第二十五話 蕨には何がある② 土地より人
翌朝、勇吉はまた清兵衛と宗助の二人に挟まれて蕨宿を歩いていた。
昨日は浦和、今日は蕨。明日こそ絶対に仕事をする。
店を開けて人の身体を診る。それが自分の仕事のはずなのに、最近は県庁だ土地だと歩いてばかりいる。昨夜も桜屋で一杯やって帰ったものだから、今朝はいつもより布団から出るのがつらかった。
もっとも、酒を飲んだことについては後悔していない。
問題は、朝から歩かされていることだ。
中山道にはすでに人が出ており、旅籠の前では干していたものを取り込む女がいて、少し先では馬の世話をしている。飯を炊く匂いに混じって馬の臭いまで漂ってくるのも、勇吉にはいつもの蕨だった。
清兵衛はそんな景色を眺めながら、道の脇にある土地や家を一つずつ確かめている。
「なあ勇吉、あそこは誰の土地だ?」
「知らねえ」
「お前の店の裏手だろ。知らねえのか?」
「店の裏だからって、全部知ってるわけねえだろ」
「じゃあ、あの家は?」
「どれ?」
「あそこで爺さんが薪を運んでる家だよ」
「ああ、あの爺さんなら知ってるぞ」
「おっ、誰だ?」
「腰が悪い」
「……名前を聞いてんだよ」
「この前なんか、家族に支えられてうちの店に来たんだぞ。歩くのもつらそうだったからな」
「だから、名前は?」
「名前は……何だったかな」
「何でだよ!」
「顔見りゃ分かるし、身体のことは覚えてるんだけどな」
横で宗助が笑い出した。
「清兵衛、勇吉に土地を聞くのが間違いなんじゃねえか?」
「店の近所だから知ってると思ったんだよ」
「腰のことなら知ってるぞ」
「もう分かったよ!」
そんな話をしていると、薪を抱えていた爺さんが勇吉に気づき、嬉しそうに手を上げた。
「おう勇吉、この前はありがとな。だいぶ楽になったぞ」
「そうか。でも、あんまり無理すんなよ。また動けなくなるぞ」
「仕事しなきゃ食えねえからな」
「だからって、あんな状態になるまで我慢するなよ。今度は早めに店来い」
「分かってるよ。今度はそうする」
「それならいいけどな」
爺さんは笑いながら薪を抱え直し、家へ戻っていった。
その後ろ姿を見送っていると、清兵衛が呆れたように口を開いた。
「お前、あれだけ話して名前思い出せねえのか?」
「顔と身体は覚えてるぞ」
「それじゃ土地の持ち主が分からねえだろ」
「だから最初から知らねえって言ってんじゃねえか」
宗助がとうとう声を上げて笑った。
その時、向こうから荷車がやってきた。
車輪が石に乗り上げ、積まれた荷が大きく揺れる。馬方が声を張り上げると、通りかかった旅人たちも足を止め、荷車が過ぎるのを待った。
清兵衛はその様子をしばらく眺めていた。
「やっぱり道も考えなきゃならねえな」
「何で?」
「あれだけの荷車が通るんだ。役所が出来て人や荷が増えたら、今のままで足りるかどうか分からねえ」
「中山道なんだから、通るだろ」
「通れるのと、使いやすいのは違うんだよ」
宗助が頷いた。
「馬を休ませる場所も、道から遠すぎりゃ困るしな。荷を運ぶたびに狭い道を行ったり来たりするわけにもいかねえ」
「だったら道を広げりゃいいじゃん」
「簡単に言うなよ。道の脇には家も店もあるんだぞ」
「じゃあ無理だな」
「だから考えてんだろ!」
清兵衛が呆れたように声を上げると、宗助はまた笑った。
勇吉には、昨日までと何が違うのかよく分からない。
同じ蕨の道を歩いているのに、清兵衛たちには別の町が見えているらしい。
*
少し進んだところで、今度は宗助が戸口の閉まった家を気にした。
「あそこ、最近あまり人が出入りしてねえよな」
「空いてるのか?」
「分からん。前は人が住んでたはずだが」
宗助が近くの家へ声を掛けると、中から女が出てきた。
女は宗助の顔を見るなり事情を聞き、家の持ち主は別のところに住んでいると教えてくれた。ただし、今後どうするつもりなのかまでは知らないらしい。
清兵衛がその話を聞いている間、勇吉は隣家の方を見ていた。
「あら、勇吉さん」
ちょうど戸口から顔を出した女が声を掛けてきた。
「うちの婆さん、また膝が痛いって言ってるんだよ」
「この前言ったこと、やってる?」
「やってないと思うよ」
「じゃあ俺が行っても同じだぞ」
「そう言わずに見てやってよ」
「店まで来られるなら連れてきて。歩くのがつらいなら、先にそう言ってくれ」
「分かったよ。ありがとうね」
女が家へ戻っていくと、清兵衛が隣で首を傾げた。
「お前、本当にあちこちで顔を知られてるんだな」
「そりゃ仕事してるからな」
「名前も覚えてるのか?」
「顔見りゃ分かるよ」
「名前は?」
「……顔見りゃ分かる」
「名前聞いてんだよ」
「うるせえな。身体のことは覚えてるんだからいいだろ」
勇吉にしてみれば、名前よりも先に身体の様子を思い出すことが多い。
腰を揉んだ爺さんに、肩が上がらなかった女、膝が痛くて座るのがつらい婆さん。名前を聞けば思い出すこともあるが、それより顔を見た時の方が、どこを痛めていたのかはっきりと思い出せる。
同じ腰痛でも、痛む場所も動き方も人によって違う。仕事柄、そういうことばかり気にしているうちに、いつの間にか身体の特徴で人を覚えるようになっていた。
清兵衛には呆れられるが、それで仕事に困ったことはあまりなかった。
そんな話をしていると、向こうから権蔵が歩いてきた。
「何だお前ら、まだこんなところにいたのか」
「勇吉が何も知らねえんだよ」
「えっ、何で俺のせいなんだよ?」
「土地だよ。誰の土地か聞いても腰が悪いだの膝が悪いだの、そればっかりだ」
「当たり前だろ。勇吉に土地聞いてどうすんだ。こいつは身体しか見てねえぞ」
「ほら、権蔵は俺のことよく分かってるな」
「褒めてねえぞ」
「そうなの?」
権蔵は呆れたように鼻を鳴らした。
「土地のことなら俺に聞け。昨日そう言っただろ」
「だから探してたんだよ」
「探してた? 俺をか?」
「そうだよ」
「嘘つけ。今会って驚いてたじゃねえか」
宗助が笑い出し、清兵衛は何も言い返せなかった。
権蔵が加わると、それまで何度も止まっていた話が急に進み始めた。
道沿いの家を指せば、そこに誰が住んでいるのか。空いた土地を見つければ、以前は何に使われていたのか。権蔵は昔からの付き合いを頼りに、清兵衛が知りたがっていたことを次々と教えていく。
清兵衛はそれを聞きながら、時折足を止めて確かめていた。
「あの空いてるところは、昔は馬を置いてたな」
権蔵が道から少し入った場所を指した。
「馬を置けるのか?」
宗助がすぐに反応した。
「昔はな。今どうなってるかまでは知らん」
「持ち主は?」
「向こうの家だ」
「あそこか?」
「違う。その裏」
「誰だ?」
「源八」
源八と言われても、勇吉の頭には顔が浮かばなかった。
「どの爺さん?」
「ほら、前にお前んとこ行っただろ。背中丸めた爺さんだ」
「ああ、左の腰が悪い爺さんか」
「それで分かるのかよ」
「最初からそう言えよ」
「普通は名前で分かるんだよ」
権蔵は呆れたように笑ったが、勇吉にはその方がずっと分かりやすかった。
*
源八の家は、中山道から少し入ったところにあった。
表から見ると普通の家だが、裏へ回ると古い小屋と広い空き地があり、その端には使わなくなった道具が積まれている。土の上には草が伸び、長く人が出入りしていない場所もあった。
源八は小屋の脇で薪を片付けていた。
背中を丸めたまま振り返り、勇吉たちに気づくと、挨拶より先に腰へ手を当てた。
「おう、勇吉。また腰見てくれよ」
「まだ痛えの?」
「朝が駄目だな。動き始めがつらくてよ」
「この前も言っただろ。朝からいきなり動くなって」
「そうは言っても、やることがあるんだよ」
「じゃあしょうがねえな」
「おい、そこは何とかしてくれよ」
「だから店来いって言ってんだろ」
源八が笑うと、勇吉もつられて笑った。
「それにしても、お前が朝からこんなところにいるなんて珍しいな」
「俺だってたまには外を歩くよ」
「仕事はどうした?」
「……それは聞かないでくれ」
「何だ、また酒でも飲みすぎたのか?」
「酒は関係ねえよ。昨日もちゃんと飲んだけどな」
「飲んでるじゃねえか」
二人で笑っていると、後ろから清兵衛の咳払いが聞こえた。
「ああ、今日は腰じゃねえんだ」
「じゃあ何だ?」
「裏の土地のこと聞きたいんだって」
「土地?」
源八は勇吉の後ろにいる三人を見た。
清兵衛が、県の役所がどうなるかはまだ分からないこと、もし人や馬が増えた時に使えそうな場所を調べていることを説明すると、源八は家の裏へ目をやった。
「あそこか」
「昔、馬を置いてたって聞いたんだが」
「ああ。今じゃほとんど使ってねえよ」
「少し見せてもらってもいいか?」
「見るくらいなら構わんぞ」
清兵衛の顔が明るくなった。
「本当か?」
「ただし、貸すかどうかは別だぞ。何に使うかも決まってねえんだろ?」
「まだ調べてるところだ」
「だったら、まず見てみろ」
源八がそう言うと、宗助はさっそく空き地の奥へ目を向けた。
以前は馬を置いていたというだけあって、場所には多少の余裕がある。ただ、古い小屋は傷んでおり、地面もところどころ荒れている。
「井戸はあるのか?」
宗助が尋ねた。
「裏の方にある。ただ、今も使えるかは知らんぞ」
「後で見せてもらっていいか?」
「構わんよ」
清兵衛と宗助が裏を調べ始めると、源八は当然のように勇吉を捕まえた。
「で、腰はどうなんだ?」
「今ここで診ろって?」
「せっかく来たんだからいいだろ」
「俺、土地見に来たんだけどな」
「お前が土地見てどうすんだ」
「……それもそうだな」
勇吉は苦笑しながら源八の身体を確かめた。
前に診た時ほど強く張ってはいないが、動き始めに無理をしているらしい。腰だけでなく、背中や脚の動きも確かめると、片側にばかり力が入っているのが分かった。
「ほら、こっちの脚、あんまり使えてねえだろ」
「そうなのか?」
「自分じゃ分かんねえかもしれねえけどな。腰が痛えから、知らねえうちに庇ってんだよ」
勇吉は源八にゆっくり身体を動かしてもらい、痛みの出ない範囲で動きを確かめた。
「前よりは悪くねえよ。ただ、朝いきなり重いもん持つな。少し身体動かしてから仕事しろ」
「忙しいんだよ」
「知らねえよ。痛えの俺じゃねえもん」
「冷てえな」
「動けなくなったら困るのは源八だろ」
「そりゃそうだ」
「今度ちゃんと店来いよ」
「分かった、分かった」
源八は笑いながら腰を伸ばした。
その頃には清兵衛たちも戻ってきていた。
「どうだった?」
権蔵が尋ねると、宗助は少し考えながら答えた。
「使えなくはなさそうだ。ただ、手を入れなきゃならんところはあるな」
「井戸も確かめたいし、馬を何頭置けるかも見なきゃならねえ」
清兵衛も頷いた。
「何より、使わせてもらえるかどうかだ」
源八は三人の話を聞きながら、ゆっくりと腰を下ろした。
「役所が来るって決まったわけじゃねえんだろ?」
「ああ」
「なら、決まってからまた話しな。今は勝手に話を進められても困る」
「分かった。今日は見せてもらって助かったよ」
清兵衛が頭を下げると、源八は軽く手を振った。
「まあ、勇吉が一緒に来たんだからな。話くらいは聞くさ」
勇吉は思わず顔を上げた。
「俺?」
「お前には何度も世話になってるからな」
「金もらって仕事してるだけだぞ」
「それでも、こっちが困った時には来てくれるだろ」
源八はそう言ってから、権蔵へ顔を向けた。
「権蔵とも長い付き合いだしな。お前らが何を考えてるのか、聞くくらいは構わんよ」
「じゃあ俺いらねえじゃねえか」
「何でそうなるんだよ」
権蔵が笑い、清兵衛もつられて笑った。
勇吉には、何がそんなにおかしいのか分からなかった。
ただ、源八が自分のことを覚えていてくれたのは、少し嬉しかった。
*
昼を過ぎても、四人の調査は続いた。
宗助は顔見知りの旅籠へ立ち寄り、急に客が増えたらどのくらい泊められるかを尋ねた。清兵衛は空いている建物や土地を見つけるたびに、権蔵へ持ち主を確かめている。
勇吉はその後ろを歩きながら、何度か知り合いに声を掛けられた。
荷を担いだ男からは肩の具合を相談され、店先に座っていた婆さんからは膝の痛みについて尋ねられた。
そのたびに清兵衛が何か聞きたそうな顔をするので、勇吉は先に言ってやった。
「土地のことは知らねえぞ」
「まだ何も聞いてねえよ」
「どうせ聞くんだろ」
「……まあ、聞こうとは思ってたけどな」
「ほらな」
宗助が笑う。
「でも、あの男は知ってるんだろ?」
清兵衛が先ほど肩のことを相談してきた男を指した。
「知ってるよ。右肩が上がらねえって何度か来てる」
「じゃあ、あいつの家は?」
「知らねえ」
「……そうか」
「何だよ、聞かねえの?」
「聞いても無駄だって分かったからな」
「失礼だな!」
清兵衛は笑いながら歩き出した。
勇吉は少し納得がいかなかったが、考えてみれば自分が土地の持ち主を知らないのは本当だった。
その代わり、町を歩けば知っている顔が次々と現れる。
長年この仕事をしてきたのだから当たり前といえば当たり前なのだが、こうして一日中歩いてみると、自分でも思っていた以上に多くの人と関わってきたらしい。
もっとも、そんなことを考えたところで、今日の仕事が減るわけではない。
そろそろ店に戻りたい。
そう思い始めた頃、道から少し入ったところに広い土地が見えてきた。
周囲の家々から少し離れており、馬を何頭か入れても余裕がありそうだった。中山道からもそれほど遠くない。
清兵衛はすぐに足を止めた。
「おい、ここはどうだ?」
宗助も土地を眺めた。
「場所は悪くねえな」
「だろ? 荷を置くにも使えそうだ」
清兵衛は嬉しそうに振り返った。
ところが、権蔵だけは土地の入口に立ったまま動かなかった。
「……ここはやめとけ」
「何で?」
「持ち主が嫌がる」
「まだ聞いてねえだろ」
「聞かなくても分かる。前から人に土地を貸すのを嫌がってんだ」
「でも、これだけ広いんだぞ」
「だから何だ」
権蔵の声が少し低くなった。
勇吉は二人の顔を見比べた。
清兵衛は土地を見ている。
権蔵は、その向こうにある家を見ていた。
同じ場所を見ているはずなのに、二人にはまるで違うものが見えているらしい。




