第二十六話 蕨には何がある③ 貸さない土地
清兵衛は、目の前に広がる土地をもう一度見渡した。
中山道からそれほど離れておらず、荷車が通れる道もある。周りの家との間には多少の距離があり、建物を建てるにも馬を置くにも都合がよさそうだった。昨日から探していた条件に、これほど合う場所はそうそう見つからない。
だが、権蔵の表情は険しかった。
「いや、権蔵。俺だって嫌がる相手から無理に借りようとは思ってねえよ。ただ、これだけ条件がいいんだ。話くらい聞いてみてもいいだろ」
「聞くだけならな。だが、あそこの家には昔から事情があるんだよ」
「事情って何だ?」
「人に貸したくねえんだ。それだけじゃ足りねえか?」
権蔵が顎で示した先には、古い家が一軒建っていた。
門の脇には背の低い植木が並び、庭先には割った薪がきれいに積まれている。軒下には使い込まれた農具が掛けられ、その向こうに見える畑にも、人の手が入っている様子があった。
清兵衛が使い道を考えている土地は、誰かの暮らしのすぐ隣にある。
「まあ、馬を置くには悪くねえけどな」
宗助は土地から道へ目を移した。
「ただ、馬が何頭も入れば水も餌もいるし、糞の始末だってしなきゃならねえ。近くに住んでる人間には、いいことばかりじゃねえぞ」
「そんなことは分かってるよ」
「だったら、持ち主が嫌がる理由も分かるだろ」
清兵衛は腕を組み、しばらく考えていた。
勇吉はそんな三人を眺めながら、ふと自分の店のことを思い浮かべた。ある日突然、誰かがやってきて、場所がいいから馬を置かせろと言い出したらどうするだろう。そんなもの、考えるまでもない。
「なあ清兵衛、お前の家の庭、誰かが馬置き場にしたいって言ったら貸すか?」
「何で俺の家なんだよ」
「広いだろ」
「広くねえよ」
「じゃあ、もっと広かったら?」
「……条件によるな」
「ほら、お前だってすぐには決められねえだろ」
「そりゃそうだけどよ」
「だったら、あそこの人だって同じじゃねえの?」
清兵衛は勇吉を見た後、土地の向こうにある家へ目を向けた。
「分かったよ。無理に頼むつもりはねえ。ただ、使える場所が見つかったと思うと、どうしても先にそっちを考えちまうんだ」
「お前は昔からそうだな」
権蔵が苦笑した。
「悪いことじゃねえよ。だが、土地には持ち主がいるってことを忘れるな」
「分かってるって」
「だったら、まず挨拶だけしておこう。人んちの土地を眺め回して、黙って帰るのも気分が悪いだろ」
権蔵が門へ向かうと、清兵衛と宗助も後に続いた。
勇吉は少し離れたところから庭を眺めていたが、置いていかれるのも面倒なので、仕方なく三人の後を追った。
*
権蔵が門の外から声を掛けると、家の奥で人の動く気配がした。
しばらくして姿を現したのは、白いものが混じった髪を後ろでまとめた年配の男だった。手には使い古した布を持っており、何かの作業をしていたところらしい。
「権蔵か。何だ、今日は大勢連れて」
「ちょっと町を見て回っててな。お前んところの前を通ったから、顔だけでも出そうと思ってよ」
「町を見て回る?」
男は権蔵の後ろにいる三人を見比べた。
清兵衛が一歩前へ出て名乗ると、男はすぐに思い当たったようだった。
「ああ、お前さんか。親父さんには昔、世話になったことがあるよ」
「そうでしたか」
「それで、何を調べてるんだ?」
清兵衛は、浦和へ行って役所の周りを見てきたことや、蕨でも県庁を迎えられるか考えていることを簡単に説明した。まだ何も決まっておらず、今日は町にどんな土地や建物があるのかを確かめているだけだと付け加えると、男は途中で口を挟まずに聞いていた。
ただ、話が終わる頃には、男の視線は家の脇に広がる土地へ向いていた。
「なるほどな。あそこが使えそうだと思ったわけか」
「ええ。ただ、今日は借りたいとお願いに来たわけではありません」
「そうか」
男は手に持っていた布を畳み、庭先の腰掛けに置いた。
「だったら先に言っておく。あの土地は貸さんぞ」
清兵衛が口を開きかけたところで、権蔵が軽く手を上げた。
「分かってるよ。今日は挨拶だけだ」
「ならいい」
男はそう言って庭の方へ歩きかけたが、途中で足を止めた。
「別に、お前さんたちが悪いって言ってるわけじゃねえんだ。ただ、あそこは親父が苦労して手に入れた土地でな」
昔は家族総出で畑を耕し、収穫が悪い年には食うものにも困ったという。男がまだ小さかった頃、父親は暗くなっても畑から戻らず、母親が何度も呼びに行っていたらしい。
「俺も随分と働いたよ。今じゃ身体がついてこなくなっちまったけどな」
男は苦笑しながら、自分の膝を軽く叩いた。
庭の奥には一本の木が立っていた。屋根より少し高いところまで枝を伸ばし、幹には長い年月を感じさせる深い筋が刻まれている。
「あれも親父が植えた木だ。俺が小さい頃は、まだこんなもんだった」
男は腰の辺りに手をかざした。
「今じゃ、あの木の方が俺よりよっぽど元気だよ」
勇吉が木を見上げると、枝の間を抜けた風が庭の土を撫で、軒下に吊るされた古い縄を揺らした。
清兵衛が使い道を考えていた土地は、確かに今はほとんど使われていない。それでも、男にとっては何もない場所ではなかった。
「空いてるから使わせろって話は、前にもあったんだ」
男は木から視線を戻した。
「使ってねえのと、いらねえのは違うんだよ。俺が死んだ後なら、残った者が好きにすりゃいい。だが、生きてるうちは今のままにしておきてえんだ」
権蔵は黙って頷いていた。
清兵衛も、先ほどまでのように土地へ目を向けることはなかった。
「県庁が来りゃ蕨が賑やかになるって話は、俺も聞いてる。商売してる連中にはいいことだろうし、若い奴らが頑張るのも悪かねえ。ただな、俺みたいに今の暮らしで十分だと思ってる人間もいるんだよ」
「分かりました」
清兵衛は静かに頭を下げた。
「今日は突然お邪魔してすみませんでした。お話を聞かせてもらえてよかったです」
「いや、こっちこそ長々と喋っちまったな」
男は少し照れたように笑った。
「俺は蕨が栄えるのが嫌なわけじゃねえんだ。それだけは分かってくれよ」
「もちろんです」
話が済み、権蔵が礼を言って帰ろうとしたところで、勇吉は男の歩き方が気になった。
腰掛けから離れる時、男は左脚へ体重を移してから右脚を出していた。膝を曲げるのを避けるような動きで、歩幅も左右で少し違っている。
「なあ、爺さん」
「何だ?」
「右の膝、痛えの?」
男は驚いて足を止めた。
「……何で分かった?」
「さっきから右だけ庇って歩いてるから。畑仕事、つらくねえか?」
「まあな。朝なんか、しばらく動かねえと駄目だよ」
「いつから?」
「もう何年にもなるかねえ。最近は前より痛むようになった」
勇吉は男の足元を見てから顔を上げた。
「無理して動いてるだろ。痛え方を庇ってると、反対の脚や腰までつらくなるぞ」
「そうなのか?」
「そういうこともある。今度、気が向いたらうちの店に来てみなよ。歩くのがつらけりゃ家でも診るぞ」
「お前さん、身体を診る仕事をしてるのか」
「そうだよ。土地のことはさっぱりだけどな」
清兵衛が横で小さく笑った。
男はしばらく勇吉を見ていたが、やがて口元を緩めた。
「そうか。じゃあ、そのうち頼むかもしれんな」
「おう。別に今日決めなくてもいいからな」
「土地も身体も、すぐには決められねえってことか」
「身体は痛えなら早めの方がいいぞ。土地は知らねえけど」
男が声を出して笑うと、権蔵もつられて笑った。
門を出る際、男は権蔵に昔と変わらぬ調子で、たまには飲みに来いと声を掛けた。権蔵が忙しいからそのうち行くと答えると、男は「昔からそればっかりだ」と笑いながら家へ戻っていった。
土地を借りる話は一歩も進まなかったが、清兵衛の表情は思ったほど暗くなかった。
*
中山道へ戻ると、清兵衛は先ほどの家を一度だけ振り返った。
「惜しい土地だったな」
「まだ言ってんのか」
権蔵が呆れたように言うと、清兵衛は苦笑した。
「条件がよかったのは本当だろ。ただ、あの爺さんの話を聞いたら、もう借りようとは思わねえよ」
「それでいいんだ」
宗助は二人の話を聞きながら、荷車が通り過ぎるのを待っていた。
「馬置き場なら、ほかを探せばいいさ。あの場所に何頭も入れたら、家のすぐそばで世話することになる。あの爺さんが静かに暮らしたいってんなら、なおさら向いてねえ」
「そうだな。広さと道ばっかり見てたよ」
清兵衛が素直に認めたので、勇吉は少し驚いた。
「お前、今日はやけに物分かりがいいな」
「何だよ、それ」
「いつもなら、もう少し粘るだろ」
「俺だって相手を見て考えるさ」
「へえ」
「何だ、その顔は」
「いや、清兵衛も大人になったなと思って」
「お前と同じくらい生きてんだよ!」
宗助が吹き出し、権蔵まで笑い出した。
勇吉も笑ったが、先ほどの地主が庭木を見上げていた姿が、妙に頭に残っていた。
土地を貸すのが嫌だと言うから、てっきり気難しい爺さんなのかと思っていた。ところが実際に話してみれば、昔のことをよく覚えている、ごく普通の男だった。
「なあ、権蔵。ああいう人、ほかにもいるんだろ?」
「そりゃいるさ。土地を貸したい奴もいりゃ、絶対に嫌だって奴もいる。先祖代々の土地を守りたい奴もいれば、子や孫のために何か始めたい奴もいるだろうな」
「みんな違うんだな」
「当たり前だろ。同じ蕨に住んでたって、考えてることまで同じじゃねえよ」
勇吉は頷きながら、道沿いの家々を眺めた。
旅籠の前では女が客の荷を運ぶのを手伝い、向かいの店では主人が軒先に品物を並べている。顔を知っている者もいれば、見たことはあっても話したことのない者もいた。
毎日歩いている道なのに、今日は妙にいろんなものが目に入る。
「それにしても、あの爺さん、膝が悪かったな」
「結局そこかよ」
清兵衛が笑った。
「だって、痛そうだったぞ」
「お前は何でも身体のことに結びつけるな」
「仕事だからな」
「だったら、そろそろ自分の仕事に戻れよ」
「俺もそうしたいんだよ!」
勇吉が声を上げると、宗助は笑いながら、そろそろ岡田家へ戻ろうと言い出した。
朝から歩き通しで、日も少し傾き始めている。今日見てきたことを加兵衛に伝えれば、ようやく解放されるはずだった。
勇吉は店を空けることを気にしていた。出がけに用事があるとは伝えてきたものの、身体を診てもらおうと訪ねてくる者がいないとも限らない。普段から顔を出す馴染みの客のことを思うと、いつまでも町を歩き回っているわけにもいかなかった。
もっとも、昨日も同じことを考えた気がする。
*
岡田家へ戻ると、加兵衛は部屋で帳面を広げていた。
四人が揃って入ってくると、権蔵まで一緒にいることに少し驚いたようだったが、すぐに席を勧めた。
「それで、蕨はどうだった?」
清兵衛は朝から見てきた土地や建物について、順を追って話し始めた。
空き家はいくつかあったが、持ち主が別の場所に住んでいるところもあり、すぐに使えるとは限らない。昔、馬を置いていた土地も見つかり、井戸まで残っていたものの、使えるかどうかは確かめる必要があった。
宗助は、今ある旅籠でどの程度の客を受け入れられるか、馬の数が増えた場合に何が必要になるかを説明した。
「馬を置くなら、場所の広さだけじゃ足りねえ。水を汲む場所が遠けりゃ世話が大変だし、馬を連れて出入りする道も考えなきゃならねえ。源八のところは昔の井戸が残ってたが、今も使えるかは分からねえんだ」
「井戸まで見てきたのか」
加兵衛が感心すると、宗助は頷いた。
「使うかどうかはまだ先の話だが、後で慌てねえように見ておいた方がいいと思ってな」
加兵衛は時折質問を挟みながら聞いていたが、源八の土地の話になると顔を上げた。
「それで、土地を見せてもらえたのか?」
「ああ。勇吉が昔から診てる爺さんでな」
「ほう」
「ただ、貸すかどうかは別だって言ってた。今は何も決まってねえんだから、そりゃそうだろうな」
清兵衛の言葉に加兵衛は頷き、続いて最後に訪ねた地主の話を聞いた。
広さも場所もよかったが、持ち主は土地を貸すつもりがないこと。父親から受け継いだ土地を、今のまま残しておきたいと考えていること。
清兵衛が話し終えると、加兵衛はしばらく帳面に目を落としていた。
「それで、無理には頼まなかったんだな?」
「ああ。権蔵にも止められたし、話を聞いたら俺も納得したよ」
「ならいい」
加兵衛は筆を置いた。
「県庁を呼ぶために、蕨の人間同士で揉めてちゃ意味がねえ。使わせてもらえる土地と、そうでねえ土地をきちんと分けて考えよう」
「そうしてくれ」
権蔵が頷いた。
「昔からの付き合いがあるんだ。役所が来るかも分からねえうちから、余計な揉め事は起こしたくねえ」
「分かってるよ」
加兵衛は帳面を清兵衛の方へ寄せた。
「それなら、今日見てきた場所をここに書き出してくれ。持ち主が分かるところは名前も頼む。宿と馬のことは宗助、お前に任せたい」
「分かった」
「権蔵には、話を通せそうな相手を教えてもらいたい。今すぐ頼みに行くんじゃねえぞ。まず、誰と相談すべきかを知りたいんだ」
「それなら手伝える」
三人がそれぞれ頷くのを見て、勇吉は少し安心した。
土地は清兵衛、宿と馬は宗助、持ち主のことは権蔵。これなら自分の出番はないはずだ。
ところが、加兵衛は最後に勇吉を見た。
「それで、お前はどうだった?」
「俺?」
「一日歩いたんだろ。何か気づいたことはねえのか?」
「腰の悪い爺さんが多かったな」
清兵衛が思わず顔を上げた。
「またそれかよ!」
「本当だって。膝の悪い婆さんもいたし、肩が上がらねえ男もいたぞ」
「お前、今日も仕事してたのか?」
「仕事はしてねえよ。話聞いただけだ」
宗助が笑うと、加兵衛もつられて口元を緩めた。
「そうか。それで、知ってる人間には随分会えたんだな」
「まあな。蕨を歩けば、誰かしら声掛けてくるよ」
「源八もお前が一緒だったから、土地を見せてくれたんだろ?」
「権蔵もいたぞ」
「それはそうだが、長く付き合ってる相手がいるってのは大事なことだ」
加兵衛は帳面を閉じ、少し考えるように腕を組んだ。
「土地があっても持ち主が嫌がりゃ使えねえし、宿があっても主人が引き受けなきゃ客は泊められねえ。役所を呼ぶってのは、建物を一つ用意すりゃ済む話じゃねえんだな」
「そういうことだ」
権蔵が答えた。
勇吉は加兵衛の話を聞きながら、昼間の地主を思い出した。あの男も、蕨が栄えること自体を嫌がっていたわけではない。ただ、自分の土地と暮らしは守りたかったのだ。
「まあ、みんな自分の暮らしがあるからな」
勇吉が何気なく言うと、加兵衛は頷いた。
「ああ。だから、こっちの都合だけで話を進めるわけにはいかねえ」
その後、加兵衛はしばらく帳面を眺めていたが、やがて一枚の紙を取り出した。
「さて、浦和も見た。蕨も見た。そろそろ次のことを考えよう」
「次って?」
清兵衛が尋ねた。
「県の役人に話を聞いてもらうんだよ」
宗助が顔を上げた。
「いよいよか」
「まだ決まったわけじゃねえ。まず、蕨でも役所を受け入れられるかもしれねえってことを伝えなきゃならん。そのためにも、今日見てきたことをきちんとまとめておきたい」
「誰に話を持っていくんだ?」
「そこが問題なんだよ」
加兵衛は紙の上に筆を置いた。
「浦和で話を聞いた高梨庄兵衛のこともある。向こうの事情を知ってる人間はいるが、県の役人に直接話を通すとなると、別の考えが必要だろうな」
清兵衛は腕を組み、宗助も黙って考え始めた。
勇吉だけは、嫌な予感がしていた。
「なあ、それって俺もやるの?」
「お前も今日見てきたことを話してくれりゃいい」
「もう話したぞ。腰の悪い爺さんが多かったって」
「それは聞いたよ」
「じゃあ終わりだろ」
「そう簡単に終わるかよ」
清兵衛が笑うと、加兵衛も楽しそうに頷いた。
「まあ、今日はもういい。明日からは、集めた話を整理することにしよう」
「明日も?」
「当たり前だろ」
「嘘だろ……」
勇吉は思わず天井を見上げた。
昨日は浦和、今日は蕨。明日こそ店に戻るつもりだったのに、どうやらそう簡単にはいかないらしい。
「俺、そろそろ仕事しねえと困るんだけどな」
「分かってるよ。お前にはお前の仕事がある。ずっと付き合わせるつもりはねえ」
「本当か?」
「ああ。必要な時には頼むけどな」
「結局呼ぶんじゃねえか」
部屋に笑い声が広がった。
清兵衛と宗助が立ち上がり、権蔵も腰を上げたところで、勇吉はふと思い出したように加兵衛へ声を掛けた。
「なあ、今日は酒出る?」
「出ねえよ」
「昨日も出なかったぞ」
「だから何だ」
「二日続けてだぞ」
「何を数えてんだ、お前は」
加兵衛が呆れると、清兵衛はとうとう声を出して笑った。
*
岡田家を出る頃には、夕暮れの光が中山道を赤く染め始めていた。
権蔵は家の用事があると言って、途中の辻で三人と別れた。別れ際にも清兵衛へ、土地の話を進めるなら先に声を掛けろと念を押していたが、清兵衛は笑いながら分かってると答えていた。
旅籠の前では、遅れて到着した旅人が荷を下ろしている。店先では夕飯の支度が始まり、どこかから焼いた魚の匂いが流れてきた。朝から歩き回っていたせいか、その匂いを嗅いだ途端、勇吉の腹が鳴った。
「腹減ったな」
「お前、さっきからそればっかりだな」
清兵衛が笑った。
「朝から歩いてたんだからしょうがねえだろ」
「お前は何でも面倒だろ」
「そんなことねえよ。酒飲むのは面倒じゃねえぞ」
「それはみんな知ってる」
清兵衛が即座に答え、宗助が笑った。
道の向こうでは、顔見知りの男が店じまいをしていた。勇吉に気づくと軽く手を上げ、勇吉も片手を上げて応える。少し先では、昼間に会った婆さんの家族が戸口に立っていて、今度はいつ店へ行けばいいかと声を掛けてきた。
勇吉は立ち止まり、都合のいい日を伝えてから二人の後を追った。
「また患者か?」
「そうだよ」
「お前、今日だけで何人に声掛けられたんだ?」
「知らねえよ。数えてねえもん」
清兵衛は笑ったが、それ以上は何も言わなかった。
いつもの蕨宿の夕暮れだった。荷車の軋む音に旅人の話し声が重なり、軒先からは夕餉の匂いが漂ってくる。毎日通っている道だというのに、勇吉は昼間の地主が庭木を見上げていた姿を思い出し、道沿いの家々へ何となく目を向けた。
あの家でも、そろそろ夕飯の支度をする頃だろう。
「なあ、勇吉」
前を歩く宗助が振り返った。
「何だ?」
「今日はまっすぐ帰るのか?」
「何で?」
「いや、桜屋の前を通るからな」
「そりゃ寄るだろ」
「やっぱりな」
清兵衛が笑った。
「明日もあるんだから、ほどほどにしとけよ」
「分かってるって。今日は三杯くらいにしとくよ」
「三杯で済むのか?」
「……徳利で?」
「駄目だこりゃ」
宗助が呆れたように笑い、清兵衛も肩を揺らした。
桜屋の暖簾の向こうからは、もう客たちの賑やかな声が聞こえてくる。勇吉が先に暖簾をくぐると、長い台の向こうにいたお咲が顔を上げた。
「あら、勇吉。今日も三人一緒なの?」
「おう。女将、酒頼む!」
「はいはい。今日も元気だねえ」
奥からお鈴が顔を出した。
「勇吉さん、今日も随分歩いてきたんでしょ? 飲みすぎないでね!」
「何で分かるんだよ!」
「そんな顔してるもん!」
お鈴が笑うと、清兵衛も宗助も声を上げて笑った。
「ほら、勇吉さん。座って座って。父ちゃんに何か作ってもらうから」
「おう、頼むよ。腹減ってんだ」
「お酒より先に食べた方がいいよ」
「お鈴、お前までそんなこと言うのか?」
「だって勇吉さん、いつもお酒ばっかりなんだもん!」
お鈴が笑いながら奥へ引っ込むと、勇吉は清兵衛と宗助を振り返った。
「なあ、俺ってそんなに酒ばっかり飲んでるか?」
二人は顔を見合わせた。
「……今さら聞くのか?」
清兵衛が答えると、宗助はとうとう腹を抱えて笑い出した。
勇吉もつられて笑い、女将が運んできた徳利へ手を伸ばした。
蕨宿の夜は、今日も賑やかだった。




