当たっちまうって爺さんが言ってたからな」
「へえ、いいこと言う爺さんじゃないか」
「だろ?」
「でも、飲みすぎるなとは言われなかったのかい?」
「……それは覚えてねえな」
「都合のいいところだけ覚えてるんだねえ」
お咲が笑うと、清兵衛が横から口を挟んだ。
「どうせ酒飲んでる時に聞いたんだろ」
「そうかもしれねえな」
「そこは否定しろよ!」
宗助まで笑い出し、勇吉もつられて笑った。
そんなやり取りをしているところへ、源次郎が煮物を運んできた。
「ほら、出来たぞ」
「おっ、待ってました!」
「お前ら、相変わらず賑やかだな」
「源さんも一杯どうだ?」
「俺まで飲んだら誰が料理作るんだよ」
「女将がいるだろ」
「母ちゃんに任せたら、お客さんより先に自分が飲んじゃうよ」
空いた器を下げに来たお鈴がすかさず言うと、お咲が振り返った。
「ちょっと、お鈴!」
「だって本当でしょ?」
お鈴は涼しい顔で器を抱え、厨房へ戻っていった。
「まったく、誰に似たんだか」
「女将だろ」
勇吉が答えると、清兵衛も宗助も頷いた。
「間違いねえな」
「俺もそう思う」
「三人とも、もうお酒出さないよ!」
「そりゃ困る!」
勇吉が慌てて杯を隠すと、桜屋にまた笑い声が広がった。
その隙に源次郎が置いていった煮物へ箸を伸ばすと、よく味の染みた大根がほろりと崩れた。
「うまいな、これ」
「源次郎が作ったんだから当たり前でしょ」
「女将は作らねえの?」
「作るわよ。たまには」
「たまにかよ」
「文句ある?」
「ありません」
清兵衛と宗助が笑い、近くの常連たちまでつられて笑った。
店の奥では、まだ県庁の話が続いていた。
人が増えれば商売がよくなるという者もいれば、今の静かな蕨の方がいいという者もいる。浦和のように賑やかになるのを楽しみにする者もいれば、知らない人間が増えるのを嫌がる者もいた。
誰も県庁が本当に来るとは知らない。
それでも、自分の暮らしがどう変わるのかとなれば、誰にとっても他人事ではないらしい。
勇吉は酒を口へ運びながら、昼間の浦和を思い出した。
あそこでは役所の周りに人が集まり、荷を運ぶ男たちが働いていた。その一方で、庄兵衛は役所がなくなれば困る人間もいると言っていた。
蕨へ来れば喜ぶ者がいて、浦和からなくなれば困る者がいる。
役所一つ動かすだけでも、随分と面倒な話になるものだ。
「なあ、勇吉」
清兵衛が声を掛けた。
「何だよ」
「明日はちゃんと来いよ」
「どこに?」
「蕨を見て回るんだろ」
「ああ、そうだったな」
「忘れんなよ」
「忘れねえよ」
「朝からだぞ」
「分かってるって」
勇吉は杯を置き、少し考えた。
明日は蕨に何があるか調べるらしい。
蕨なら何十年も住んでいる。今さら調べることなんかあるのだろうか。
「なあ、源さん」
厨房へ向かって声を掛けると、源次郎が顔を出した。
「何だ?」
「蕨には何があると思う?」
源次郎は一瞬考え、それから勇吉を見た。
「お前、今まで何十年も蕨に住んでて、まだ分かんねえのか」
「だから俺もそう言ったんだよ!」
店に笑い声が広がった。
勇吉は杯を持ち上げながら、明日こそ早く仕事へ戻ろうと心に決めた。
もっとも、今日もすでに同じことを考えていた気がするのだが。




