第二十七話 県庁は岩槻①
# 第二十七話 県庁は岩槻①
翌朝、勇吉はいつもより少し早く店を開けた。
昨夜は桜屋で清兵衛と宗助に散々笑われ、お鈴には酒を飲みすぎるなと小言まで言われたが、酒も飲めたし腹も満たされた。勇吉にしてみれば、十分いい夜だった。
今日は仕事をする。
昨日は蕨を歩き回り、一昨日は浦和まで行った。その前から土地だ役所だと呼び出され、気がつけば本来の仕事より外を歩いている時間の方が長くなっている。県庁がどこへ行こうが腰の痛い者はいるし、肩の上がらない者もいる。それを診てやるのが自分の仕事で、土地の持ち主を覚えることではない。
戸を開けると、朝の中山道にはすでに人の声が行き交っていた。旅籠の前を馬が通り、向かいの家からは飯を炊く匂いが流れてくる。昨日は同じ道を歩きながら、どこに馬を置けるか、どの家が使えそうかと考えていたが、今日はそんなことを気にする必要もない。
店の中へ戻って道具を確かめていると、間もなく最初の客がやってきた。
顔馴染みの男で、普段から荷を扱う仕事をしている。以前にも何度か背中を診ているが、今日は店へ入ってきた時から腰を庇うような歩き方をしていた。
「今日はどうした?」
「腰が痛えんだよ。昨日からどうにも具合が悪くてな」
「また重いもんでも運んだか?」
「米俵を何俵かな。いつもより数が多くてよ」
「そりゃ大変だったな。ちょっと立ってみな」
勇吉は男の立ち方を確かめ、腰へ手を当てた。普段から重い荷を扱っているだけあって身体は丈夫そうだが、今日は右の腰を庇うように力が入っている。
「昨日は随分無理したんじゃねえか?」
「まあな。仕事だからしょうがねえよ」
「そうだろうけど、身体が動かなくなったら仕事どころじゃねえぞ」
「分かっちゃいるんだけどな」
男は苦笑した。
勇吉はそれ以上小言を言わず、腰から脚へと身体の具合を確かめていった。何度か動きを見ながら張りの強いところを緩めてやると、男は最初より楽そうに立ち上がり、恐る恐る腰を曲げてみせた。
「お、さっきより楽だぞ」
「よかったな。今日はあんまり無理すんなよ」
「そうしたいんだけど、まだ仕事が残ってんだよ」
「だったら、せめて休める時には休んどけ」
「分かったよ。また頼むわ」
男は礼を言って帰っていった。
その後も客は続き、肩の上がらない女を診て、その次には膝の悪い爺さんがやってきた。身体の具合を尋ねながら手を動かしているうちに、朝から続いていた街道の騒がしさも気にならなくなっていた。
昼前になってようやく一息つけるかと思ったところで、見覚えのある男が戸口に立った。顔を見ただけでは誰だったか思い出せなかったが、右脚を庇うような歩き方には覚えがある。
「あ、浦和の腰」
「人のこと腰で覚えるなよ」
男は呆れたように笑った。
この前、浦和で荷を扱っていた男だった。仕事の途中で腰を痛め、勇吉が少しだけ診てやった相手である。あの時は場所も時間もなかったので、ちゃんと診るなら蕨まで来いと言った覚えがあった。
まさか本当に来るとは思っていなかった。
「本当に来たのか?」
「お前が来いって言ったんだろ」
「そうだったな。わざわざ浦和から来たのか?」
「この前は随分楽になったからな。また痛くなったら蕨まで行こうと思ってたんだよ」
「そりゃ嬉しいね。まあ、せっかく来たんだ。ゆっくりしていきな」
勇吉が中へ招き入れると、男は腰を押さえながら敷居をまたいだ。浦和で診た時より歩き方が悪くなっており、腰を下ろすのにも苦労している。
「前より痛そうだな。いつからだ?」
「二、三日前からだよ。仕事してるうちにだんだん痛くなっちまって」
「そうか。じゃあ、まず身体を見せてもらおうか」
勇吉は男の腰と脚の動きを確かめた。以前より右脚を動かしにくそうにしており、腰だけでなく太腿にも強い張りがあった。
「腰だけじゃなくて、脚も随分張ってるな」
「脚もか?」
「ああ。痛いのは腰でも、悪いのが腰だけとは限らねえからな」
「この前もそんなこと言ってたな」
「よく覚えてんな」
「そりゃ覚えてるよ。おかげで楽になったんだから」
勇吉は少し嬉しくなったが、顔には出さず、男を横にさせて身体を診始めた。
外では中山道を行く人の声が続き、時折、荷車の軋む音が聞こえてくる。男は最初こそ身体に力を入れていたが、しばらくすると緊張が抜け、話をする余裕も出てきた。
「そういや、蕨は何やってんだ?」
「俺か? 俺はお前の腰を診てる」
「お前じゃねえよ。町だよ」
「町?」
「浦和じゃ噂になってるぞ。蕨が県庁を欲しがってるって」
勇吉は手を動かしながら男の顔を見た。
「何で浦和でそんな話になってんだ?」
「中山道を人が行ったり来たりしてんだ。話くらい伝わるだろ」
勇吉は昨日、清兵衛たちと蕨を歩き回ったことを思い出した。あれだけあちこちで土地や宿のことを尋ねていれば、誰かの耳に入っていてもおかしくない。
「それ、俺もやらされたんだよ」
「やらされた?」
「昨日は朝から土地を見て歩いたんだ。俺なんか土地のことはさっぱりなのにな」
「お前もやってんじゃねえか」
「俺は腰と膝しか見てねえよ」
男は笑った。
「それで、蕨は本気なのか?」
「俺に聞かれても分かんねえよ。清兵衛たちは随分張り切ってるけどな」
「そうか。浦和じゃ面白くねえって奴もいるぞ」
「何が?」
「役所だよ。今まで浦和に人が来て、馬が来て、荷が来て、それで商売してる奴がいるんだ。もし役所が蕨へ移ったら、困る奴も出てくるだろ」
勇吉は浦和で見た旅籠の賑わいを思い出した。あの店の主人も、役所が移ると聞けば気が気ではないだろう。
「庄さんも気にしてたぞ」
「庄さん?」
「ほら、この前一緒にいたろ。高梨の庄兵衛さんだよ」
「ああ、鰻の人か。早く言えよ」
「名前で覚えろよ。あと、それ本人に絶対言うなよ」
勇吉は笑った。庄兵衛には浦和で随分世話になったが、役所の周りを案内してもらったことより、鰻を食べた時のことの方が印象に残っている。
「それで、庄さんは何て?」
「蕨は本気なのかってさ。俺も詳しいことは知らねえけど、向こうじゃ気にしてる奴がいるって話だよ」
「ふうん」
勇吉は男の腰へ手を戻した。
「それより、さっきより腰はどうだ?」
「お、そういや随分楽だな」
「そうか。じゃあ、ちょっと立ってみな」
男はゆっくり身体を起こし、立ち上がってから慎重に歩いてみた。来た時より右脚へ体重が乗るようになっており、腰を曲げても先ほどほど痛まないらしい。
「こりゃ助かった。また悪くなったら来るわ」
「悪くなる前に来いよ。あんまり無理すんな」
男は礼を言って戸口へ向かったが、敷居をまたぐところで一度振り返った。
「庄さんには言っとくぞ」
「何を?」
「腰は良くなったって」
「おっ、いいね。だったら大げさに褒めといてもいいぞ」
「蕨のこともな」
「だから俺に聞くなって」
男は笑いながら中山道へ出ていった。
勇吉はその背中を見送り、使った道具を片づけ始めた。浦和からわざわざ身体を診せに来てくれたのは嬉しいが、県庁の話まで一緒に持ってこられては、何のために今日は店へ戻ったのか分からなくなる。
その後も何人か客が訪れ、勇吉はいつも通り身体を診て一日を過ごした。
夕方近くになり、ようやく客が途切れたところで、勇吉は戸口に腰を下ろした。中山道には荷車が行き交い、旅籠の前では馬を引いた男が主人と何か話している。
以前なら気にも留めなかった光景なのに、今日は馬が通るたび、その後ろの荷や行き先まで目に入ってしまう。
夕暮れの中山道を、一台の荷車が通り過ぎていった。
勇吉は何となくその行き先を目で追い、ふと自分が何を気にしているのかに気づいた。
「……何だかなあ」
苦笑しながら店へ戻ると、戸口に立てかけていた道具を片づけ始めた。




